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 ぶらり歩き  
1.境川を歩く (3)                    平成14年8月4日
 番場橋を過ぎたところに、上矢部の鎮守で、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として相模、下野、上野の国まで勢力を広げた武蔵七党(むさししちとう)のひとつ横山党の流れをくむ矢部氏居館の裏鬼門に創建された御嶽神社(写真4)が建っている。神社の片隅に蚕影(こかげ)神社(写真5)と記した石碑があり、縄で仕切られた区画に石製の祠(ほこら)が2棟祀られている。相模原は昔から養蚕が盛んな地域で、文字から推察すると、養蚕の盛隆を祈って祀ったものと思われる。因みに、蚕影神社の総本社は茨城県つくば市にある蚕影神社で、正式な表記(旧字体)は蠶影神社と書くそうである。
 御嶽神社手前の川面を覘くと、ここでもつがいの鴨がのんびりと遊泳している。

 更に境橋共和橋宮前橋を通り過ぎて、鳥居の奥に見える木立に覆われた小高い丘の上に拝殿(写真7)がある日枝神社(写真6)に寄る。 
 神社の由来書では、「徳治2年(1307年)に執権北条貞時が僧となり、淵野辺に遊歴して官吏の善悪賞罰を正したとき、各所から溝が流れ込んできて池となり、大蛇が現れて人民を食べてしまった。そのため、貞時は溝内の高山に山王大権現を祈願し、淵野辺伊賀守義博に命じて大蛇を討ち殺させた。住民が大いに喜んで山王大権現を淵大水有主神として祈願した。天文11年(1542年)8月27日に北条氏康が関東平定のため大友義家山王大権現を祈願所とした。その後、悪病流行の時に、伊賀権現大酉明神のお告げにより、知行岡野孫一郎の命令で氏子一同が8月27日及び11月の酉の日に五穀豊穣、氏子安全福作永年を祈る。」となっている。 
 山王権現(さんのうごんげん)は京都の日枝山(比叡山のこと)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神といわれ、日吉権現とも呼ばれているようだ。この日枝神社は鎌倉時代に山王権現を勧請して以降、戦国時代の北条氏康も信奉した古社のようである。淵野辺(淵辺)氏というのは横山党の矢部氏の支流といわれており、この地域の地名が淵野辺、矢部であることから、よく言われるように、地域の有力者、豪族が彼らが土着した土地の地名に由来して苗字としたという説の通りである。

 
 
写真4(御嶽神社)
 
写真5(蚕影神社)
 
写真6(日枝神社)
 
写真7(日枝神社 拝殿)

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