A SPOOKY GHOST 第三十三話 ディフェンスライン(2)

 たまたま出来ただけです、と言い訳めいたことしか、奈緒にはいえなかった。
「どこかのタイミングでロングアッパーが来るのは、前もってわかってましたから。恐らくワンツーの後だろうということも」
「でも、それって……ずっと、練習してきたってことだよね?」
 金本老人が『見せてあげよう』と告げたことで、吉山の中に、対抗心が芽生えたようだ。「ランナ・コムウットと、いつか試合をするつもりなんだろうけど……」と、強い口調で、しつこく食い下がられる。
「でもさ、どうしてそんなに彼女にこだわるの? 彼女とやる前に向き合うべき世界ランカーが、他にもたくさんいるでしょう?」
「ランナに勝てる力があれば、きっと誰にも負けません」
 世界王者である安森とのスパーを経て、奈緒の自信は揺るぎないものへと変わりつつあった。
 彼の動きは、想像以上に速かった。サイドへ常に移動しながら、ミスブローとみせかけたパンチや緩い動きのジャブで相手を翻弄し、合間に鋭いフックやアッパーを使い、ガードを上手くこじ開ける。
 いいパンチをもらい、正直何度か失神しかけ、最後の最後になってワンツーが来た時は、アッパーが来ると分かっていても、前に出るのをぎりぎりまでためらったほどだ。
 それでも奈緒は前のめりになって、右のグローブを顎の下に入れた。飛んできた安森の左アッパーを、全体重を乗せるつもりで下へと払い、そのまま右フックでボディーを狙いに行った。
 結果バッティングとなり、打ち抜く以前にゴングが鳴ってしまったが、背の高いランナ相手であれば絶対にボディブローを決めていたと、奈緒は信じて疑わなかった。
(スリッピングアウェーも、アッパーのブロッキングも、リスクが高すぎる。それを敢えてやるのは、彼女と互角に戦う方法が、それしかないから)
 ランナ以外にもボクサーはたくさんいるという吉山に、ハッキリといってやりたかった。
 ――ランナ・コムウット以外で、あたしに勝てる相手がいるの?
 吉山とのスパーリングは、予想通りといえば、確かに予想通りだった。
 彼女には今日、容赦なく打ち合う機会を、何度も与えたつもりだ。わざと大振りなコンビネーションを繰り返して隙を作り、急所への攻撃も誘ってみせた。
(それなのに……)
 ランナの、ストレートによって脳天まで打ち抜かれた、あの心震えるような衝撃を吉山から与えられることは、とうとう一度も無かった。
「あたしの中で、ランナは最強のボクサーです。ボクシングをやっていれば、必ず対戦したいと思う相手……彼女以外、あたしには誰も思いつきません」
 吉山はもう、奈緒のことなど見ていなかった。何も答えず、両手を添えたグラスの中で、水がわずかに揺れるのを見詰めている。
「吉山、帰れ」
 安森は短く彼女に告げ、奈緒の前にある小皿へ、焼けた肉や野菜を淡々と取り分けた。
「……最後に、教えて」
 奈緒へと振り向き、吉山がいった途端、「駄目だ。同じ階級の、いずれ当たるかもしれない相手に、助言なんか求めるな」と、彼は初めて声を荒げた。
 吉山は肩を落とし、奈緒の隣で長い息を吐いた。
「気にせず喰え」
 安森に促され、奈緒は皿の上にある野菜に箸を付けた。すると携帯が鳴り、隣で吉山がはっとしたように、羽織っているスタジアムジャンパーのポケットへと手を突っ込んだ。
「もしもし」
 安森と奈緒の二人へ交互に視線を走らせ、彼女は遠慮がちに電話に出ると、小声で話し出した。
「松永? 今、どこ? 美波やせいらも一緒?」
 どこかで聞いたことのある名前が並び、奈緒は食事をしながら、誰だっけ、と記憶の糸を手繰った。
「びっくりしないでね。今、安森さんや、何とあの遠藤さんと、焼肉屋に来てるんだ」
 ダメダメ、と首を振る吉山の声が、次第に大きくなる。
「合流できるワケないじゃん。安森さん、遠藤さんのこと口説くつもりらしいからさ。邪魔しないよう、私も、もう出なきゃいけないし」
 上目遣いにいたずらっぽく吉山はいい、安森はそんな彼女を無視して、網の上で黙々と肉を焼いた。
「うん、新宿の……ああ、あの店ね! わかる、わかる。じゃ、今から行くね」
 すっかり元気を取り戻したのか、弾んだ声で返事をし、吉山は電話を切った。
「じゃあ、お邪魔虫は、これにて退散します」と嬉々としていい、ん? と奈緒の皿をのぞき込む。
「遠藤さん、タレをつけないの? サラダもそのまんま? ドレッシング無しじゃ味気なくて、美味しくないでしょ」
 奈緒はただ首を傾げ、曖昧に笑った。
「試合の予定も無いんだよね? ボクサーはさあ、美味しい食事とおしゃべりぐらいしか、普段の楽しみってないじゃない。食べられる時ぐらい、好きなだけ食べればいいのに」
 いいたいことをいい、立ち上がった吉山は、安森に深く頭を下げると、奈緒の肩をぽんと叩いた。
「いい? ランナ・コムウットを叩き潰すのは、この私だから」
 強がりにしか聞こえなかったが、奈緒はうなずき、「今日はありがとうございました」と、型どおりの挨拶をした。
 またね、と軽く右手を振り、吉山が姿を消すと、安森は「どうしようもないヤツだな」と苦々しく笑った。
「タレをつけた肉を口に含んだ途端、痛い痛いと、思い出したように騒ぎ出すんだ。吉山のバカは」
