A SPOOKY GHOST 第四十七話 ターンアラウンド(4)

 廊下で奈緒の腕を放し、慌ただしく浴室へ行くと、ハルイチは給湯器の電源を入れた。
 湯の流れ落ちる音を聞き、疲れがどっと押し寄せる。はあ、と長い息を吐き、洗い場の床に、どかりと腰を下ろした。
 浴槽へもたれかかり、天井を仰ぎながら、成るように成れと開き直るしかなかった。
 呼吸を整えて立ち上がり、湯気が立ちこめてきた浴室を後にすると、奈緒の姿を捜した。とっくに廊下から姿を消しており、恐らく居間だろうと見当をつけ、奥のドアを開けた。
 思った通り、ベランダへと面した窓の前に、彼女はいた。照明が点いていない暗い居間の中で、膝を抱えて座り込み、どこを見るでも無く惚(ほう)けた表情のまま、傷だらけの顔を無防備に晒している。
 外から差し込む街の明かりに照らされ、浮かび上がる、そんな奈緒の横顔を見ながら、ハルイチは電気のスイッチを入れた。
「着替え、持ってきてるよな?」
 彼の問いかけに顔を上げ、眩しそうに目を細めた彼女は、力無く首を左右に振った。
「お前さあ……そのデカいバックの中に、何を入れてんだよ」
 ハルイチが窓際へ近付き、奈緒の傍(かたわ)らにあるスポーツバッグをのぞき込むと、彼女は腕を伸ばし、ファスナーを開けた。
「親戚がお祝いをしてくれるっていうから……実家へ持って行ったの」
 やっぱり家に帰っていたのか、と納得しながらバッグの中身に目をやり、ハルイチは息を止めた。
 鈍い光を放つ太い皮ベルトの上で、CHAMPION ・OPBFと刻印された、黄金のプレートが輝いている。ボクサーなら誰もが、いつの日かそれを巻くのだと信じて疑わない、王者の証しだ。
「本物……」
 思わず感嘆の声を漏らすハルイチの背後へ回り、奈緒は無造作にベルトをつかみ上げると、有無をいわせず彼の腰に巻き付けた。
「ちょっと、おい!」
 ハルイチは驚き、肩越しに振り返ったが、途端に手をつかまれ、引っ張られた。
「待てよ、奈緒! 一体、どこへ……」
 引きずられるように廊下へ連れ出され、顔色を変えた。彼女が真っ直ぐに玄関脇の部屋へ向かい、ドアノブに手を掛けたからだ。
 その部屋は、とハルイチが止めるよりも先に、奈緒は扉を開け、中に入った。
 つんのめるように部屋へ足を踏み入れてしまい、かろうじて壁際のスイッチに手を伸ばしたハルイチは、気が付けば奈緒と隣り合い、煌々(こうこう)と灯る明かりの下、大きな姿見の前に立っていた。
「こんなの飾りだよ、ハルイチ」
 呆然としながら彼女の声を聞き、ハルイチは繋いだままの手を強く握り返す。
「こんなもの持ってたって、何の意味も無い」
 不思議だが、キャリアを積んだボクサーほど、その手は柔らかい。年中グローブをはめることで汗をかき、ふやけるせいなのかもしれないが、奈緒の手も例に洩れず、ふんわりと滑(なめ)らかだった。
「安森さんの部屋にも、たくさんあった。ベルトだけじゃない。賞状やトロフィーがいっぱい」
 ハルイチと寄り添い、無表情に話をする奈緒が、鏡に映っている。黒いジャージの上下を着る彼女と、スポーツブランドのロゴが入った白いロングスリーブシャツに紺のハーフパンツを合わせ穿くハルイチが並ぶと、高校生の頃に返ったようだった。
「西日が強く差し込む、色あせた和室に、ずらっと並んでるの。それこそ、部屋を占領してしまうくらい。でも、彼が住んでるアパートは、二階へ上がる外階段も錆び付いてる、古臭いアパート。道路に食(は)み出すくらい、自転車がたくさん停められていて、駐車場もない」
 ハルイチはぼうっとしながら、奈緒の話に耳を傾けた。
 見かけは変わらずとも、友達というには親密で、恋人と呼ぶには距離があった、あの頃とはだいぶ違う。彼女は今や、名門ジムの看板ボクサーで、世間にも広く名を知られる存在だ。
「九回も連続して、世界王座を防衛してるチャンピオンだよ? そんな人が、学生の住むような、みすぼらしいアパートに住んでること自体、あたしには信じられない」
 そんな奈緒と密室で互いの手を取り合い、よりによって彼女が付き合っていた男の話を聞きながら、鏡を眺めている。
「ボクサーの成功って、何? お金じゃないとしたら、名声? 尊敬? 栄誉? でも、どれも勝ち得ないんだったら、何のためにボクシングをするの?」
