高野悦子「二十歳の原点」案内 › 証言・二十歳の原点 ›
1969年 2月 5日(水)②
眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」
高野悦子が1969年3月まで1年間暮したのが、京都・嵐山の原田方の下宿である。
ここに同じ時期に下宿していた短大生で「二十歳の原点」に登場する「大山さん」を訪ねた。
(旧姓)大山さんは高野悦子と同学年(1967年入学)にあたり、1969年に短大を卒業している。下宿していた原田方での生活の状況を中心にうかがった。
明るくとてもチャーミングな女性で、表情豊かな話しぶりで当時を振り返られた。
原田さんでの生活
高野悦子は1969年2月5日(水)に、原田方の下宿での出来事について印象的な記述をしている。
夕食時、大山さんがニヤニヤしながら私をみている。私の眼鏡がおかしいと言っては笑うのである。
大山:だって、高野さんがすごいごつい眼鏡をかけてたんです、男の人みたいな黒縁の。小さな顔で、ごついの(笑)。目が悪くもないのに、だて眼鏡をかけてたんです。
それだけでなくて彼女はサングラスをかけてたこともあるんです。「人から顔が見られなくてイイ感じだ」とか言って(笑)。ちょっと変わってますよねえ、二十歳(はたち)の子が普通そう思わないですもん。
彼女といた原田さんの下宿は手前に嵐山・渡月橋へ通じる道路が通っていて、裏には阪急嵐山線の電車が走っていました。近くに松尾大社や阪急の松尾駅があって、桜が咲くとすごくきれいだったんです。
近くには住宅も並んでましたが、周辺になると田んぼばかりで何もなかったです。田舎で車の通行もあまりありませんでした。何もなくて良かったのに今は変わってしまいました。
下宿は当時としてはモダンな鉄筋コンクリートの頑丈な作りでした。建物の横は屋根がなくて駐車場になっていて、そこのフェンスをガラガラって開けて入るんです。
その駐車場に犬のコリーが飼われていたんです。夜に帰ってフェンスを開けたりしようものなら、とたんにコリーが寄ってきて、喜んでワンワンってほえながらじゃれつくので、「あっち行って、もういいから」って感じになってしまって(笑)。
外の階段を上がって部屋のある2階に行きます。2階の廊下は少しギシギシ鳴ったりしてました。
犬の名前は「ジョン」で、高野悦子が散歩に連れて行ったりしたこともあった。
原田さんの下宿☞1969年2月12日
あのころの京都の下宿は自宅の間貸しが多かったんですが、原田さんは珍しくそれぞれドアのある個室になってたんです。個室が10部屋くらいありました。
私の部屋は道路から見て裏側にあたる方にありました。たしか並びで、隣が牧野さん、その隣が高野さんだったと思います。
部屋は4畳と、1畳分の大きな押し入れがあって下段が畳、上段が物入れになってました。
私の部屋なんか少し散らかってて、布団も押入れに入れずに、ほとんど敷いたままの万年床でした。朝は飛び起きて、そのまま部屋を出てました(笑)。
原田のおばあちゃんが下の階の奥につながっている家にいらっしゃって、そこへ下宿代を持って行きました。ひと月12,000円くらいだったんじゃないかと思います。
当時の京都は畳一畳分がだいたい1,000円でした。あそこは家賃が部屋が4畳と押し入れ1畳で5,000円、賄いが7,000円くらいの計算です。賄いが付いているのが良かったです。友だちには自分で食事を作る人もいたけど、私はとてもできなかったですから。
食事は下の階にある食堂でするんですが、上の階の部屋の方にはインターホンが通じていて、食事の用意ができたら、原田のお姉さんが「朝食ができましたよー」とか伝えてくれるんです。
朝食がパン食で食パンと何かが付いていたんですが、私は朝は急いでてあんまり食べなかったんです。
夕食は何を食べてたのかなあ、遊んでて食べなかったのかなあ(笑)。ただ、一度友だちと栗拾いに行ったことがあって、「栗拾ってきたから栗ご飯を炊いて」ってお願いしたら、そのお姉さんが「わかったよ」って炊いてくれたんです。そうしたら大きな釜で栗の渋皮が付いたまま炊いてあって。“京都では栗ご飯ってこんなのを言うのか”って、ビックリしたことがあります(笑)。
当時、外からの電話もその食堂の所にかかってきました。それもインターホンで「電話ですよー」って部屋まで呼び出してくれるんです。「はーい」って言って、階段を降りていって電話に出るんです。
