『香港物語・バレンタイン(正)』



2月13日。バレンタイン前日。

「それでは始めましょうか」
「うん!」

ここは大道寺邸のキッチン。
いつもは何人ものコックさんが働いているところですが、今日はさくらと知世ちゃんの二人だけ。
そのせいか、ただでさえ広いキッチンがさらに広く見えてしまいます。
しかもです。

「それにしても知世ちゃん。ずいぶんいっぱい材料を用意したんだね」

さくらが思わずそう言ってしまうほどたくさんの材料が積み上げてあります。
板チョコ、バター、マシュマロ、砂糖、卵、ミルク、薄力粉、etcetc。
ブランデーの瓶までありますね。
大人向けのチョコ用でしょうか。
それに、星型、月型、丸型、ハート型とさまざまな形の型も用意してあります。
知世ちゃん、かなり気合が入っているようです。

「ふふふっ。手作りのチョコを贈るのは初めてですから。ちょっと奮発してみましたの」
「すご〜〜い」
「さあ、あまり時間もありませんわ。すぐにでも始めましょう」
「そうだね。で、知世ちゃん。チョコの手作りって一体、どうするの?」
「まずはチョコを刻むところからですわ」
「チョコを刻むの? どうやって」
「こうやって包丁でちょっとずつ刻むのがいいみたいです。こう・・・・・・。んんっ、あら? なかなかうまくいきませんわね」
「なんか大変そうだね。じゃあ、わたしも・・・・・・えいっ!」

こうして始まった二人のチョコ作り。
ですが、さくらも知世ちゃんもチョコ作りは始めての経験。
知世ちゃん、材料を揃えるだけではなく作り方のほうもキチンと調べてはいたようですが、やはりそう簡単にはいきません。

「思ったよりも手間がかかりますわね」
「うぅっ、チョコがうまく溶けないよ〜〜」
「さくらちゃん、あわてずに。チョコを溶かすのはゆっくりと、あわてずにですわ」
「こ、こうかな」
「そうそう。空気が入らないようにゆっくりと丁寧にかき混ぜるのが成功の秘訣だそうです」

悪戦苦闘の二人。
なんとか全てのチョコを溶かし終わった時にはすでに1時間近くが過ぎていました。

「ふぅっ。ようやくここまできましたわ」
「ほぇぇぇ〜〜〜。チョコ作りって大変なんだね」
「本当にその通りですわね」
「みんな毎年こんな大変なことやってるのかなぁ」
「それだけ想いが強いということなのでしょう。大事な人に手作りのチョコを贈りたい、食べてもらいたいという想いが」
「うん・・・・・・。そうだね」

大事な人への想いと言われて頭に浮かんだのはあの人の顔。
そう、小狼様です。
もしも小狼様にチョコを贈れるのなら、そして小狼様に自分の作ったチョコを食べてもらえるのなら・・・・・・
たしかにどんな苦労も気になりません。
小狼様が自分の作ったチョコを食べている姿を想像しただけでとっても幸せな気分になれます。
でも、それは自分には許されないこと。

(みんなはいいなぁ。好きな人が身近な人で。わたし、好きになる人を間違えちゃったのかなぁ)

それを思うと、ちょっとだけ暗い気持ちになってしまいます。
そんなさくらの思いをよそに

「さあさあ、さくらちゃん。ぼんやりしている暇はありませんわ」

知世ちゃんはバリバリとチョコ作りを進めていきます。

「思ったよりも時間がかかってしまいましたね。ここからは作業を分担して進めることにしましょう」
「そうしようか。それでわたしは何をすればいいの?」
「さくらちゃんはチョコの型入れをお願いいたしますわ。わたしはクッキーの方にとりかかります」
「クッキー? チョコじゃなくて?」
「はい。本当はショコラとかチョコトリュフとかいろいろチャレンジしてみたかったのですけど時間が足りないようですわ。クッキーならばこれまで何度か作ったこともあります。ちょっと手抜きですが、チョコクッキーというところで手を打ちましょう」
「でも、クッキーの方が大変じゃないかな。チョコは型に入れるだけでしょ。わたしもクッキー作り手伝おうか?」
「そんなことはありませんわ。チョコを型に入れて固めるのは思ったよりも難しいのですから。それに・・・・・・」
「ん? それに何?」
「いえ、なんでもありませんわ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

