高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和39年)
二十歳の原点序章(昭和43年)
西那須野で1964年
 本項では、「二十歳の原点ノート」に加え、「二十歳の原点序章」における西那須野町に関する記述も紹介する。
烏ヶ森公園広域図野々山さん宅広域図

1964年 1月14日(火)
 杉本さん達の話を聞いていると、マシンブックスを三回もやったそうだ。
問題と解答マシンブックス表紙 「学研マシンブックス─高能率プログラム学習─」は、教育出版大手の学習研究社(現・学研ホールディングス)が発行していた中学生向けの問題集である。1962年初版、当時150円。
 「独特の方法にもとづいて作られた教材(プログラム)と、それを入れて動かす機械(マシン)から成っています。このプログラムは、ひとくちにいうと、問いと答えの連続したものですが、これをマシンに入れると、1問ずつ問いが現われ、解答すると、つぎに正解が現われて、自分の答えとくらべることができ、あっていたらつぎに進めるようになっています」
 「かんたんなマスク・カードをつけて、マシンの代わりをするという方法です。これですと、プログラムだけの価格で、マシンのはたらきを兼ねるものが買えます。アメリカではこのペーパー・マシンが全盛となっています。私たちがこの本を「マシンブックス」と呼ぶのは、このためです」(学習研究社学習活動研究室『“プログラム学習”とは何か─新時代の高能率・高速度勉強法』「学研マシンブックス─高能率プログラム学習─中学英語第1巻」(学習研究社、1962年))
 各ページともに左右の欄に分かれていて、左の欄に問題が、右の欄にはその正解が載っている。マスク・カードと呼ばれるコの字形の水色のしおりで正解を隠しながら、問題を解いて答えを書き、カードで隠していた正解と照らし合わせて次へ進むという順序をくり返していく。
 各巻ともB5判192頁で、中学英語は2年生と3年生を対象に全部で10巻からなる。全体の分量は多いが、学びやすい順序に構成され、一問一答で無駄がないため、慣れるとスピードをもって学習を進められるようになるのが特徴の教材だった。
“初恋の人”中学校同級生・杉本君①

1964年 1月15日(水)
 まあテレビで「青年の主張全国大会」をみたからだろう。
 成人の日の祝日は当時、1月15日だった。
 NHKテレビ1月15日午後1時00分~午後2時00分:「第10回NHK青年の主張全国コンクール全国大会」。その年に満20歳を迎える若者が自分の考えたことや感じたことなどを主張として発表する番組である。

 また中学卒業後東京に出て、旋盤工としての仕事に誇りをもち、世界一の旋盤工になろうと励んでいる十七歳の青年(十七歳といえばヒロ子ちゃんと一つ違いだ)。
 高野悦子は高校への進学を決めていたが、西那須野町では1950年代後半ごろから集団就職が始まっていた。集団就職とは、地方の中学校卒業者が労働省(現・厚生労働省)や都道府県などのあっせんにより、京浜地区などの企業の主に工場に集団で就職することをいう。当時中学校卒業者は「金の卵」と呼ばれた。
 西那須野中学校でも卒業者の多くが東京方面に就職していくため、毎年3月には国鉄(現・JR東日本)・西那須野駅で満員の集団就職列車を見送る光景が見られた。集団就職は全国的に1964年をピークに減少していく(「西那須野町の社会世相史」(西那須野町、2004年)参考)

1964年 7月22日(水)
 朝六時起床、六時十五分から七時半まで、鳥が森公園でトレーニング。
 鳥が森公園は、烏(からす)が森公園のことである。
烏が森公園
 烏が森公園は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)三区町にある公園(地図上左参考)。
当時の烏が森公園現在の烏が森公園
 烏が森公園は、サクラ、ツツジ、アジサイなどの花の名所として知られ、園内にある標高297メートルの烏が森の丘では那須野ヶ原を一望できる。このため1879年に内務卿(内務大臣)伊藤博文や大蔵大輔(大蔵次官)松方正義が那須野ヶ原視察に訪れたほか、1885年には那須疏水の起工式が行われた。
烏が森公園の高野悦子 1886年にソメイヨシノを植樹、1907年ごろから見事な花をつけるようになり、多くの客が訪れるようになった。とくに1919年ごろまでは“関東随一”とも“関東北随一”と言われるほどのにぎわいを見せ、多くの出店があった。戦後の1959年には丘の下にフランス式庭園を整備した(「西那須野町の福祉厚生史」(西那須野町、1995年)参考)
 交通の要衝として発展した旧・西那須野町にとっては最も身近な行楽地である。
 高野悦子は西那須野町立(現・那須塩原市立)東小学校1年生の時の遠足でも訪れている。

