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 ぶらり歩き  
 1.境川を歩く (4)                               平成14年8月4日
 両国橋山根橋の間にある三角形をした土地に双体道祖神地蔵尊、そして徳本の名号塔(写真8)が何気なく、祀られている。しかも石仏の前にはお供え物が奉納されており、近所に今でもお参りをする人がいることを示している。相模原市内に14ケ所に徳本の名号塔があると相模原博物館の加藤学芸員から聞いていたが、徳本名号塔にこんな偶然で出会えるとは予期していないだけに感激である。しかし、この場所は境川の左岸に位置しており、地図を調べてみると、東京都町田市の土地であることがわかるが、徳本上人が歩いた江戸時代の頃、この辺りの境川の流れはどうなっていたのであろうか。
 ここまで歩いて来て、境川が必ずしも東京都と神奈川県の行政境界ではなく、微妙に出入りがあることに気づいた。境川の左岸に設けられた歩道の管理が相模原市となっている土地もあり、またその逆の土地もあり、かつて蛇行していた境川のある時期の川筋によって境界線が決められた後に、河川工事により境川の流れを直線的に変更したことにより、このような逆転現象が生じてしまったようである。

 根岸橋を渡り、境川右岸の相模原側に戻り先ほどの日枝神社の由来書に登場する淵辺義博の居館跡への道を探していると、根岸橋端に秋葉大権現道祖神などの石仏(写真9)が並んでいるのが偶然目に入る。整然と並べられているものの、普段往来している住民はあまり気にとめていなのではないかと想像される。

 淵辺義博の居館跡(写真10)は天野氏の屋敷内に設置されているため、探すのに一苦労したが、石碑がなければまったく気がつくことがない場所である。日枝神社の由来書にも出てくる淵辺義博は南北朝時代に淵野辺村の地頭であった武将で、次のような逸話が残っている。
 淵辺義博は足利尊氏の弟直義(ただよし)の譜代の家臣で、淵野辺村に住んでいた。鎌倉幕府滅亡後、北条時行(14代執権北条高時の次男)が攻め込んできたときに、足利直義は劣勢となり、三河に退去するにあたり、淵辺義博に対して後醍醐天皇の皇子護良親王の殺害を命じる。淵辺義博は鎌倉二階堂の東光堂の土牢に幽閉されていた護良親王を刺殺し、その首を近くの藪に捨てたといわれている。その後、義博は足利直義に従って駿河国で北条氏と交戦してそこで戦死したと言われている。これには、さらに護良親王を殺さずに石巻に逃したとの逸話や日枝神社にまつわる大蛇退治の伝説などもある。 
 
 由来書にある北条時行の武装蜂起は鎌倉幕府が滅亡した後、北条家に心を寄せる東国の武士を集結して、鎌倉に駐屯する足利直義に仕掛けた「中先代(なかせんだい)の乱」のことである。足利直義は権謀術数にたけた武将であったようで、後醍醐天皇による建武の新政後、父帝の後醍醐天皇から疎まれて流罪に処せられた大塔宮、すなわち護良親王(もりながしんのう)を鎌倉に幽閉させることに成功する。中先代の乱を利用して、源氏の頭領として頭角を現した足利尊氏と対立関係にあり、武家政治を実現するために邪魔となる護良親王の殺害に計画し、これを淵辺義博に命じたようである。歴史上の大事件に関わった武将がこんな身近に居住していたことを知り、境川流域が坂東武士が治める土地であったことを教えられる。                                         

 
 
写真8(徳本名号塔等の石仏群)
 
写真9(根岸橋端の石仏群)
 
写真10(淵辺義博の居館跡碑

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