 いい方は悪かったが、同じジムの仲間に対する、親しみが感じられる口ぶりだった。
「遠藤。お前は大丈夫か」と続けて訊かれ、高口やハルイチ、そして川上といった、中倉ジムの顔ぶれが思い出された。
「口の中を切るのは、慣れてますから」
 ボクサーとしてごく当たり前のことをいい、感傷めいた気分に捕われた。
「さっきの電話……松永さんって、勅使河原拳闘会の選手ですよね。あと、大久保ジムの櫻川美波選手と、片岡せいら選手……」
 思いついたままを言葉にし「吉山さん、色んな選手と交流があって、ちょっと羨ましいです」と、奈緒は本音を呟いていた。
 天翔ジムでまともに口を利くのは、ロシアから招聘されたコーチ、ウラジーミル・ベスルコフと、選手担当マネージャーの高橋という女性の、二人だけだ。二人とも無口な奈緒を相手に、嫌な顔ひとつせず、熱心に話しかけてくれるが、ベスルコフとは片言の英語でしか会話ができず、高橋とも仕事上の付き合いに留まっていた。
 ジムの選手達からは常に遠巻きにされ、たまに話をしても、奈緒が返答に詰まったら、そこで会話は途切れる。
「アイツ等、アマの頃から年中つるんでるんだ。同じ団体で試合をして来た者同士、気心が知れてんだろ」
 愚痴めいた奈緒の言葉を受け流し、安森は気持ちいいぐらい、焼けた肉をぽいぽいと口に入れてゆく。身長が低いためか、あまり体重を気にする必要もないらしい。
 奈緒は唾を飲み込み、焼けたレバーをつまんだ。店に頼んで全く味付けを施していない肉は、苦みが強く、噛んでいても味気無い。
「塩ぐらいつけろよ」
 食べながら、つい顔をしかめてしまい、安森から咎められた。
 いいんです、と彼女はレバーを一息に飲み込んで、返事をした。
「食事なんて、体を維持するためだけに、するものだから」
「冷めた言い方だな」
「レバーも貧血対策に食べるだけ。月に一度、どうしても血が流れ出ちゃうし、生理が止まったら止まったで、コンディションも悪くなるし」
 おい、と安森は低い声を出し、眉間にシワを寄せた。
「男の前で、そういうことを話題にするな」
 何をいわれているのか意味がよく理解できず、奈緒はぼんやりと彼の不快そうな表情を眺めながら、「すみません」とひと言告げて、テーブルに箸を置いた。そして牛乳の入ったカップをそっと両手で持ち上げ、ゆっくりと中味を飲み干す。
「すごいな、お前は」
 やがて安森がうつむき様に笑い、肩を揺らすのを、彼女は黙って見つめた。
「吉山はな、俺を怖がってんだ。ただ、どうしてもお前と話がしたかったんだろう。でなきゃ、俺がいるこの店へ、わざわざ来るはずがない」
 アゴに生やした短い髭を指先で撫でながら、彼はどこか楽しそうだった。
「それにしても、吉山のヤツ、緊張してんのがアリアリだったな。べらべらと遠藤へ話しかけて、俺にジムへ戻れといわれた途端、ビビって声が裏返ってやがった。見たか? 途中、水なんか飲んでただろ。あれも、気分を落ち着かせようとしているのがミエミエで、可笑しかったな」
 電話を終えて吉山が店を出ようとした時、深々と安森にお辞儀をしながら、彼女の指先がほんの少し震えていたのを、奈緒もたまたま目にしていた。別に何とも思わなかったが、安森のような底意地の悪い男からすると、さぞかし滑稽に見えたのかもしれない。
「でも、お前はちっとも俺を怖がらない」
 彼女は再び箸を手にし、「どうしてなんだ?」と訊かれた。
 この店に入ってから吉山や安森に絡まれ続け、いい加減嫌気が差していた。「わかりません」と腹立ち紛れにきつくいい返し、またもや安森に笑われた。
「何をいわれたところで顔色ひとつ変えないクセに、案外気は短いんだな」
 ひとしきり笑い、彼は椅子の背に右腕を回すと、黙ったままの奈緒を斜めに見ながら、口の端を上げた。
「そういや吉山にも、ランナ・コムウット以外に戦いたいヤツはいないと、怒ったように吐き捨てていたな。最後のありがとうございましたっていう挨拶も、悪いが、俺にはおざなりにしか聞こえなかった。あんなんじゃ、吉山と仲良くなれっこないぞ」
「仲良くしたいと思っていません」
「お前、吉山が羨ましいといったじゃないか。友達になりたいって意味じゃないのか?」
「違います」
 珍しいものでも見るかのように、目を細める安森から顔を背け、奈緒は食べることに集中した。彼もそれ以上は何もいわず、二人は無言のうちに皿を全て空にし、どちらからともなく席を立った。
 店を出ると、食事をして体温の上がった体にはちょうど良い、肌寒さだった。風も弱く、十一月にしては暖かい夜で、道を歩く人々も、どこか足取りが軽い。
「ご馳走さまでした」
 夜とはいえ、まだ時間が早いせいか、人々が多く行き交う路地の真ん中に立ち、奈緒は礼をいった。
 駅まで送って行こうと安森がいい、うつむき加減に彼の後ろを歩いていて、携帯が鳴った。
「すみません」と、立ち止まって振り返る安森に、彼女は軽く頭を下げると、肩にかけていた大きいトートバッグの中から、もぞもぞと携帯を取り出した。
 天翔ジムから持たされているもので、それまで携帯など使ったことのない彼女は、操作方法がいまいち良く分からない。登録している番号などひとつもなく、どうせマネージャーの高橋からだと思い、電話に出て、『もしもし、奈緒か?』と聞こえてきた声に、息が止まりそうになった。