教養の玉手箱

南町奉行・遠山左衛門之丞は、白州に引き出された悪人を前に「包み隠さず有体に申せ」と嘆可を切る。嫌疑をかけられた悪人は、身に覚えのある罪科を隠し通そうとさまざまな申し開きを試みる。しかし、ついに奉行の肩に彫られた桜吹雪の入れ墨に自らの悪行を見られたことを知り観念する。必死に包み隠した悪行も、あっけなくその包みを解かれあばかれてしまった。
包むとは大切に中味を守りかつ覆い隠してしまうことである。包み隠さずとはその様を引用し、覆いを解いて真実を述べよということに他ならない。なんでもないせりふがなかなか機知にとんだ言葉であったことに驚かされる。




包むといえばいろいろなことに思いあたる。書店で本を求めると「カバーをおかけしますか?」と聞いてくれる。いつからこういう習慣が定着したのか知らないが、電車の中などで読むには都合がよい。傍目にもそれが何の本だか知られなくてすむ。ちょっとした安堵感がある。もともとカバーは本が貴重だった時代に丁寧に扱った名残かもしれないが、むしろカバーは覆い隠すことに意義を見い出したとも言える。もちろん車中での読書が罪にならないのは言うまでもない。

風呂敷は日本の偉大な発明だ。一見なんの変哲もない四角い布が、いろいろなものをその形なりにしっかりと包み込む。くるみ方から結び方までその包み方のノウハウが蓄積され伝承されてきた。包み方を見てこれは只者ではないと感嘆する。しかし惜しいことに近ごろ風呂敷を目にする機会が少なくなった。その一方で、ギフトラップなど洋風の包装が盛んになっている。かたちは変わったが、包みは今も自己表現の手段としての意味を担い続けていることに変わりはない。


風呂敷がたった一枚の布による包み方の極意とすれば、他方にはかって幾重にも包み重ねる極意の世界があった。十二単である。こちらには王朝の女房の美意識が顕わされた。体を包む作法なればこそ、そこには思いのたけがこめられる。単衣の色の重なりには、移りゆくみごとな季節を愛で、その風雅を我がものにしようとするしたたかな狙いがこめられた。その人となりが包み方の極意に顕われ、凄まじくも華やかに競われたに違いない。


近年ますます盛んなものにパックツアーがある。限られた予算と日程に貪欲なまでに旅のメニューがパックされている。何がパックされているかで魅力が決まる。これは詰め込みの妙味である。

英語では、旅行すなわちTRAVELは、もともとTROUBLEつまり困難と同義語だという。歴史的にも旅行は危険がつきもので、それはほとんど冒険を意味していた。ところがパックツアーとして旅のプロによって企画され、見事なつめこみがなされた結果それは安心して楽しめるものに変貌した。そこには目的を一にする者同士が寄り集まり、皆で(海外に)渡れば怖くないという群衆心理も作用する。パックとはパッケージの簡略形で、かたちあるものを詰め込むこと。パックツアーはさしずめ見識者の価値観で詰め込んだ地域情報パックが売りものだ。

古来より日本人は美意識をもとにつめこむことに長けている。幕内弁当は芝居の幕間に食べやすいように仕立てられた弁当だ。四角い弁当箱は田の字に仕切られ贅沢な山海の珍味がつめられている。各々が引き立てあうことで目に美味しい。食品相互の調和の妙味が形と色に生かされて、華やいだ芝居の幕間をつなぎ、途切れることなく楽しむ気分を盛り上げる。

調和は高度な美意識なくしては生まれない。秀でた教養とより良い感性が必要だ。それには修練を積むしかない。調和とは美の結晶なのである。時代は常に高度な統合をめざしている。今世紀、美の結晶はシンプルな中に求められてきた。もともと商品をまとめるため従属の地位にあった包装も例外ではない。包装(パッケージ)は市民権を得、中味と並び主役となった。パッケージは単独でも売れる時代である。商品には包み方の作法はもちろん、さまざまな環境との調和が求められている。

中味を包み隠しおおい隠す時代からつめ方を楽しむ時代へ。そこでは各人各様のライフスタイルや価値観が満たされねばならない。すなわち人生の自己演出道具としてのパッケージが求められている。品定めがその人となりを顕わすように、パッケージは知性を証す。それはすなわち教養の玉手箱である。だれもが玉手箱のふたを開けた時、そこに真の教養が湧きいづることを現代は求めている。



スーパーバッグ株式会社/S.P.C.NEWS vol.4 1987 包装の歴史に寄稿

今世紀、美の結晶はシンプルな中に求められてきた。21世紀はどんなだろう?



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