 なお単行本「二十歳の原点ノート」(新潮社、1976年)、「二十歳の原点ノート」新潮文庫(新潮社、1980年)、それに「二十歳の原点ノート[新装版]」(カンゼン、2009年)のいずれも『烏』(からす)ではなく「『鳥』(とり)が森公園」と表記している。

 八時四十分の汽車で母と宇都宮へ出た。母と別れて私は学校へ、図書館へ本を返しに行った。
西那須野駅
 西那須野駅は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)永田町にある国鉄(現・JR東日本)東北本線の駅である。
 鉄道の開通に伴い1886年に那須駅として開業、1891年に西那須野駅と改称された。塩原軌道や東野鉄道の開業もあって塩原温泉や栃木県北部の中心都市である大田原の玄関口となっていく。
 1935年に二代目駅舎が完成した(写真)。高野悦子が利用したのはこの駅舎である。1977年に東北新幹線建設工事に伴って仮駅舎に移転するまで使用された。
1967年当時の西那須野駅1976年当時の西那須野駅
 東北本線は上野・黒磯間が1959年5月に電化、1964年9月に複線化が完成した。これらに伴うダイヤ改正等で、西那須野駅は1964年10月当時、上野駅まで約2時間15分(急行)、宇都宮駅まで約33分(急行)の距離となった。当時は一日あたり上り普通列車が22本に対して、急行列車が13本と大きなウエイトを占めていた。
 西那須野駅は当時年間約300万人の乗降客が利用しており、塩原温泉への観光客の増加や鉄道利用の高校生の増加などにより乗降客は1968年にピークを迎えている(「西那須野町の交通通信史」(西那須野町、1993年)参考)
西那須野駅の全景
 1980年から現在の駅舎になっている。
現在の西那須野駅
 08:40国鉄(現・JR東日本)西那須野駅─東北本線(上野行普通列車)─09:32宇都宮駅
 国鉄・宇都宮駅☞宇都宮で1964年

1968年 8月15日(木)
 盆おどり二日目。東小跡に今年もやぐらがくまれ、
西那須野町立東小学校
 西那須野町立(現・那須塩原市立)東小学校は、高野悦子が在学中は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)あたご町にあった。
 高野悦子が6年生の時に東小学校の児童は18クラス約870人だった。
小学校卒業記念写真
 西那須野町立東小学校の1961年3月卒業生は150人で、高野悦子は6年3組である。
 本ホームページ編集人が入手した東小学校の卒業記念写真に、旧・東小学校の校舎が写っている。また女子児童のほとんどは進学先の中学校の制服であるセーラー服を着用する中、高野悦子はジャケット姿をしている。
東小学校卒業記念集合写真東小学校卒業時

 東小学校は、高野悦子の卒業と同じ年の1961年12月に現在地である栃木県西那須野町三島(現・那須塩原市太夫塚)に移転している。合併前の旧・西那須野町地区から旧・狩野村地区への移転にあたる。
 東小跡は、あたご町にあった旧・東小学校の跡地のことである。高野悦子の実家のすぐ近くである。なお東小学校は、高野悦子の通っていた当時から、夏になると盆踊りの会場になっていた。
旧東小学校跡東小跡
 旧・東小学校跡の一角にはその後、西那須野町の中央公民館が建てられた。現在は那須塩原市西那須野図書館と那須塩原市西那須野支所になっている。
高野悦子「二十歳の原点」案内