高野悦子「二十歳の原点」案内 › 1969年1-2月 ›
1969年 1月31日(金)
雨
きのう寝床に入って、冷やりとした感触にふるえ、二枚の毛布を体にぐるっとまきつけ、みの虫のようにちぢこまってじっとした。
京都:曇時々雨・最低2.3℃最高11.5℃。明け方の気温は1月22日以来の低さだった。
愛宕山ゆきのことを考えた。
愛宕山☞1969年1月30日「三角点と龍ヶ岳に行ってこようと思う」
屋上あたりから眺めたような遠景の山であった。
屋上は、下宿(原田方)の屋上のこと。
原田方☞1969年2月12日「原田さん」
八時五分ぐらい前に目をさました。雨が降っていた。屋根がしっとりとぬれている。
今日の愛宕山は低層雲がかかっていてピークが見えない。
午前8時の時間降雨量0.5mm、空一面が雲だった。
太宰の本を三十ページあまり読む。“He is not what he was”が面白かった。
太宰☞1969年1月30日「太宰治の全集があった」
面白かったのは、太宰治著の短編「彼は昔の彼ならず」。
「僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた、僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、…」
(太宰治「彼は昔の彼ならず」)。
八・一〇PM
雨が降るとあのいまわしい事を思い出す。
午後7時台に雨が降り出し、午後8時になって降雨量1時間7mmと強くなった。
あのいまわしい事☞二十歳の原点序章1968年12月17日
桂から下宿まで歩いて帰ったとき、橋の下の焚火の火と黒い煙をみつめながら、「未成年」の最初のシーンの彼の感情と同じような感じをもち、傘を焼いてしまったのだ。
阪急・桂駅から歩いて帰り、たき火で傘を焼いたのは、1968年12月16日(月)夜である。
☞二十歳の原点序章1968年12月18日
「未成年」は、ピエール・グラニエ・ドフェール監督の映画「未青年」(仏、1967年)である。
「世界的に話題呼ぶ鮮烈のテーマ…“初体験の青年”このほろ苦い季節を美しく描きあげた秀作!傷つきすぎた─サントロペの太陽がいたい…最高だと思った恋!青春だと思った今!20才の若者は雨ふる舗道に泣いた…」。
日本ヘラルド映画配給で、京都では1968年11月23日から12月6日までパレス映画でロードショウ公開された。いわゆる青春モノである。
パレス映画
高野悦子が「未青年」を見たパレス映画は、京都市下京区四条通河原町西入ルの東宝パレス会館2階にあった映画館。東宝パレス会館は元アイススケート場を映画館に改装した建物だった。
建物は現存せず、現在は高島屋京都店を構成するビルになっている。
新しいのを買おうと高島屋へ行った。
髙島屋京都店
高島屋は、京都市下京区四条通河原町西入ルのデパート「髙島屋京都店」である。
1965年に第5次増築が完成し、総面積36,941㎡を擁する店舗となっていた。
当時の営業時間は毎日午前10時~午後6時(食料品売場は午後6時半)。日記の記述でデパートと言えば、原則としてここを指している。
同店では、1月31日(金)まで7階催場で半年に一度の“決算大廉売”を行っていた。
四条から少し上ったところの傘屋さんに立ちよった。
辻倉
傘屋さんは、京都市中京区河原町通四条上ルの傘店「辻倉」である。
1690年創業の日本最古の和傘店。当時は2階建の1階が店舗で、1965年に改装した。一般の洋傘も扱っていたほか、外国人観光客が多く立ち寄って、みやげとして提灯や和傘を買っていた。
店の人の話によると、2,200円の傘は当時としては高級なものを選んでいるという。
建物はビルとなり、店は現在ビル7階にある。
新しい傘をさして広小路まで歩いていくことにした。
辻倉から立命館大学広小路キャンパスまでは河原町通。
店員は、私が気に入ったのをみて「地味ですね、こちらでは」と云ったが、それはどぎついので止めた。自分で気にいったのだ。歩きながらウィンドに写る姿をみると成る程ぼやけている。しかし私はとてもあの傘の感じが気にいっている。私が主観的にどうあろうとも、それとは別個に己れの客観的存在がある。
日記の記述。
これが「己れの立場をどちらかにして何かの行動を起さねばならぬ」の記述につながる。
「朝日ジャーナル」二月九日号より
鈴木沙雄『特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃』「朝日ジャーナル1969年2月9日号」(朝日新聞社、1969年)からの引用である。