赤きナイトと青きポーン・3
やはり、成歩堂は何者かに襲撃を受けていた……
裁判所から直接病院に向かう車の中で、御剣は苦々しい思いを噛みしめていた。
おそらく今朝少し遅れてきたのも、それが関与しているに違いない。
服装が乱れていたのも、だらしが無いのでも寝過ごしたのでも無く、まともに動けなかったが故だろう……
御剣がそれを正した時に聞いた呻き声は多分空耳などでは無かった。
ただ、成歩堂の演技にまんまと騙されてしまったのだ。
あの時もっと突っ込んでいたならば、あれほど苦しみを長引かせることも無かったかも知れない……
「……いや、同じ事か……」
御剣はそう独りごち、深々と溜息を吐いた。
そう、どちらにしても結果は同じだっただろう。
お互いに代わりが務まる人間など居ない。
たとえ実情が露呈したところで、成歩堂は法廷から逃げ出すことはしなかった筈だ。
そして御剣も彼を止める事は出来なかった筈……
自分が同じ立場であったならば、きっと……
「……チッ!!」
目の前の信号が赤に変わり、御剣は荒々しく舌打ちをした。
信号を待つ間、その長い指がハンドルを忙しなく叩き続ける。
自分の迂闊さと同時に、何も言わなかった成歩堂にも腹が立つ。
単なる強がりだとしたならば、相当な大馬鹿者だ。
半ば八つ当たりに近い勢いで、ハンドルに拳を叩きつける。
しかし直ぐにそれも重い溜息に取って代わられた。
いや……恐らく強がりなどでは無い。
御剣は思う。
成歩堂には危険な所がある。自分の事を二の次にしてしまうのだ。
彼は自分と言うものに対して執着を持たないのだろうか……
信号が変わると同時に御剣は車を急発進させた。
らしくなく荒い運転だが、そんなことを言っている場合ではない。
「無事でいてくれ……成歩堂」
病院への道を可能な限り急ぎながら、無意識に御剣は呟いていた。
繰り返し脳裏に現れるヴィジョンを振り払いながら……
処置室の前で、真宵は一人長椅子に座り込んでいた。
祈るように両手を組み、深く頭を垂れている。
「お願い、なるほどくん……死なないでよ」
脳裏に過るのは数年前の悪夢のような出来事……
あの時、全身から血の気が引くという思いを初めて知った。
鼻についた血の匂いも未だに忘れてなどいない。
暗がりで外傷こそ見えなかったが、その匂いと呼吸をしなくなった身体が、その姉の死を真宵に知らしめた。
(……! なるほどくん!)
握り締めた手に力が籠もる。
一見すると成歩堂に目立つ外傷は無かった。
そのため真宵は、心配はしていても、何処かでまだ大丈夫だと思い込んでしまっていた。
病院に到着して、看護師たちが治療のために衣服を剥ぎ取ったとき、
真宵は初めて事が極めて重大であることを知った。
「…………!」
思い出してしまい身体が竦んでしまう。
「おねえちゃん……助けて」
そう呟いたとき、足早にこちらに向かう靴音を聞いた。
ハッとして顔を上げると、廊下を、こちらに向かってくる人影……
「ミツルギ検事!」
姿を認めて立ち上がりかける。
御剣はそれを手だけで制すると肩で大きく息を吐いた。
「真宵君、大丈夫か? すまない、少し遅れた」
よく見ると、御剣の額にうっすらと汗が滲んでいる。
恐らく急いで後を追って来てくれたのだろう……
真宵は溢れそうになる涙を堪えて頭を振った。
「いいえ、大丈夫です」
「そうか……成歩堂は?」
「さっき、処置室に入りました」
「うム……」
御剣は気難しげに両腕を組むと、眉間に皺を寄せた。
「あの……座りますか?」
真宵は少し身体をずらし、御剣に座るように促す。
「ム……すまない」
御剣はハッとしたような様子で頷くと、空いた場所に腰を落ち着けた。
しばし沈黙が落ちる。
病院特有の静寂の中、二人の視線は自然に処置室の扉に向けられていた。
「処置室と言うことは、緊急性は低いのだろうか……」
質問、と言うよりは独り言に近い音量で御剣が問いかける。
「わかりません……」
同じような音量で真宵が返す。相変わらず両手はしっかりと組まれたままだ。
「ただ……」
ポツリポツリと、真宵は病院に到着した時の事を話し始めた。
病院に到着すると成歩堂はそのまま直ぐに救急の方へストレチャーごと運び込まれた。
待ち受けていたスタッフが、すぐに成歩堂の身体を治療の為の台に載せ替える。
スーツの上着が取り払われ、ネクタイとベルトも外された。
その間に激しい痛みに襲われたのだろう。
呻き声を上げて、成歩堂が意識を取り戻した。
「……ここ、は……?」
覗き込む真宵の姿を認め、成歩堂は掠れた声でそう訊いてきた。
「病院だよ、なるほどくん」
縋り付きそうになるのを押さえ、真宵は微笑んでみせる。
成歩堂はそれに弱く微笑み返し、天井へと視線を向け直した。
そして、苦々しげに小さく呟く。
「御剣の奴……」
えっ……ミツルギ検事……?
