高野悦子「二十歳の原点」案内 › 序章1967年6-12月 ›
1967年10月23日(月)
十・二一は六者共闘(一、二部学友会、生協理事会、生協労組、教職員組合、院生協議会)により、全立命決起集会が秋晴れのもと、わだつみ像の前で多数の学生、教職員、院生によって行われた。
末川総長の御老体ながらも力強いあいさつ。
立命館大学では10月21日(土)、4年ぶりとなる学生による全学ストライキが行われた。
この日に向けて各学部で学生大会や学生集会が開かれて、各学部一部(昼間部)でみると法学部、文学部、産業社会学部でストを決議した。また一部学友会も全学投票を行って10月21日と10月26日(木)の“スト権確立”をした。
大学におけるストライキ(スト)とは、学生が組織的に講義などを欠席することをいう。それによって大学運営に支障を与えることで、大学当局等に対する学生の要求を実現すること等を目的とする。
労働争議のストでは労働者が労働という義務を履行しないのに対し、大学におけるストは学生が出席して受講する権利を行使しない形を取る。しかし学生が欠席する反面の効果として、大学側は講義を行うという義務を履行できなくなることで影響を受ける。
したがって「スト」という名前で呼ばれるがボイコット運動というより、むしろ労働争議における使用者のロックアウト(閉め出し)に似た構図をもつ点に注意する必要がある。このためエスカレートすると、ピケッティング(見張り)だけでなく実力による「封鎖」という行為にまで及ぶ可能性を内包していたともいえる。
10月21日にストライキが設定されたのは、この日が国際反戦デーにあたるためである。
国際反戦デーは、1966年10月21日に労働組合の中央組織である総評=日本労働組合総評議会がべトナム戦争反対を中心とする統一ストライキを実施し、内外にベトナム反戦を呼びかけたことから始まった統一行動の日をいう。
国際反戦デーだけでなく反民青系ではさらに10月8日(日)の羽田闘争における京大生の死(羽田事件)を合わせてアピールしたのに対して、民青系は一部暴力学生の挑発行為だと非難した。
いずれにせよストと言っても一日だけで影響も限られているため、その実行はスムーズに行われ、大学当局と事実上“あうんの呼吸”にあったものと言ってよい。
10月21日の京都:晴・最低10.3℃最高24.4℃。午後1時前後は快晴。
10月21日の立命館大学では午前中、校門でピケを張る学生がいたり、ビラが配られたりした。登校者数は普段の半分前後で、広小路キャンパスでは全ての講義が取り止めになった。
六者共闘(立命館大学六者共闘会議、一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・生活協同組合・生活協同組合労働組合で構成)の全立命決起集会は、午後1時からわだつみ像前で開かれ、約1,500人が参加した。
六者共闘は5月1日(月)のメーデーの段階では反民青系と民青系が併存したが、そのあと主力の一部学友会の執行部が民青系に交代したことから、六者共闘は民青系が握っていた。
「集会では末川総長が「今こそ人道主義、人類愛、正義でアメリカ侵略主義を裁く時である」とあいさつ、六者からそれぞれ闘争報告された」(『全学部ストで決起─国際反戦デー』「立命館学園新聞昭和42年11月1日」(立命館大学新聞社、1967年))。
一五〇名の参加で植物園近くの賀茂川グランドで行なわれた。
京都府立大学グラウンド
賀茂川グランドは、京都市左京区下鴨半木町の京都府立大学(現・京都府立大学下鴨キャンパス)グラウンドのことである。
京都府立植物園☞1967年5月16日
電車の中で、時代祭の帰りらしい親子連れが何組かいた。
時代祭は京都三大祭りの一つで平安神宮の祭りである。毎年10月22日に開かれる。
装束を身に付けた人々が行列を組んで練り歩く。コースは、正午に京都御所を出て、丸太町通から烏丸通に入り南下、御池通を東進。行列は1967年当時、そこから川端通を通って平安神宮に至っていた。現在は河原町通経由のルートに変更されている。
1895年開始で、葵祭や祇園祭に比べて「その歴史は浅いけれど、平安時代から明治維新までの歴史風俗を再現した観光価値満点のまつりである」
(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))。
電車☞
京阪京津線
☞1967年5月16日「葵祭─古代の貧しきものと富めるもの」