津山城築城400年
市ではH16年4月1日〜H17年5月5日までの400日間にわたり、さまざまな記念事業を開催しました。
この記念事業の先駆けとして、津山郷土博物館では、3月20日〜4月18日の間、江戸城
後期に活躍した津山藩のお抱え絵師、鍬形寫ヨ(くわがた・けいさい)の
特別展を開催しました。

鍬形寫ヨがどのような活躍をした絵師だったのか、ここで追ってみましょう。
鍬形寫ヨの魅力を探る
浮世絵師・北尾政美の誕生
 寫ヨ(1764〜1824)は明和元年、町人の子として江戸に生まれました。
10代半ばごろに浮世絵師・北尾重政に師事し、北尾政美と名乗り著名な戯作者山東京伝
(北尾政演まさのぶ)や窪俊満とともに、重政門下の三羽ガラスとして活躍しました。

 津山藩に出任するまでの浮世絵師としての活躍は、黄表紙(江戸時代半ば頃から流行した読み物)
の押し絵が200部余りに及んでいる事からも版本画家としての当時の人気を知ることができます。
寫ヨに訪れた転機
 当時の江戸で人気、実力を極めていたであろうと推測される寫ヨですが、大きな転機が訪れたのは
寛政6年(1794)、寫ヨ数え年で31歳のときです。 なんと、この年に寫ヨは津山藩松平家
お抱え絵師に取り立てられたのです。

 江戸時代、諸大名家の御用絵師は狩野派の門人とされており、当時の浮世絵師は決して社会的
地位の高いものではありませんでした。 人気があったとはいえ一介の町絵師であった寫ヨが、
親藩津山藩のお抱え絵師となったのですから、大いに江戸市中の話題となったことでしょう。
鍬形寫ヨの誕生
 寛政6年、津山藩に出任したのち画号を寫ヨとしました。 寛政9年(1797)には、狩野派に入門して
伝統的な画法の勉強もし、姓を鍬形、号を紹真(つぐさね)と改めました。
津山藩お抱え絵師となってからも寫ヨはほとんど江戸に居住し、津山へ来たのは藩主の参勤交代に
従って、文化7年(1810)から8年にかけての1年足らず津山に滞在したときのみです。

 このときは、前年に焼失した津山城本丸御殿襖絵などの製作を命ぜられています。
寫ヨは藩命により絵を描くかたわら、江戸各地の名所風景や日常生活における人物描写などの
多くの作品を残しました。
北斎嫌いの寫ヨ好き
 寫ヨと同時代に活躍した著名な浮世絵師に、葛飾北斎(1760〜1849)がいます。
世界的に知られる北斎の代表作「北斎漫画」は、実は寫ヨの「略画式」の影響を受けていると
言われています。

 二人はほぼ同時代に活躍した絵師ですが、その作風は対象的です。
北斎の絵が「富嶽三十六景」に代表されるように、想像性豊かで力強く躍動的であるのに対し、
寫ヨの作風の特徴は、軽妙洒脱な気の利いた感受性にあるといわれています。

 強烈な印象を与える力強い北斎に対し、洗練された軽妙な印象を与える都会的な寫ヨ
北斎が地方の大衆の人気を博したのに対し、寫ヨはおもに都会人に評価されました。
「北斎嫌いの寫ヨ好き」という言葉がありますが、これは寫ヨに対する江戸っ子の親近感を
あらわしたものといえるのでしょう。
寫ヨの魅力を体感してください
 寫ヨは、とくに略画式の作品と名所図に注目すべきところがありますが、地味な作品が多いためか
残念ながら一般にはあまり知られていません。

 そこで、市では津山城築城400年記念事業の一環として、東京太田記念美術館と協力し
鍬形寫ヨ展を開催していました。 「桜花遊宴図(太田記念美術館蔵)」など津山ではほとんど見ることが
出来ない寫ヨの約50点の作品が展示されました。

 この機会に、全国に向けて寫ヨの業績を紹介し、 そして、市民の皆様にも是非寫ヨの作品に
間近に触れて、その魅力を体感していただきたいと思い展示会をしました。
鍬形寫ヨ(くわがた・けいさい)展は終了しました。
ご来館ありがとうございました。
問い合わせ先 津山郷土博物館(0868)22−4567

こちらは随時展示しております。よろしくお願いします。
箕作阮甫(みつくり・げんぽ)
 日本の近代化に貢献した、洋学者宇田川玄随(うだがわ・げんずい)や箕作阮甫(みつくり・げんぽ)に
関する資料が7000点にも増え、この貴重な資料を津山市城東地区洋学資料館に展示しています。

国内はもとより、国外の方達からも広く愛され喜ばれている。

 城東地区は昔、出雲街道として栄えた町並みでした。
城下町の町並みと共に豊かな自然と文化を観光の一環としています。
詳しくはこちらをクリックしてください。
津山市の広報より載せています