二十歳の原点ノート(昭和38年)
高野悦子「二十歳の原点」案内 › 西那須野・宇都宮で ›
西那須野で1963年⑥
1963年10月18日(金)
それから常に考えねばならないことは高校進学、それに将来の英語を使う職業と、その目的などについて、
高野悦子は、小学校6年生から自宅近くのすぎのこ幼稚園が開いた英語教室で英語を習い始めた。
すぎのこ幼稚園
すぎのこ幼稚園は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にある私立幼稚園。幼稚園は現存するが、園舎は一新されている。高野悦子の実家のすぐ近くである。
すぎのこ幼稚園は、那須寺が1955年に開園した。当時の西那須野町で最初の幼稚園である。それまで地元の幼児は主に大田原市の幼稚園に通っていた。
栃木県立大田原女子高等学校の教諭をしていた園長が1960年、同僚の英語教師を呼び、地元の子どもたちを相手に英語教室を開き、高野悦子もその一人だった。この英語教師は東京外国語大学出身で外国人の通訳をしていたこともあり、英会話に堪能で発音もネイティブに近かったとされる。教師は途中で交代したが、高野悦子は中学1年生までこの英語教室に通っており、ここで英語とくに発音の基礎を身に付けたと考えられる。
すぎのこ幼稚園では現在、年長の園児を対象に課外で英語教室を開いている。
スウェーデン人英語教室
高野悦子は、中学3年生だった1963年秋ごろ、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)東町付近の住宅でスウェーデン人の女性が開いた英語教室に数回参加し、英語を教わっている。
このスウェーデン人の女性は栃木県黒磯市(現・那須塩原市)に住むキリスト教プロテスタントであるスウェーデン聖潔教団の宣教師の夫人である。宣教師は西那須野町では1953年ごろから住宅を会場に集会を開いて伝道活動を行っていた。夫人による日曜学校の英語教室もその活動の一環だったとみられ、地元の中学生らを相手に英語を教えていた。会場の住宅は現存しない。
1963年10月23日(水)
自然たんしょう会で塩原のほうき川にいった。
☞
箒川
1963年11月 3日(日)
まあ私のことはこのぐらいにして、おとうさんとおかあさんについて。
高野悦子の実家☞二十歳の原点1969年1月2日
1963年11月12日(火)
ジュディー様、今日の数学の時間です。
選択クラス
この日の数学の時間は、選択クラスの授業のことである。
高野悦子が通っていた西那須野中学校では当時、高校進学をめざす生徒に加えて中学を卒業して直ちに就職する生徒も多数いた。このため3年生では、通常のクラスたとえば高野悦子で言えば在籍した3年3組とは別に、英語と数学について高校進学をめざす生徒だけを対象とした選択クラスを編成して受験に向けた授業が行われていた。
なおここで登場する野々村さん、杉本君、美紀子ちゃん(倉橋さん)のいずれも高校に進学している。
その時、うらの方で野々村さんが「かんたんだろうな」とか何とかいいました。
「うらの方」は、栃木弁で「後ろの方」の意味である。栃木弁の典型的表現の一つ。
1963年12月28日(土)
私は舟木一夫の歌う歌「学園広場」と「仲間達」と「高校三年生」をきいていると楽しい気分になります。
テレビで十二時十分からのテレビ番組にでてきた彼は、司会者が「卒業式に泣いたそうですね」というと、はっきりしなかったが「弱いから」とか何とかいった。
舟木一夫(1944-)は歌手で、橋幸夫、西郷輝彦とともに御三家と呼ばれた。学生服姿がトレードマークで、代表曲は青春歌謡としてあまりに有名な「高校三年生」(1963年)である。この曲で1963年12月31日の第14回NHK紅白歌合戦に初出場している。
日本テレビ12月28日午後0時15分~午後0時45分:「歌」(こまどり姉妹、北原謙二、舟木一夫)。