高野悦子「二十歳の原点」案内 › 1969年5月 ›
1969年 5月13日(火)
一〇・〇〇 AM
日記の記述。以下、「自己創造を完成させるまで私は死にません」。
書いた時刻はアジテーションのメモの時刻より前になる。
メイン・ダイニングにでもと思ったのだが仕事(水さし、片付け、デザートを運ぶ等々)が全然おもしろくない。
メイン・ダイニング☞
京都国際ホテル
メモ(一九六九・五・一三午後) シアンクレールにて
このメモは日記とは別に残っていたものである。
ただし5月13日(火)の京都の天気は曇時々雨であり、後から出てくる「この初夏の陽をあびて」という記述とは一致しない。したがって、あくまでメモ書きを行ったのがこの日と考えられ、実際にこのメモに基づいて演説がされた可能性は低い。
シアンクレール☞1969年2月1日
私のAgitationより
アジテーションとは学生運動の用語で、要するに大学構内で拡声器を使った主に一般学生向けの演説のことである。
あなたは文学部で日本史学を専攻している学生かもしれません。
高野悦子自身が、文学部史学科日本史学専攻である。
一歩、清心館なり存心館に足を踏みいれて下さい。九号の大教室ではマイクを片手にした教師が、彼の学問とやらをパクパクとしゃべっている。
清心館は主に文学部、存心館は主に法学部の校舎である。
九号の大教室☞
清心館
あなたが生きようとする人間ならばSiとは断じていえない筈だと、私は思うのだが。
Si(スィ)は、フランス語の否定疑問に対する答えである。答える内容が肯定であれば、Oui(ウィ)ではなく、Siで答える。
ただし相手の問いに応じるか否かで決まる
日本語に訳すと「いいえ」の意味になる。
全共闘の活動について「立命大闘争は現時点において一定の停滞と後退を余儀なくされている」
(『大学改革試案と「立命方式」の再編成』「立命館学園新聞昭和44年5月12日」(立命館大学新聞社、1969年))という見方が出ていた。
1969年 5月17日(土)
四条の「フランセ」でトーストとコーヒー。
フランセ
フランセは、京都市中京区河原町通四条上ルにあった喫茶店。四条河原町に近い有名な店だった。
建物は現存せず、現在は洋品店になっている。
歩いて恒心館へ。
一時間ほど寝込んだあと歩いて下宿へ帰る。
三共闘集会。広小路でデモのあと京大へ。京大から円山へデモ。広小路デモで全共闘は少数者であるとしみじみ感じた。バイトのため四時で切りあげたが、
5月15日(木)午後4時から、京都大学、立命館大学、京都府立医科大学の各全共闘(三全共闘)主催による全京都総決起集会が、京都市左京区吉田本町の京都大学本部学生部前で行われ、同志社大全共闘なども含め約700人が参加した。
この集会は実質的には、同日の京大全共闘による学生部再封鎖を支援するものだった。
それに先だって
午後2時から、立命大全共闘約100人は広小路キャンパス存心館前で集会を開き、今回の総決起集会の意義が4・28や6月の愛知外相訪米阻止、ASPAC(アスパック)日本開催阻止など一連の闘争と同じく政治闘争にあることを強調した。
高野悦子は、午後4時で切り上げているので、広小路から京大へ移動し、総決起集会の初めの部分まで参加したものの、京大を出発するデモには加わっていない。
屋上で中村さんにテレし、府庁で待ち合せ、御所で十一時ごろまで話す。
京都国際ホテル屋上から電話したのは、中村さんの暮していた京都国際ホテル男子寮である。
京都国際ホテル男子寮☞1969年6月2日
府庁は、京都市上京区下立売通新町西入の京都府庁のことである。
京都御所は京都御苑のことで、当時は、夜にベンチや芝生で若い男女が親密に話をする場所でもあった。
☞1969年5月5日「御所で一服」