「奈緒。お前さ、ボクシングが嫌いなのか?」
 苛立ちも露わに問い返し、隣に立つ彼女の横顔を睨み付けた。
「意外だよ。名声とかに無頓着なのは、お前の方だと思ってたんだけどな」
 鏡を見つめたまま返事をしない彼女の手を放し、背を向けたハルイチは、チャンピオンベルトを外した。それを手近な台の上にそっと置き、壁面のクローゼットを開けた。
「……ひとつ、聞きたいんだけど。どうしてこの部屋に、姿見があるって知ってたんだ?」
 中にある引き出しのひとつを開けると、浴衣と下着を取り出した。かつて入院していた母親の為に、買い揃えたものだ。
「まあ、いいよ」
 投げやりにいい、それらを鏡の前に立つ彼女へ、差し出した。
「死んだ人間ので悪いけどさ……とにかく風呂に入ってこいよ。けっこう汗かいてたし、吐いたりもしたからな。いつまでも、そんな臭い格好させらんねえし、今着てるのだって洗濯すりゃ、ウチには乾燥機もあるから、すぐ乾くよ」と、目を合わせないまま、いった。
「泊まってくんだろ?」
 ハルイチが床を見ながら告げ、奈緒は素直に彼の手から着替えを受け取った。
「あたし、目が覚めた時、自分がどこに居るのか、分からなくて……」
 彼女がようやく口を開き、ハルイチは顔を上げた。
 渡されたものを胸の前で握り締め、「ハルイチにおぶられて、ここまで来たのは、何となく覚えてる」と伏し目がちに、奈緒はいった。
「でも、どこか記憶も曖昧で、起きた時、家の中をあちこちのぞいてみたの。この部屋も……」
 束の間の沈黙が流れ、「ねえ、訊いてもいい?」と上目遣いに視線を向けられたハルイチは、「ん? 何?」とぎこちなく口元を緩めた。
「ここ、亡くなったお母さんの部屋なの?」
「そうだよ」
 怪訝そうに部屋の様子を見やる彼女の、不可解に思う気持ちが、手に取るように分かる。
 母親が死んだのは、もう四年も前のことだ。けれども部屋は、未だ雑多な物に溢れていて、きちんと掃除もなされている。何ひとつ捨てられないまま、母が住み続けているかのように、生前の暮らしぶりをそのまま残していた。
「あたし今夜、この部屋で寝てもいい?」
 時折シーツが取り替えられ、今すぐにでも使えるよう整えられたベッドに目をやり、そう切り出した奈緒へ、「やめた方がいい」と、ハルイチは即座に首を左右に振った。
「ここで……この部屋で、オレの母親は自殺したんだ」
「それは、ここで私には寝て欲しくないっていう意味?」
「違うよ。それを知っていて、寝たがるヤツなんかいねえだろ、フツー。だから、教えただけで……」
「だったら、ここで寝る。スプーキーゴーストの異名を持つあたしが、そんなコト怖がる訳ないでしょ?」
 間髪を入れずに返ってくる彼女の言葉ひとつひとつが、あまりにも思いがけないもので、さすがのハルイチも耳を疑った。
「あたし、ハルイチと話をして、ようやく見えた気がする」
 不意に奈緒はいい、ドアへと向かった。
「あたしは、人に認められるためにボクシングをやっているんじゃない」
 振り向いた彼女の目線が、見えない何かを探すように、宙を彷徨う。ハルイチも釣られて、部屋の中をぐるりと見回した。
「あたしが、ボクシングを続ける理由……ランナ・コムウットと戦う目的……」
 奈緒は顔にかかる長い黒髪をかき上げ、再びドアと向き合うと、レバーに手を置いた。
 ――あたしは、やれる。
 小さく動いた唇の隙間からわずかな声を漏らし、彼女は部屋を出て行った。ぱたんと扉が閉まり、代わって、洗面所と浴室がある、隣の部屋のドアを開け閉めする音がする。
 今日幾度となく吐いた長いため息を、再びハルイチは繰り返した。
(奈緒のお陰でもあるんだ)
 プロデビュー後、十三戦目にして日本タイトルへ挑戦する機会を得た。
 ――打たせて、打つ。
 相手に好きなだけパンチを打たせ、疲れたところを強襲するという意味ではない。わざと隙を作って相手の攻撃を誘い、そこを狙い撃つ。そういう意味だ。
(会長の方針、打たせないで、打つ。それに反するけど……)
 常に腕を出し、ディフェンスを固めさせるだけの戦い方では、世界のレベルに達せない。口に出さずとも、それを理解したうえで彼女は練習に励み、ランナ・コムウットを追い続けた。
