A SPOOKY GHOST 第三十四話 ディフェンスライン(3)

「……ハルイチ?」
 安森の視線を避けるように横を向き、奈緒はきつく携帯を握り締めながら、「何で……番号を知ってるの?」と、掠れた声を出した。
『オマエの妹に、教えてもらった』
 ハルイチの声をはっきりと聞き取りたいのに、周囲の音が、やけに騒がしく感じる。「千登勢に?」と問い返しながら、離れてからの長い時間や、彼との間に横たわる遠い距離を思った。
『家に電話したらさ、たまたま彼女が出たんだ。オマエさ……親に勘当されたんだってな』
 聞き慣れた声が、まるで知らない他人から発せられているかのように、よそよそしく耳に響く。
「それは話すと、長くなるから……」
 高校を卒業して間もなく、奈緒に移籍を勧めてきたのは母親だった。それをきっかけに天翔の用意した寮へと移り、彼女は独り暮らしを始めたが、今では母親からもう二度と家へ帰って来るなと宣言され、一切の連絡を絶たれている。
 週刊誌のグラビアで奈緒が水着姿となったことに母親が激怒したためで、全ては移籍にまつわる揉め事だ。
 千登勢から何を聞かされたのか見当もつかないが、奈緒はそれについて、何ひとつ語りたくなかった。ハルイチも詳しくは聞こうとせず、『妹も、最初はオマエの連絡先は知らねえって、いったんだ。そんで、どうしようかと思ったらさ』と、話を前に進めた。
『ビックリしたんだけど、オマエの妹、金本会長の娘と同級生なんだってな』
「うん。宏美ちゃんのことだね」と相槌を打ち、天翔との繋がりがそんなところから生まれたことに、いい知れぬ皮肉を感じた。
『そう。そのヒロミちゃんってコに妹が頼んで、奈緒の携帯の番号を調べてもらったんだってさ」
「そんなことわざわざしなくても、ジムへ電話をくれれば、こっちから連絡したのに」
『天翔へか? ソレはちょっと気まずいんだ』
「何か、あったの?」
 天翔ジムの元会長である金本昭三が中倉ジムを訪れた際、卒業式を終えたばかりだったハルイチは、彼とたまたま出会い、話をしている。奈緒も駅前で老人と鉢合わせし、ジムまで案内したが、何の用があって来たのかなど、あの時は知る由もなかった。
『金本のジイさんから、何も聞いてねえのか?』
 逆に訊き返され、自分の知らない何かがあるのかと、胸がざわつく。
 あれは卒業のお祝いにと、高口に連れられ、食事をしに行った先でのことだ。
 ――奈緒とランナのマッチメイクを、天翔は手掛けようとしている。
 老人の正体を明かし、彼が中倉ジムに来た理由を、ハルイチはそう、奈緒に説明した。
 日を置いて、中倉会長からも同じ話を打ち明けられた彼女は有頂天となり、大事なことを見落としてしまった。
「あたし、ダメなんだ」
 知らぬところで移籍への布石が打たれ、気が付けば他人任せの、周到に用意された道を歩いている。
「ボクシング以外のことって、ホント何にも見えないし、分からなくて……」
『いや、そういうコトじゃないんだ』
「あたしに関係してる、何かじゃないの?」
『違う。知らねえなら、ソレでいい』
 小さく首を傾げ、『それよりも知らせたいことがある』と硬い声で告げられた奈緒は、顔を強ばらせた。
「何なの?」
『川上さんが引退することになった』
「えっ……」
 息を呑み、しばらく間が空いた後、「どうして……」と呟いた。
『また骨をやっちまったんだ。拳のさ。やっぱ、いきなりの日本ランカーとの試合なんて、無理だったんだ』
 明日には引退届を出すっつうから、と話を続けるハルイチの声が、ふっと遠くなる。
(引退……川上さんが、ボクシングを辞める……)
 耳から携帯を離し、呆然としていて、「どうした?」と安森に訊かれた。
「わかった。連絡ありがとう」
 慌てて彼女は答え、「それじゃ……」と電話を切ろうとして、『奈緒』とハルイチに呼び止められた。
『移籍する時、引っ越し先の住所も分かんねえっつうから、オレ、オマエに携帯の番号、教えたよな?』
「うん」
『何で、連絡寄越さねえの?』
 奈緒は返事が出来ず、ただ目の前に立つ、安森を見やった。黒いスニーカーを履いた両足を開き、彼は羽織っているMA-1ジャケットの下で、太いカーゴパンツのポケットに両手を突っ込んでいる。
『まあ、いいよ。奈緒もすっかり人気者になっちまったもんな。七月と十月のオマエの試合、オレも川上さんも、後楽園ホールのバルコニーで見てたんだ。ドッチも一ラウンドKOなんて、相変わらず派手な勝ち方をするよな。声援も凄かったしさ』
 おめでとう、とハルイチからいわれ、訝しげに自分を見つめる安森と目が合った奈緒は、「ありがとう」と、わずかに微笑んだ。
『今や名門ジムの看板ボクサーで、気軽に声もかけらんねえけど、雑誌やテレビで別人みたいになったオマエを見て、元気なのは分かってんだ』
「うん……」
『せっかくの連絡を取る機会が、川上さんの残念な話になっちまって悪かったよ。でもさ、やっぱ奈緒には知らせといた方がいいと思ったんだ』
「うん。教えてもらえて良かった」
 そう告げ、自分の声が震えているのに、彼女は気付いた。しかし、電話の向こう側にいるハルイチは『じゃ、元気でな』と、変わることのない、はにかむような優しい声を出す。
「ハルイチも元気で」
『お休み』
「お休みなさい」
 ぷつりと電話が切れ、奈緒は手元の携帯を見つめたまま、安森の声を聞いた。
