高野悦子「二十歳の原点」案内 › 西那須野・宇都宮で ›
塩原の思い出
本項においては、高野悦子の実家から近く、家族などで出かけることの多かった栃木県塩原町(現・那須塩原市)についてまとめて紹介する。
塩原町
高野悦子の日記に登場する当時の栃木県塩原町は、1956年に旧・塩原町と旧・箒根村が合併して誕生した町である。
このうち箒川沿いは11の温泉からなる塩原温泉(郷)で知られており、二十歳の原点シリーズに登場するのも全てこの地区である。1200年以上の歴史を持ち、明治・大正時代には夏目漱石、谷崎潤一郎、国木田独歩ら文人が訪れた。
塩原町は2005年に隣接する黒磯市、西那須野町と合併し、那須塩原市となった。
旧・塩原町地区の宿泊者数は1991年の146万人をピークに減少し、東日本大震災直後よりは回復したもののの、約80万人(2013年)となっている。各地の温泉地の大半と同じく厳しい環境にあり、生き残りを懸けた模索が続いている。
塩原の玄関口は国鉄・西那須野駅で、1963年当時、国鉄バス(現・JRバス関東)が西那須野駅前から塩原への乗客を運んでいた。
当時の西那須野町から塩原町までの旧・主要地方道藤原西那須野線は「西那須野駅前を出発したバスは5分もすると町並からはずれて那須野原の中を走るようになる。途中左から東京からの国道4号線を合して、またすぐ右へ仙台方面へ分けるが、塩原への道もしばらくは快適的なドライブ・ウェイである」。「明治の県令・三島通庸が那須野の中を2ヵ所しか曲線を持たせずに一直線に道路を建設したのは立派であるが、関谷宿で矢板からの道路を合流すると、そこから先は「ほこり高き道路」になってしまい、那須温泉への快適な道路にくらべてみると、やはり差ができてしまう。こういう道路の状態も塩原がお客を少なくしている原因ではないだろうか」
(富田房太郎『塩原の旅』「日光─鬼怒川・川治・那須・塩原」(実業之日本社、1962年))と記録されている。
主要地方道藤原西那須野線は1964年の西那須野バイパス開通を受けて国道4号との重複がなくなり、また1965年に塩原温泉までの舗装が完成して一新、「塩原バレーライン」と名付けられた。
1982年に国道400号となり、現在まで整備が続いている。
1963年 1月 2日(水)
塩原のイソ屋は満員で、イコイの家に電話したらそこも満員なのだそうだ。
いそや臨江閣
イソ屋は、栃木県塩原町下塩原(現・那須塩原市塩原)にあった旅館、いそや臨江閣のことである。客室が50室強で250人収容、舞台付き大宴会場を有していた。
当時のパンフレットでは案内として「仙境山のいで湯『塩原』は、日光国立公園管内の最も優れた奇観と豊富な温泉を以って日本観光百選に再度当選致しました有名な温泉郷であります。奇岩と飛瀑の壮観!70瀑より落下の滝よりなる清澄瑠璃の如き清流は、塩原の最も誇る美観であります。湧出豊富な温泉は全町に45湯有まして、各旅館の大浴場と家族風呂とになり、公衆風呂は至る所に散在、野天風呂、岩風呂は野趣味たっぷりに皆様の保健浴と御来遊を心より御待して居ります」「弊館は、四囲奇岩奇景の山々を一望に納め、天狗岩(名所)・名橋福渡橋を庭園内に有し、四層楼閣は清流に面し、縦横120平方尺の奇岩盤は自然の水床となり、清澄な渓流美は弊館独特の佳観であります。御客様より、いそやの眺めは塩原随一と御賞讃を戴て居ります」
(※字体を改め、句読点を付した)としている。
建物は現存せず、現在は私立大学の研修施設になっている。
イコイの家☞
栃木県立塩原憩の家
1963年10月23日(水)
自然たんしょう会で塩原のほうき川にいった。
箒川
箒川は、栃木県塩原町(現・那須塩原市)を源として、那須野が原の南を流れる河川である。西那須野町から塩原町へは上流に向かうことになる。
塩原町付近では渓谷をなしており、川沿いが塩原温泉にあたる。春から秋にかけてアユ、ヤマメ、イワナなどの渓流釣りが行われている。
1966年 1月 2日(日)
塩原、憩の家にて
栃木県立塩原憩の家
栃木県立塩原憩の家は、栃木県塩原町下塩原(現・那須塩原市塩原)にあった栃木県職員の保養所である。父・高野三郎が当時、栃木県庁勤務のため利用していた。
憩の家に行くには、箒川の橋(遊園橋)を渡る。遊園橋の名称は、大正時代にリゾート開発にあたる事業を行った鹽原遊園地が自前で架けた橋の名残である。現在の橋になったのは1957年。
さらに急な坂道を登る。建物は現存せず、空地になっている。
☞二十歳の原点序章1967年1月1日「例年通り、塩原で新年を迎えた」
一日は一日中、スケート。
塩原スケートセンター
塩原スケートセンターは、栃木県塩原町下塩原(現・那須塩原市塩原)にあった冬季の屋外スケート場である。
塩原開発が1962年12月にオープン、国際規格の400m滑走リンク、アイスホッケーリンクを有していた。また管理棟は暖房完備で大食堂や休憩室などがあった。
オープン時の料金は、一般・高校生で一日150円、半日100円。
オープン当初は関東各地や福島県から集客、ピーク時にはシーズンで約8万人の利用客があった。それ以降は減少傾向が続き、1990年代に入って3万人を割り込み、採算が難しい状況に陥った。
2000年シーズンには約1万2,000人となり、リゾート施設の一部として運営していた塩原グリーンビレッジは、スケート場について2002年2月をもって閉鎖した。塩原町の小学校が体育の授業などでも利用し、栃木「県北地方のスケート愛好者に親しまれた塩原温泉の“冬の顔”は、39年で幕を下ろす」
(『アイスる“冬の顔”に幕─塩原グリーンビレッジ・スケート場』「下野新聞2001年12月13日」(下野新聞社、2001年))ことになった。
現在は塩原グリーンビレッジ内のオートキャンプサイトなどになっている。