『香港物語・バレンタイン』



早いもので暦はもう2月。
2月のイベントといえばなんでしょう。
節分?
恵方巻き?

いえいえ。
2月のイベントといったらやっぱりこれ。
バレンタインです。
それはここ、香港でも変わりはありません。
特に片想いの女の子にとってこのイベントはとても大事なものです。
意中のあの人に想いを告げる絶好のチャンスなのですから。

けれども。
中にはそんな特別のイベントの日でも、そう簡単には事を運べない子もいるようです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

それは2月の初めの学校でのこと。
ホームルームも終わってさあ帰ろうというところで、さくらは知世ちゃんに声をかけられました。

「さくらちゃん、ちょっとよろしいでしょうか」
「なあに、知世ちゃん」
「来週ちょっとお時間をいただけないでしょうか」
「来週? 来週は非番だから大丈夫だと思うけど。なにかあるの?」
「実はバレンタインにお配りするチョコを作ろうかと思いまして」
「バレンタインのチョコ?」
「はい。毎年お世話になっている方にお贈りしているのですが、今年は手作りのチョコをお贈りしようと思いますの」
「ふ〜〜ん」
「ですが、お配りする方が多くて一人ではちょっと手が足りなさそうなのです。それで、さくらちゃんに手伝っていただけたらと思ったのですが」
「いいよ、知世ちゃん。手伝うよ。チョコ作りかぁ〜〜。おもしろそうだね!」

知世ちゃんのお願いに二つ返事で答えるさくら。
たしかに面白そうです。
李家のキッチンでも時々お菓子を作りますが、基本的には大人のお客様をもてなすためのもの。
チョコレートのように女の子向けのお菓子を作ったことはありません。
初めての体験を想像して楽しそうな笑みを浮かべるさくらです。

ですが。
続けて発せられた知世ちゃんの質問がさくらの笑みを曇らせてしまいます。

「ありがとうございます。ところでさくらちゃん」
「うん?」
「さくらちゃんはどなたかにチョコをお贈りする予定はないのですか?」
「!?」

それはとても自然な問いかけでした。
この季節、女の子同士の話の中でもちあがるのは当然の質問です。
でも、さくらはこの当たり前の質問に答えることができませんでした。
さくらにもバレンタインのチョコを贈りたい人はいます。
頭に浮かんだのは愛しいあの人。
さくらがお仕えしている李家の若当主、小狼様です。
さくらもお年頃の女の子。
バレンタインの日に片想いのあの人にチョコを贈りたい、そして、この想いを告げたい・・・・・・そう思わないはずはありません。
しかし、それは自分には許されないことです。
小狼様は香港一の大財閥、李一族の跡取り息子。
それにひきかえ、自分は李家に仕える一介のメイド。
あまりにも身分が違いすぎます。
さくらと小狼様の関係は、軽々しくバレンタインのチョコを贈れるようなものではないのです。

「と、特に予定はないけど。お兄ちゃんに贈りたいけど、お兄ちゃん入院中だからお菓子とか食べられないしね」

そう誤魔化すしかありませんでした。
そんなさくらの悩みを知ってか知らずか、知世ちゃんは

「そうですの」

とニッコリとした笑みを浮かべて、さらなるお願いをしてきます。

「では、よろしくお願いしますわ。それとさくらちゃん。実はもう一つお願いがあるのですが」
「うん? なに」
「李さんのことなのです」
「李さんって、小狼様のこと?」
「はい。李さんにお贈りするチョコはどんなものがよろしいでしょうか」
「え・・・・・・? 知世ちゃん、小狼様にもチョコを贈るの?」
「そのつもりですわ。李さんにはいろいろとお世話になっていますので。さくらちゃんなら李さんの好みをよくご存知でしょう? どんなチョコなら李さんの好みにあうでしょうか」
「そ、そうだね。小狼様はあんまり甘いものが好きじゃないから。シンプルなチョコがいいんじゃないかな」

かろうじて表情を変えることなく知世ちゃんの質問に答えるさくら。
けれど、心の奥では複雑な感情が渦巻いています。

(小狼様にチョコ? 知世ちゃん、ひょっとして小狼様のことが・・・・・・? あ、でも日頃お世話になっているからって言ったよね。それって義理チョコっていうことなのかな。でも、もしかして・・・・・・?)