だからそんなに電話で困った感じはしなかったです。携帯電話のある今と違って、当時は友だちと遊びに行くんだって、仲良くなったら、今度いつ会うという約束をしたらもう電話しなくても大丈夫でしたしねえ…。
高野さんと牧野さん
大山:高野さんは真面目で頭のいい方でした。
そして美人でした。化粧だとか“わあ、おしゃれ”という感じのおしゃれはしてなくて、本当に質素な方でした。私が会った時は髪が短かったんです。横でくくってたのかなあ。
かわいくてきれいで、すごいスリムな方でした。若いのにちょっと猫背気味の感じで…。声は高くて細い声でした。
彼女はアルバイトをよくしてました。そのためでしょうか、短い時期ですが高野さんの帰りがいつも夜遅かったようなことがあった気がします。
それで牧野さん。しっかりした方がいたんです。頭がさえてました。立命館大学に行ってた女の子は他にもいましたが、みんな賢かったです。
印象的には、牧野さんは実家がリッチな感じがしましたけど、高野さんは普通かなという感じでした。でも実際はご令嬢だったんですよね。
大山さんは牧野さんについて強い印象をもっていたが、その内容は高野悦子の日記にある記述通りだった。
☞二十歳の原点序章1968年2月7日「彼女のプロフィール」
私も高野さんも通学は阪急だったんです。松尾駅から嵐山線で桂まで行って、桂から京都線です。乗り換えないといけないので、高野さんにはアルバイトをしたりするには少し不便だったかもしれません。
でも電車で彼女と一緒になったことはなかったです。
高野さんや牧野さんは学校に行く時間が遅かったけど、私は朝早く行かないといけなかったんです。短大は単位が多いのでカリキュラムがびっしりで1時限目から出なきゃいけなくて。4時限目までしたら午後4時近くになりました。土曜日も半分くらいはありましたし。“短大は忙しいのに4年制大学の人はゆっくりしてていいなあ”って思ったこともありました。
だから私は本当は早く出ないといけないんですが、起きるのが遅いもんですから、朝はダーッと飛んで行くような感じでした(笑)。踏切がチンチンチンと鳴りだしたら、トトトって走って出て行けば電車に間に合うんです。それでもお化粧だけはバッチリしないとって…、そっちの方に興味がある性格でしたから(笑)。
京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)・松尾駅は、2013年に松尾大社駅に改称した。
高野悦子は二十歳の原点序章1968年12月7日(土)に下宿での風呂上りの様子を記述している。原田方は当時の下宿としては珍しい共同風呂付だった。
お風呂からあがって部屋に入った時、月の光がガラス窓から入りこみ明るい陰影をつくっていた。
下宿は大きなお風呂でした。すごい大きな浴槽で、1人じゃとてももったいなくて、4、5人でも入れるくらいでした。まきで沸かしていて、入浴したら、まきをくべることになってたんです。
下宿した最初のころは、髪を洗う時は嵐山駅近くの銭湯まで行くルールになっていました。女の子の髪の掃除が大変だからということでした。でもその銭湯は値段が高かったし、私も髪が長くて、髪を洗って帰ってくると寒くてしかたないんです。
下宿の女の子どうしで、どうにかお風呂で洗髪できないようにしてもらえないかなあって言ってたんです。それを牧野さんが交渉してくれて、原田さんのお姉さんが“髪をきれいに掃除してくだされば”という条件で入れるようにしてもらったんです。
風呂の洗髪ルールをめぐるエピソードは、原田方に当時下宿していた人はみんな覚えていると言ってもいいほど知られている。
お風呂に高野さんと入ったことがあるような気がします。みんな同じ大学の人と風呂に入ってましたが、偶然一緒になることもありますからね。
その時に仲よくなって、「ワンダーフォーゲルの歌も教えて」とか言われたんじゃないかと思います。
高野悦子は1969年3月25日(火)に山の歌「いつかある日」の歌詞を記述している。
いつか或る日、山で死んだらあ─
このフレーズを持ち出すと、大山さんは、いきなり曲を口ずさみはじめた。
いつかある日、山で死んだらー、ラララー♪。