 ――“打たせて”倒れることなく前進し、的確に相手の急所を狙い“打つ”。
 シンプルで分かり易いが、攻撃と防御、どちらが欠けても成り立たず、それを正確に体現できるボクサーなど滅多にいない。そして奈緒は、その数少ないボクサーの一人だった。
(アイツのボクシングは、オレの理想だ)
 ハルイチの才能を信じ、途切れることなく試合を組んでくれたジムには感謝している。しかし、奈緒から学んだ事こそが、日本タイトル挑戦まで、彼を押し上げた。
(だからオレは、アイツを助ける。他の考えがあってのことじゃない)
 ハルイチは部屋の照明を消すと、廊下に出た。
(奈緒……)
 戸惑いを胸に、居間へ戻ると、掃除機を引っ張り出した。練習と仕事の毎日で、部屋の掃除もこの所おざなりだった。
 明日からは会社も休みで、試合までの数日間、嫌でも神経をすり減らしながら、緊張の日々を過ごすことになる。
 奈緒に振り回されている今が良い機会だと、窓を全て開け放って床を掃き、簡単に片付けただけの居間や自分の部屋を、徹底的に掃除した。
 途中、風呂から上がってきた奈緒は湯上がりらしく顔を上気させ、ハルイチが忙しく立ち働いているのを遠巻きに見ていたが、やがて「洗濯もの?」と、部屋の片隅に山となってある衣類を指差した。
 湯を浴びて、人心地がついたらしい。短い言葉で、無愛想に尋ねる彼女は、ハルイチのよく知る奈緒、そのものだ。
(つけあがった口の利き方をされて、安心するなんてなあ)
 苦笑いをしながらハルイチがうなずき返すと、彼女は洗濯を手伝い、台所の流しにたまっていた食器も全て洗ってくれた。
「すげえ、綺麗になった!」
 掃除を終え、ハルイチが満足げに見渡した部屋の隅で、奈緒は床に座り込んでいた。両足を投げ出して壁へ寄りかかり、一つに束ねた長い髪を、頭の後ろで結い直している。浴衣の重ね合わせた裾が割れ、見事なふくらはぎがのぞいて見える様は、女らしいというより子供っぽかった。
「ああ、疲れたっ!」
 彼女の脇へ行き、投げ出された足を枕に、ハルイチは寝転んだ。
「重いよ」
 奈緒は口を尖らせ、「ちょっとだけ寝かせてくれ」とまぶたを閉じる彼の額を、ぴしゃりと叩いた。
「ほんの少しの間だよ。ケチケチすんな」
 目をつぶったままハルイチがいい返し、彼女も膝枕を許したまま、「ちょっと寝るつもりが熟睡しちゃって、夜寝れなくなるんだよ」と、小うるさい説教を続けた。
「うるせー。疲れたんだよ、誰かさんのせいで」
「ジムに……行かないの?」
「行かねえ」
 すっぱりとハルイチはいい切った。
 出稽古先でおととい、元東洋太平洋王者の世界ランカーや日本ランカーと、十二ラウンドに亘(わた)る激しいスパーリングをしたのを最後に、調整期間へと入っている。
 疲労が激しいことからロードワークも控えるよう指導されているが、ろくに夜も寝られず、昨日今日と朝早くから走りに行ってしまった。こんな風ではどのみちジムに顔を出しても、秤に乗り、栄養指導を受けるだけだ。
「お前を背負って走り回ったし、さっき軽くボクシングの動きもしたから、もう限界」
「だったら、動いた直後に食事。基本だよ」
 うーん、とハルイチは寝返りを打ち、聞こえないふりをした。
「食事が終わったら、入浴、ストレッチ。そして早めの就寝」
 睡眠の質とバランスは筋肉形成の、とよりいっそう専門的な話を持ち出され、ハルイチは渋々と起き上がった。
「晩飯にすっか」
 仕方なしに告げ、キッチンの棚からガスコンロと土鍋を持ち出した。
「いっとくけど、オレは減量中だからな。炭水化物は朝と昼だけで、夜はナシだぞ」
「あたしは……」
 いい淀む奈緒の、容易には見られない、困った顔が可笑しかった。
 食器を二人分テーブルに並べ、作り置きしてあったダシ汁や野菜、鶏団子を冷蔵庫から取り出しながら、「ご馳走してやるよ」と、ついつい笑い声を上げた。
「グリコーゲンローディングに入ってるんだ。脂肪控えめの高タンパク食だからさ。お前も気に入ると思うよ」
 どういう訳か、テーブルに膝を進めた彼女が顔を真っ赤にしてうつむいてしまい、ハルイチは笑うのを止(や)めた。
「何、恥ずかしがってんの?」
 訊いても、奈緒は黙って首を左右に振り、何も答えなかった。