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 ぶらり歩き    
 4.境川を歩く (19)                               平成14年9月7日  
  遊行寺一遍上人(1239年〜1289年)の時宗総本山(正式には藤沢山無量光院清浄光寺・しょうじょうこうじ)で、鎌倉時代末(正中2年・1325年)に遊行第四代呑海上人(1265年〜1327年)が、極楽寺の旧跡に再建して遊行(修業のため諸国を巡りながら人々に教えを説くこと)引退後の住まいとしたのが始まりである。遊行三代の智得が相模原の無量光寺で亡くなったとき、呑海上人は遊行に出掛けており、無量光寺の住持は執権北条高時の命令により智得の弟子真光が継ぐことになった。そのため、呑海上人は無量光寺に入ることができなくなったが、この辺りを所領とする兄の俣野景平の援助を受けて清浄光寺を創建してもらったという。その後、歴代上人も遊行引退後に住むようになり、通称遊行寺と呼ばれるようになった。
 因みに、藤沢は遊行寺が開かれて以来、その門前町として栄え、慶長6年(1601年)、徳川家康が街道整備を目的に伝馬掟朱印状を発してからは東海道の藤沢宿として発展した。

 遊行寺の山門(写真51)日本三大黒門のひとつで、この重厚な山門を抜けると、いろは坂と呼ばれる48段のなだらかな石段が続き、両側は墓地と分院になっている。
 いろは坂を登り切ると、左側に樹齢700年、周長6.6mの枝ぶりもりっぱな公孫樹(いちょう)(写真52)の巨木が目に飛び込んでくる。その隣では付近の老人が小雨もかまわずにゲートボールに興じている。 

 境内に小栗判官・照手姫の墓があるというので、案内に従って寺の裏側へ回るが、発見できなかった。

 遊行寺で最も感動したのは歴代上人の墓所(写真53)である。墓石は全体に丸みを帯びた円筒形をしており、しかも下部がすぼまっている、なんとも形容しようのない安らぎを感じさせる形をした墓石である。死者のための墓であるが、逆に新しい生命が今まさに誕生しようとする瞬間を形に表したような躍動感を感じる。しかも、歴代上人の数に対応して数十も配置されている様は大宇宙での生命継続の力強さを醸し出している。
  
 
写真51(遊行寺山門)

 写真52(遊行寺 公孫樹)
 
写真53(遊行寺 歴代上人墓所)

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