これはすごい長い歌です。1番、2番、3番…ってずっとあるんです。彼女と一緒に同じ曲を何回か歌ったかもしれません。彼女は「ワンゲルに入ってる」って、それで「この曲知らないから教えて」ってですね。
私は1回生(1年生)の時はコーラスのサークルで、2回生になってワンダーフォーゲルに入ったんです。ワンゲルにはまって10月くらいまでは週末に山へ行ってました。
私たちの学校のワンゲルの方がよく歌ってたためか、歌は高野さんより私の方がよく知っていました。それで彼女が「歌が好き」って言うんですね。ワンダーフォーゲルの人が集まった時に歌う歌があって、京都のワンダーフォーゲルの歌とか、夜テントの中で歌う歌とかですね。「そういう歌を教えて」って言われてね、それで教えてたんですよ。
下宿でも私は高野さんと学校が違ったんで、あんまり話をする機会があったとは言えないんですけど、それで思い出すんです。
三人での話
高野悦子は1969年2月18日(火)に次の記述をしている。
大山さんと牧野さんと三人であれやこれや話をする。
大山:三人で話をしたことがあるんです。どんな話をしたかはもう…。
でも牧野さんの部屋だったことは覚えています。高野さんの部屋に入ったことはなかったけど、牧野さんの部屋はよく覚えてます。すてきなんですよお。本棚があって机がちゃんとしてて“ああ勉強してるんだなあ”という感じでした。小さなテレビもありました。私の部屋なんか折りたたみの机とタンスみたいなのがあっただけですから(笑)。
牧野さんの部屋の中に入ったら、コーヒー好きで、レギュラーのコーヒーを入れてたんです。コーヒーと言えばインスタントの時代だから“リッチな人だなあ”って。豆を買うのだって、あの原田さんの近くにはないから、四条のあたりまで行ってたんじゃないかしら。
当時でそんなしゃれたことをしてたんですから、すごいなあって思いました。洗面所で朝、私の隣りで牧野さんがコーヒーの道具を洗いに来てたのも覚えてます。私は当時も今もコーヒーを全然飲まないですけど。
同じ日の記述ではさらに大山さんについてふれている。
大山さんは社会の機構、制度、仕組みに関心がない。
もちろん大山さんには生活体験からの論理がある。
そうでしょう(笑)。高野さんと牧野さんは勉強家でしたから。とくに牧野さんは違ってました。私はもう全然路線が違って、どっちかと言うとミーハーでした(笑)。
でも“本じゃなくて実体験で生きていくこと”というのはたしかに、あのころからそうでしたよ。
高野さんはいつも牧野さんの部屋に行ってましたが、牧野さんが高野さんの部屋に行くことはあまりなかったと思います。
高野さんはたばこを吸ってました。牧野さんも吸ってました。というのは、牧野さんの部屋で灰皿の印象が残ってるんです。吸うと言うか遊び半分で悪ふざけみたいなんですかね。私はお酒が全然ダメなんですけど、高野さんと牧野さんは一緒に飲んでたみたいでした。
いつも仲よくしてましたから。牧野さんが“ドン”で高野さんがベッタリの感じもあったので、高野さんが姿勢的にも牧野さんの影響をすごい受けてるだろうなあと思いました。とにかく二人の仲の良さはすぐに思い出すくらいですから。
私の京都
大山:私たちが学校行ってたころは、京都を四条を、ずっとデモがありました。何のデモかわかりませんでしたけど、それでもデモにはいやおうなしに遭遇しました。真っただ中の時でした。
立命なんか激しかったでしょう。高野さんと牧野さんは、そっちの方の話を二人でしていました。私は当時は政治のことはわからなかったし蚊帳の外みたいな感じでした。もう40年以上も前のことですけどね。
それでも当時の京都はすてきだったです。今みたいにザワザワしてなかったです。雨が降ったら感動してましたし、お寺とか行ったり嵐山の方も散策したりして、何とも言えないくらい良かったです。下宿近くの嵐山でも裏道が良くて、よく散歩してました。俳優の別荘とか緑豊かな京都らしい家がいっぱいありました。京都らしかったんです。
あのころの私も若くて輝いていたと思います。世間知らずなのに少し気位が高くて、私のため世界があるのー♪みたいな感じで(笑)。
化粧もそれまでしてなかったんですけど、短大に入って四条河原町の高島屋に行く機会があったんです。そうしたら「ちょっとおいで」って言われて、店の人がきれいにしてくださったんです。それで“化粧ってこういうふうにするんだ、いいなあ”って思って「これください」って。
