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 ぶらり歩き  
 1.境川を歩く (5)                              平成14年8月4日
 淵辺義博の居館跡を後にして、境川を離れて八王子千人同心旧家・小川家に向かう。道端に錆びついた案内板を見つけ、その脇の竹林の間にある細道の奥の広い敷地に建つ民家が小川家(写真11)と知る。徳川開幕以来、何代も代を重ねてきたわけだが、門構えがあってそれらしい趣きを感じさせる佇まいである。そもそも八王子千人同心とは、江戸の守りにとって甲斐・武蔵方面の警備・防御が重要と考えた徳川家康が、織田信長によって滅ぼされた武田氏の遺臣250名をもって組織した武士団で、主として八王子千人町に居住していた。千人同心は江戸防備としての甲州境の警備だけでなく、のちに日光東照宮の警備(火の番)や、江戸城や大阪城の修理、幕末頃には蝦夷地の開拓などでも活動している。八王子千人同心のうち、千人頭は旗本格の上級武士であったが、同心となると半農半武士の生活をし、年貢も納めていたといわれているので、小川家も八王子から離れた橋本に根拠地を置いていることから、農業も兼ねた同心であったと思われる。
 小川家の周辺は新しく住宅開発が進められており、その一画にかなり古い創建と伝えられている皇武神社(写真12)が建っている。鳥居から拝殿までの参道が長く、拝殿が高台に設けられている形式は日枝神社に似ている。この神社も淵辺義博の信奉が篤く、出陣に際しては幣帛(へいはく。神道の祭祀において神に奉献する供物)を奉持して戦勝を祈願したという。

 神社の境内の右側に蠶守神という石碑(写真13)が建っている。は蚕のことで、蠶守神御嶽神社にあった蚕影神社と同じく養蚕の盛業を祈ったもので、おきぬ様信仰がこの付近一帯で盛んであったことの名残りという。おきぬ様とは蚕から紡ぐ絹のことで、明治時代になってこの地よりおきぬ様信仰が始まり、埼玉、群馬にも影響を与えたそうである。当時、この付近は桑畑で養蚕が重要な産業であり、蠶守神大神は養蚕の守り神で、とぐろを巻いた蛇が御神体である。この地の逸話として、「養蠶で忙しく、人手がなく困っていた氏子のところに神主の娘が手伝いにきて、仕事がてきぱきと片付いた。その後、娘は白蛇となり、神社の拝殿の中に消えた。そのため、養蠶の時期になると、蛇のお札と娘の人形おきぬ様をもらいに神社に大勢お参りした。」といわれている。                                          

 
 
写真11(八王子千人同心 小川家)
 
写真12(皇武神社)
 
写真13(皇武神社 蠶守神石碑

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