それからさらに1時間後。

「できた!」

ようやくチョコは完成しました。
完成したのは星型、月型、丸型、ハート型と様々な形に型取りされたチョコと、チョコをまぶしたこれもいろいろな形のクッキーです。

「できましたわね。さくらちゃん、おつかれさまでした。さて。それでは最後の仕上げです」
「あれ? 最後の仕上げってまだ何か残ってるの?」
「これですわ」

そう言いながら知世ちゃんが取り出したのは白いチョコペン。

「これって・・・・・・チョコのペン?」
「そうですわ。せっかくの手作りですから。お贈りする方へ一言メッセージを入れようかと思いますの」
「ふ〜〜ん」

なかなかの達筆でチョコへメッセージを書き込んでいく知世ちゃん。
それをただ見ているだけのさくら。
一見はぼーっと知世ちゃんを見つめているだけのように見えます。
ですが、さくらが本当に見ているのは知世ちゃんではありません。
さくらが見つめているのは1つのチョコ。
さくら自身が型取りしたハート型のチョコです。
マシュマロやフルーツグミなどカラフルなお菓子でトッピングされた他のチョコと違い、ハート型のそのチョコだけは何のトッピングもされていません。
型を取っただけの非常にシンプルな仕上がりです。
それだけに気になります。
ハートという特別な形をしたチョコ。
他のチョコとは違う扱いをされているチョコ。

(知世ちゃん、あのチョコを誰に贈るつもりなんだろう。もしかして・・・・・・)

もしかしてあのチョコは小狼様へ贈るチョコなのでは・・・・・・?
何の装飾もされていないのは特別なメッセージを書き込むためなのでは・・・・・・?
やっぱり、知世ちゃんも小狼様のことが・・・・・・?

悶々とするさくら。
せっせとメッセージを書き込んでいく知世ちゃん。
そうこうしているうちにほとんどのチョコにメッセージが書き込まれ、残ったのは問題のチョコ1つだけになってしまいました。
最後に残った1つがハート型のチョコ。
実に意味ありげです。
さすがにここまでくると、さくらも聞かずにはいられません。

「ねぇ、知世ちゃん。ちょっといいかな」
「なんでしょうか」
「そのチョコ、誰に贈るチョコなの?」
「あら。気になります?」
「き、気になるっていうか、その」
「ふふっ、これは李さんに贈るチョコですわ」
「しゃ、小狼様に!?」
「はい。李さんにはシンプルなチョコがよいとお聞きしましたので。これならよろしいかと」
「あ・・・・・・そ、そうだね。これなら小狼様も喜んでくれるよ」

小狼様にはシンプルなチョコがいい・・・・・・目の前にあるのは自分が知世ちゃんに教えたとおりのチョコ。
でも、それがハート型になるとは思ってもいませんでした。
いいえ。
思わないようにしていた、が正しいでしょうか。
大財閥の令嬢である知世ちゃんならば小狼様ともお似合い。
知世ちゃんが小狼様を好きになったらもう、自分の割り込む隙間なんかない。
だから、知世ちゃんには小狼様を見て欲しくなかった。
知世ちゃんには・・・・・・
それが押し隠してきた自分の本当の気持ちであることにさくらは気がついてしまいました。

(わたし、イヤな子だ・・・・・・。知世ちゃんのこと応援してあげなくちゃいけないのに・・・・・・。知世ちゃんのこと妬んでる・・・・・・)

自己嫌悪に陥ってしまうさくら。
再びペンをとってチョコに文字を書き込んで行く知世ちゃん。
チョコの表面に浮かび上がる『TOMOYO』の文字。

(自分の名前かぁ。バレンタインのチョコとしては定番かな・・・・・・って、あれ?)

と、そこでさくらはチョコに書かれた文字がちょっとおかしいことに気がつきました。
たしかにチョコには『TOMOYO』の文字が書かれているのですが、それはハートの右半分だけ。
左半分には何も書かれていません。真っ黒なままです。
不思議がるさくらに知世ちゃんは

「さあ、さくらちゃん。さくらちゃんの番ですわ」

そう言いながらペンを差し出します。

「え、知世ちゃん? わたしの番ってどういう意味?」
「さくらちゃんのお名前を書く番ですわ」
「わたしの名前? でも、このチョコは知世ちゃんから小狼様へのチョコなんでしょ。わたしの名前なんて書いていいの?」
「もちろんですわ。だってこのチョコはわたしとさくらちゃんとで作ったのですもの。二人の名前を入れるのは当然でしょう」
「そ、そうかな?」
「そうですわ」

小狼様へのチョコに自分の名前が書ける。
たとえ自分の手で贈ることができなくとも、自分の名前の入ったチョコを食べてもらえる。
そう思うとさくらもちょっぴり嬉しくなってきました。

(小狼様へのチョコなんだから。キレイに書かなきゃ!)