それからするようになったんです。だからメーキャップは今も全然変わってなくて。口紅も赤いでしょう、あのころは真っ赤だったんですよ。アイシャドーもいまだにブルーを使ってます。
高島屋☞1969年1月31日
大山さんが替え歌にした「世界は二人のために」は、山上路夫作詞・いずみたく作曲で佐良直美(1945-)が歌う曲である。同曲シングルは日本ビクター(現・ビクターエンタテインメント)で1967年5月15日発売され、売上100万枚以上(うちオリコン集計開始後19.1万枚)、オリコン最高2位。大山さんが短大に入学した1967年を代表するヒット曲の一つである。一時期は結婚披露宴で流れる定番の曲になったことでも知られる。
京都にいた時は遊びに行こうと思ったら行けるし、友達の誘いがあれば行けるし、食事の心配だとか何時までに帰らなきゃいけないとかもないわけでしょう。自由な生活してたんです。
当時の原田さんの下宿は、夜遅く帰っても、勝手に階段から入ることができて、鍵は自分の部屋のドアだけでしたからね。ただ夜は犬が喜んでワンワンワンってほえるので、ああ帰ってきたってわかるんですけどね(笑)。
短大は2年で、4年制みたいにのんびり生きてられないんです。入ったらすぐ卒業でしょう。しっかり楽しんでおかないと、というのが優先でしたね。でも遊びと言ったって、本当においしいものを食べて楽しいものを見て京都を満喫するというのでしたから。
ボーイフレンドもいましたけど、…という関係になれなくて(笑)。今考えると、出会った人にはそういう思い出も残してあげたら良かったのかなあ、とか思うんですよ。
毎日の生活が本当に楽しくて、私の一生の中で一番充実してたと思います。
そんな私でしたが短大を卒業した年に結婚しました。
高野さんが亡くなったことは電話で知りました。きのうのことのように覚えています。
原田さんの下宿当時に廊下の向かいの部屋だった、京都外国語大学学生の女性から電話がかかってきました。私の実家に嫁ぎ先を聞いて連絡してくれたんです。
受話器の向こうで泣きながら「(旧姓)大山さん、高野さんが亡くなったの」、「何で自殺するようなことになったのかな」って。私も高野さんのことをもちろん覚えてたので、「えー」って。かわいそうで。
高野さんの実家の連絡先を聞いて電話をかけました。彼女の弟さんが電話に出られたので、「原田さんの下宿でご一緒したものです。この度は…」と申し上げたと思います。
「二十歳の原点」についても、近くの商店街の書店に行って単行本を買ったことを覚えてます。私たちのことが書いてあるって言われたので。読みましたが、私については数行だから、その時どういう風に感じたかまでは…。
私ももう65歳になってしまいました。65です。
あの時の原田さんの下宿で一緒だった方とは、卒業してから一回も会ったことがないんですが、今も懐かしくて、京都に旅行に行ったりした時なんかに下宿の前を通ったりします。
高野さんのことを思い出すこともあるんですよ。私の人生で出会った人の中で、彼女はたった一人の有名な方なんです。
大山さんは高野悦子と下宿の外で一緒に食事をしたことはなかったが、原田さんの下宿近くのそば「松尾」や「喫茶 松尾」などについては知っていた。
松尾☞1969年3月16日
喫茶 松尾☞1969年3月25日
このほか友だちと一緒に行った店として「不二家四条店」を挙げられた。
不二家四条店
不二家四条店は、京都市下京区四条通木屋町東入ルにあった洋菓子店・レストランである。
1934年開店。四条河原町に近い店は有名で、店頭のペコちゃん人形とともに親しまれた。ぺこちゃん人形は祇園祭の時期にははっぴ姿になったりもした。
大山さんは当時、チョコレートとバニラのソフトクリームを買って100円だったことを覚えているという。
不二家四条店は2011年に閉店した。歴史ある建物の外観は当時のままだが、現在はドラッグストアになっている。
※注は本ホームページの文責で付した。
大山さんには取材後、昼食をごちそうになり、さらに一緒に歩いて近くの観光ポイントまでご案内いただいた。「訪ねて来てくれてありがとう」。別れる際、道路の向こうから見送る大山さんの笑顔が印象的だった。
インタビューは2013年9月29日に行った。
本ホームページへのご意見・ご感想をお寄せください☞ご意見・ご感想・お問合せ