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 ぶらり歩き  
 2.境川を歩く (9)                                平成14年8月10日
  千寿橋で川筋を離れて鹿島神社(写真23)青柳寺(せいりゅうじ)(写真25)に足を向ける。鹿島神社と青柳寺は隣り合わせになっているが、これは奈良時代から江戸時代まで続く神仏習合の名残りで、境界を仕切る塀も何もない。青柳寺の境内に武相困民党発祥之地石碑(写真24)が建っている。説明書きからは政治的結社のような印象を抱いたが、調べてみると以下のようなやむにやまれぬ農民の決起に由来することがわかる。

 幕末の動乱を経て鎖国を廃止して国際社会にデビューした日本であるが、明治政府の政治基盤、経済情勢が不安定であり、しかも米価が下がり、相模原の主要な産業業である生糸の国際的不況を背景として、農村の荒廃、税を納められない農民の借金、破産等が顕著に現れるようになったという。そのような世相の中、まず川口村(八王子市)の江戸時代からの名主・塩野倉之助が川口困民党を結成して立ち上がるが、壊滅してしまう。
 これをつぶさに見ていた谷野村(八王子市)の豪農で戸長(村長)を勤めていた須長蓮造は、明治7年(1874年)11月19日、密かに組織した武相七郡三百ヶ村の代表を、武蔵と相模の中央に位置する境川の辺り、青柳寺に集めて武相困民党結成大会を開いた。この石碑はこれを記念して青柳寺に建てられたものと思われる。
 この結成大会で決議した運動方針は、高利貸や金融会社との行き詰まった交渉を、県や郡当局の職権をもって打開してもらうよう請願するものであったという。幹部には町田の自由党員も一部入っていた。この請願は受け入れられず、困民党の幹部が逮捕されてしまう。出獄した後の幹部や同志たちの結末は惨苦であり、特に首謀者の須長蓮造は、晩年行商人となって諸国を流浪、最期は谷野村に近い甲野原に行き倒れて死んだという。
  
 江戸時代でいうと一揆に当たる民衆決起であるが、明治時代の日本において生糸は代表的な輸出品であったことから、国を閉じていた江戸時代とは異なり、国際経済の動向が日本の生産者に多大の影響を与えた事例といえる。そして、淵野辺の蚕影神社蠶守神に見られるように、この辺りが養蚕の盛んな土地であったことにより、国際的不況の影響をもろに受け、養蚕業者の生活を直撃したことを示す石碑であるといえる。
 
 
写真23(鹿島神社)
 
写真24(武相困民党発祥之地石碑
 
写真25(青柳寺)

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