きゅっ、きゅっと慣れない手つきで自分の名前を書き入れるさくら。
ハートの左半分に浮かび上がる白い『SAKURA』の文字。

「書けた! 書けたよ、知世ちゃん」
「はい、さくらちゃん。これで本当に全部出来上がりですわ」
「えへへ。知世ちゃんの字に比べるとへたっぴだけどね」
「では、さくらちゃん。さくらちゃんに最後のお願いがあります」
「ん? なに? まだ何かあるの?」
「このチョコなんですが、さくらちゃんの手で李さんにお渡ししていただきたいのです」
「え・・・・・・? わたしから小狼様に?」
「はい。実は明日はどうしてもはずせない用事がありまして李さんにお会いすることができませんの。なので、さくらちゃんの手で直接李さんにお渡ししてください」
「知世ちゃん・・・・・・」

ここでようやくさくらにも知世ちゃんが考えていることがわかりました。
知世ちゃんはみんな知っていたのです。
自分が小狼様を好きなことも。
小狼様にチョコを贈りたいと思っていたことも。
だけど、それは自分の身分では許されないとあきらめていたことも。
みんな知っていたのです。
だから、こうして知世ちゃんからという体裁にして、さくらから小狼様にチョコを渡せるよう手はずを整えてくれたのです。

(知世ちゃんわたしのために・・・・・・)

ちょ〜〜っと変なところはあるけど、さくらのことを一番に思ってくれる知世ちゃん。
知世ちゃんの優しさに思わず涙が出そうになってしまうさくらです。

「ふふっ、どうなさいました、さくらちゃん」
「ううん、なんでもないよ! このチョコをわたしから小狼様にお渡しすればいいんだね!」
「そうです。よろしくお願いします」
「わかったよ、知世ちゃん!」
「あぁ、それともう一つ。やっぱり、初めての手作りチョコですから。お味の感想も聞いておきたいところですわ」
「味?」
「はい。できたらさくらちゃんと李さんで一緒に召し上がってお味の感想お聞かせ願えないでしょうか」
「うん、わかったよ!」
「よろしくお願いしますわ」

どうやら素敵なお友達の協力で、さくらも小狼様にチョコを贈ることができそうです。
本当によかったですね。

(小狼様にチョコを贈れる・・・・・・わたしから・・・・・・小狼様に・・・・・・小狼様に!)

小狼様にチョコを贈れる、それだけで胸がいっぱいのさくら。
それを優しい瞳で見守る知世ちゃん。

(うふふふ、さくらちゃん、李さん。よ〜〜く味わってくださいね。大道寺知世特製のチョコのお味を・・・・・・)

ん?
気のせいでしょうか。
知世ちゃんの瞳にちょっぴり妖しげな輝きが灯っているように見えるのですが・・・・・・?

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その夜。
大道寺邸の知世ちゃんのお部屋。

「ふふっ、これで準備万端。結果が楽しみですわ〜〜」

そうつぶやきながら目の前の小さな瓶を振る知世ちゃん。
中に入っているのは、最後のチョコにこっそりとふりかけておいたお薬です。
その正体は無色無臭の強烈な媚薬。
小狼様のような初心な男の子が、さくらみたいにカワイイ女の子を前にしてこんなものを口にしたらどうなってしまうことか・・・・・・
かなりトンでもないことになるのは間違いありません。

そうです。
これこそが知世ちゃんの真の企みだったのです。
媚薬入のチョコを小狼様に食べさせてさくらを襲わせる。
かなり、というかもう、犯罪レベルのトンでもないたくらみです。

一応、知世ちゃんの名誉のために断わっておきますが、知世ちゃんは何もイタズラでこんなことをしたわけではありません。
あくまでも、さくらと小狼様の仲を取り持ちたいという純粋な善意からです。
知世ちゃんには小狼様もさくらが好きなことがわかっていたのです。
お互いに好きあっているけど、お互いの立場を気にして想いを口にすることができない。
そんな二人の背をちょっぴり押してあげる、ただそれだけのつもりなのです。
知世ちゃんの見たところ、一歩を踏み出す勇気が必要なのはさくらよりもむしろ小狼様の方。
なので、少し強引ではありますが、小狼様にさくらを押し倒させて既成事実を作り上げてしまおう! そうお考えになっているのです。
あまりにも過激な手段ではありますが・・・・・・

「あぁぁっ! これで明日の夜にはさくらちゃんは李さんに・・・・・・! ビデオに撮れないのが残念ですわ〜〜」

妄想に浸って身悶えする知世ちゃん。
なんといいますか。
やっぱり、ちょ〜〜っとばかり変わったお友達ですね。

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翌日のバレンタインの夜。
李家でちょっとした事件が起きたようですが、その話はまた別の機会にしたいと思います。

END


香港バレンタイン正編。
邪編(本編?)に続きます。

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