やっぱり、知世ちゃんも小狼様のことが・・・・・・?
知世ちゃんのお母さんは大きな会社の社長さん。
知世ちゃんだったら小狼様と並んでもおかしくないよね。
知世ちゃんはとっても可愛いし、お料理も上手だし、小狼様にお似合い・・・・・・

そんな考えが頭の中をグルグルしてしまいます。
それが顔に出てしまったのでしょうか。

「さくらちゃん? どうなさいました」
「え、あ、なに?」
「何か急に考えこんでしまわれたようですが。やっぱり何か用事がおありでしたの?」

知世ちゃんにツッコまれてしまいました。

「そんなことないよ! 来週だね! うわ〜〜楽しみだな〜〜」

あわてて空元気を振り絞り、無理に明るい声で答えるさくら。
でも、明るい声とは裏腹に表情にはさくららしからぬ翳りが浮かんでいます。
そんなさくらを、ちょっとだけイジワルそうな瞳で見つめる知世ちゃんです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

さて、その夜。

「こんばんは、李さん」
「これはこれは知世嬢。知世嬢もお年寄りから逃げ出してきた口ですか」

小狼はさるパーティ会場で知世ちゃんに声をかけられました。
正確にはパーティ会場の中ではなく、会場を出たバルコニーでです。
夜蘭の名代で出席はしたものの、大人ばかりの会場ではお酒を飲めない未成年は息苦しいばかり。
たまらなくなって、バルコニーに出たところで知世ちゃんに呼び止められたのです。
なので、てっきり知世ちゃんも自分と同じように大人たちから逃げ出してきたのかと思ったのですが、どうやらそうではないようですね。

「くすっ。違いますわ。李さん、貴方にお願いしたいことがありましてまいりましたの」
「オレ、いや、わたしに? 何のご用でしょうか」
「来週のバレンタインのことですわ」
「バレンタイン? どういうことでしょう。もしや、李家とピッフル・カンパニーで合同のイベントを行いたい、そのようなお話ですか」
「いいえ。それも違いますわ。その・・・・・・」
「?」
「来週のバレンタインにわたしから李さんにチョコを贈りたいのですが・・・・・・受け取っていただけるでしょうか」
「知世嬢からわたしに?」
「はい。日頃お世話になっているお礼にと思いまして」
「それは・・・・・・」

ここで小狼は一瞬、答えに詰まってしまいました。
知世ちゃんの真意がわからなかったからです。
たしかに、李家と知世ちゃんのお母さんの会社、ピッフル・カンパニーはいろいろな事業で提携して仕事をしています。
その関係で小狼も知世ちゃんに会う機会が多々ありました。
知世ちゃんに便宜を図ってあげたことも一度ならずあります。
しかし、それはあくまで李家とピッフル・カンパニーとの関係があってのことです。
知世ちゃん個人と特別なお付き合いをしたことはありません。
また、これまで知世ちゃんが自分に特別な好意を寄せているような素振りを見せたこともありません。
むしろ、敬遠されているのかと思っていたくらいです。
それが、なぜ急にこんなことを言い出すのか?
小狼が逡巡する理由はそこにあります。

そんな小狼の困惑を敏感に感じ取ったのでしょうか。

「わたしからのチョコはご迷惑でしょうか。ひょっとして、もう心に決めた方がいらっしゃって、その方以外のチョコは受け取れない、とか・・・・・・」

と鋭くツッコんできました。
心に決めた人、と言われて小狼の脳裏に浮かんだのは一人の少女。
小狼に仕えるメイドの一人、さくらです。
本音を言えば知世ちゃんの言う通り、チョコはさくらから欲しい、さくら以外からのチョコは受け取りたくない、と思っています。
しかし、それを口に出すわけにはいきません。
当主といってもまだまだ若年の小狼。
厳しい李家の戒律の中にあって自分の恋一つ、自由にできる権限も与えられていないのです。
秘めたるさくらへの想いをこれまで口に出したことはありません。
自分の迂闊な発言がさくらの去就を迷わせることになりかねない、そう考えているからです。
さくらの気持ちもいまだに確認できていません。
これも小狼の李家当主としての立場が原因です。
さくらの立場では李家当主たる自分の意に反した答えはできない、たとえどれほど自分のことを嫌っていようと『好き』と答えるしかない・・・・・・
それがわかっているからです。

伝えたいのに伝えられない、もどかしいこの想い。
当然ながら、それはここで知世ちゃんには言えないことです。
また、知世ちゃんの機嫌を損ねてピッフル・カンパニーとの関係を悪化させるわけにもいきません。

「いや、そのようなことはありません。知世嬢のチョコ、ありがたくいただきます」

そう誤魔化すしかない小狼なのでした。
曖昧な笑顔の裏で

(本当は知世嬢じゃなくてさくらからのチョコが欲しいんだけどな。まあ、無理か)

と、ひそかな不満を漏らしながら。
それをクスクスと笑いながら見守る知世ちゃん。
その瞳にはちょっとだけ妖しい光が煌いているように見えます。

(うふふふ。これで下準備はOKですわね。バレンタインが楽しみですわ〜〜)

おやおや。
知世ちゃん、どうやらなにかを企んでいるようですね。
一体、なにを企んでいるのでしょうか??

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続きます。
香港にはバレンタインの風習はないのでは? というツッコミは却下の方向で。

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