二十歳の原点(昭和44年)
高野悦子「二十歳の原点」案内 ›
1969年 6月24日(火)
高野悦子の自殺
6月24日(火)午前2時ころ、高野悦子は下宿から「「チョット外出します」と声をかけて出た」(高野三郎『失格者の弁』「二十歳の原点」(単行本)(新潮社、1971年))(同「二十歳の原点[新装版]」(カンゼン、2009年))とされる。
この声を聞いたのは、下宿の隣りの部屋の人である。
当時、京都ではすでに月没していたため月の光はなかった。ただ雲がなかったため、星空だったと考えられる。
下宿☞
川越宅
午前2時20分ころ、下宿近くの国鉄(現・JR西日本)山陰本線を、京都・梅小路発山口・幡生行下り861貨物列車(蒸気機関車)が通過した。山陰本線は当時、単線非電化で地上を走っていた。
高野悦子は、この下り貨物列車の通過した後、山陰本線の軌道上または軌道付近を西に向って進み、京都市中京区天神通丸太町下ルにある天神踏切から、さらに西へ軌道上を入った。
関係者によると、高野悦子は下宿から現場までの途中、線路沿いでハンドバッグを落としていた。
ハンドバッグの中に万年筆が入っており、万年筆には「高野」と書いてあった。
バッグを意識的に手放したのか、それとも気付かずに落ちたのかは不明であるが、いずれにせよこの万年筆の名前が警察による身元確認の手がかりの一つとなった。
天神踏切は、警報機も遮断機もない踏切(第4種踏切)で、自動車も横断できなかった。
「国鉄山陰線、二条駅ではここ何年もまえから、彼女の遺稿集『二十歳の原点』を片手にかかえて「天神踏切」の場所をたずねる者たちが跡をたたないのだと聞いた。多い日には何人もの乗降客に同じことをたずねられるという。「小説の舞台にでもなったんどすやろ」と柔かな京都弁が返ってきた」
(高沢皓司「生きいそぎの青春」(講談社、1984年))。
山口・幡生発京都・梅小路行上り864貨物列車(蒸気機関車)=井本辰男運転士(41)=が接近した。
天神踏切の西約20m付近を歩いていた高野悦子は、急に線路を枕にするように伏せた。
貨物列車は急ブレーキをかけたが、間に合わなかった。
午前2時36分、高野悦子は死亡した。京都府西陣警察署(現・上京警察署)の調べによると、頚部損傷による即死だった。
高野悦子が最期に耳にしたのは、蒸気機関車のけたたましい警笛と猛烈なブレーキ音だったとみられる。
「24日午前2時36分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線天神踏切西方20メートルで上り山口・幡生駅発梅小路駅行き貨物列車=井本辰男運転士(41)=に線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。
西陣署で調べているが、女は年齢15~22歳、身長1.45メートルで、オカッパ頭、面長のやせ型。薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明」
(『娘さん、線路で自殺』「京都新聞(夕刊)昭和44年6月24日」(京都新聞社、1969年))と報じられた。
自殺現場付近の山陰本線は、1990年に電化し、1996年に高架化が完成した。
薄茶にたまご色のワンピース☞
母と買い物