「ボクシング以外のことは見えないし、分からない、か……」
 彼はいい、空を見上げていた。
「盗み聞きですか?」と彼女も真似をして天を仰ぎ、おぼろげに浮かぶ月を眺めた。
「たまたま聞こえただけだ」
 安森が苦笑混じりにそう言い訳をし、視線をそっと奈緒に戻すのが分かる。
「途中、少し様子が変だったな。大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないかもしれません」
「良くない知らせか」
 目を伏せた彼女は、「川上さん、引退するそうです」と、呟くように、告げた。
 そうか、と彼が歩き出し、奈緒も並んだ。
「お前、歳はいくつだ?」
「十九、です」
 駅へ向かう途中でいきなり訊かれ、彼女は言葉少なに答えながらバッグの口を開け、中に携帯をしまった。
「……俺より、ひと回りも下か」
「そんなに違うんですか?」
 まあな、とぶっきらぼうに答える彼と再び目が合い、照れ隠しのように、笑ってみせた。
「あたしなんか、安森さんから見ると、まだまだ子供ですね」
「中味はそんなに変わらないさ。俺もボクシング以外のことは見えないし、分からないことも多い。ただ、立場が違うからな。多少は気が利くし、上手く立ち回ることも出来る」
「例えば、吉山さんのために、あたしを食事に誘ったり?」
 安森が立ち止まり、「まあ、そうだな」と答えるのに合わせ、奈緒も足を止めた。
「俺とのスパーを終えて、さっさと更衣室へ引っ込んじまっただろう。お前が見せたアッパーのブロッキングにショックを受けて、吉山がリングの下で、あんなの出来ないって泣きそうな顔していってんのに、完全に無視して通り過ぎた。ちょっと頂けない態度だったな」
「すみません。更衣室でも顔を合わせたんですけど……」
「謝らなくていい。吉山も、結局は俺とお前を追いかけて店まで来て、これからの課題がはっきりしただろうから」
「先代も性格が悪いです。女子ボクシングはこうでなきゃいけない、みたいな、お説教なんかするから……」
「やっぱり、あのジイさんは、天翔ジムの前会長か。大した人物に目を付けられたもんだな」
「あたしにとっては、口うるさい後見人といった感じです」
 夜の冷たい風に吹かれ、立ち話をしながら、奈緒は腕をさすった。
「……だいぶ、冷え込んできたな」
「そうですね……」
 これから戻る、自分が暮らす寒々とした部屋を思い、余計に体が震えた。
(ボクシングを辞めたら、川上さんはどうするんだろう)
 何でも無いように平凡な暮らしへと戻るのか、絶望の淵で彷徨い、目を背けたくなるほどに落ちぶれるのか。どちらにしろ、奈緒がボクシングをする本当の理由を見抜き、それは正しくないのだと、身を以て教えてくれようとした人だ。
(あたしを置いて、いち抜けた、か)
 川上の明るい未来を願いながら、あの寂しい部屋で、シワを伸ばしてベランダに干したままのバンデージが物干し竿の下で風に揺れるのを、きっと朝まで眠らず、眺めることになるような気がした。
「遠藤」
 孤独に怯える彼女の心を察したかのように、安森がいった。
「俺の部屋に来るか?」
 突然の誘いに、奈緒は二の腕をさする手を止め、彼の顔をまじまじと見つめた。
 ジムの外では常にマネージャーの高橋が同行し、他人とのプライベートな接触も制限されている。金本老人が、奈緒の私生活にとてもうるさいからだ。
 それなのに、安森から食事に誘われたと告げ、あっさり許された。
 ――彼は冷めた男だ。心配はいらないだろう。
 てっきり金本老人に真っ直ぐ寮へ帰るよういわれると思っていた彼女は、この言葉を聞き、肩すかしを食らった気分だった。
(口説かれてるとか……そんなんじゃないよね、きっと)
 天翔ジムから来た迎えの車へ乗り込む金本老人とベスルコフを福原ジムの前で見送った後、生まれて初めて男性と二人きりで店に行き、食事をご馳走になった。
 そんなことで気分が昂ぶり、流される自分の弱さを、今夜だけは許したかった。
 ――元気でな。
 互いに携帯の番号が分かり、これからはいつでも連絡が取れるというのに、もうこれきりだと思わせるよう言葉を、ハルイチは使った。
(みんな、あたしから離れてゆく)
 無表情に、けれども落ち着き払って奈緒を見据える安森へ向けて、ぎこちなく彼女はうなずき、部屋へ行くことを暗黙のうちに了承した。
「鉄壁のディフェンスを誇る幽霊も、リングの上だけか」と彼の右腕が伸び、その指先が奈緒の頬を撫で、鼻をつまむ。
「女だな、やっぱり」
 もろいもんだ、とつまんでいた鼻から指を離し、安森は笑ったが、両手で彼女が口を覆うのを見て、すぐに眉根を寄せた。
「何だ?」と鼻白む彼の足下へ崩れ落ち、奈緒は地面に両手を突く。
(ずっと前、学校でハルイチに同じことをされそうになって……ダッキングで避けた)
 高二の春に担任から呼び出され、職員室へと向かう廊下の途中だった。
 ――オレの右に反応して、防御の姿勢か。
 驚いたようにハルイチがいった、その台詞を、彼女は忘れていない。
(あたし……変だ)
 今日のスパーはどうだったか思い出そうとして、意識が朦朧(もうろう)とする。
(反応が……鈍っている? ううん、体が反射しなくなって……)
 冷たいアスファルトの上へ横たわり、安森に抱きかかえられたが、まぶたを閉じた奈緒の耳にはもう、彼が何をいっても、その声は届かなかった。