ミツルギ検事がどうかしたの……?
「はいはい……ちょっとすみませんね」
問いただそうと口を開きかけた真宵の横からやけにのんびりした声が割って入った。
振り返ると、真宵の背後にひょろりと背の高い白衣を着た男が立っていた。
真宵が場所を譲ると「すみませんねぇ」などと微笑みながら成歩堂の顔を覗き込む。
「気が付いたようですね……気分はどうですか? 痛い所は?」
「あ…………」
成歩堂が口籠る。
恐らく大丈夫だ、とでも言いたかったのだろうが……
呼吸をするのが辛いのか、無意識に小さく身じろいでいる。
真宵が見ていてさえその不調は明らかだった。
しかし成歩堂はここに来て尚、その痛みを表に出そうとしない。
「う~ん……」
数瞬男は成歩堂を表情の読めない瞳で見つめ、出し抜けに成歩堂の脇腹に手を触れた。
「……!!」
「……やっぱりね」
思わず歪んでしまった成歩堂の表情を読み取り、白衣の男は何事も無かったかのように手を離す。
「ちょっと確認しますよ」
その手をそのままシャツのボタンに掛けると、あっという間に前面を肌蹴てしまった。
痛みに動けない成歩堂に防ぐ術は無い。
「……ひっ!」
露わになった成歩堂の身体に、思わず真宵の喉からくぐもった悲鳴が上がった。
腹部を中心に身体中いたるところに赤黒い痣が散らばっている。
「……!」
成歩堂は肌蹴られたシャツを手繰り隠そうとしたが、もう一度、今度は腹部を圧迫されて堪らず悲鳴を上げた。
「おとなしくしてて下さいね」
冷たいとも取れる口調で言いながら、医者は近くにいたスタッフにいくつか指示を出した。
手は成歩堂の身体を押さえたまま……
「う……ぐっ」
痛みで身体を硬直させたままの成歩堂が必死に悲鳴を堪える。
しかしその額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「あと少しの辛抱ですからね」
直ぐにスタッフが近付いて来て点滴の準備を始めた。
その間に成歩堂のシャツは脱がされ、上半身が剥き出しにされる。
準備が整い、点滴の針が速やかにその左腕に差し込まれた。
スタッフは慣れた手つきで点滴のスピードを調整し、別の注射器に入っていた薬剤をその途中から注入する。
「直ぐにMRIを撮ります。肋骨や内出血も見なければなりませんから……」
一通りの処置が済んだことを確認し、医者が成歩堂に淡々と告げた。
その手はまだ成歩堂の身体を押さえている。
しかし、もうさほどの力は籠もっていない。
意識を保つのも難しくなってきたのか、次第に成歩堂の身体から抵抗が失われていく。
「それからすぐに治療に移りますから、念の為血液型を……っと、もう聞こえませんね……」
医者は小さく呟くと押さえていた手をどけた。
真宵が覗き込むと、完全に意識を失った成歩堂が横たわっていた。
「なるほどくん……?」
血の気を失った顔に不安を覚え、思わず真宵は声を掛けてしまう。
当然応えなど無かった。
「心配は要りませんよ。鎮痛剤が効いただけですから」
真宵の心情を察したのか、思いの外優しい口調で医者が言う。
「あの、なるほどくんは……?」
どこか縋るような眼で、見詰めてくる大きな瞳に、医者は小さく頷いて見せた。
「大丈夫、すぐに治療を始めます。君は……家族の人ですか?」
「いいえ……その……助手、です」
「助手? 仕事仲間……ですか?」
真宵が頷くと、医者は少しばかり驚いたような顔をした。
その眼が一瞬棚に置かれたスーツの襟に向けられる。
それだけで患者の職業が弁護士であることは明らかだった。
しかし目の前にいるこの女性は……
「見たところ……失礼、未成年のような……」
「はい……あ、でももう19です」
「ああ、これは失礼」
19歳ならば事務職と言うのもあり得る……医者は納得したように頷いた。
「準備出来ました」
「わかりました」
スタッフの呼びかけに応え、 更に2つ3つ指示を与えてから再び真宵の方に向き直ると、
「彼の保険証の用意を頼めますか?」
「あ、はい。わかりました」
真宵は大きく首を縦に振った。
「では、よろしくお願いしますね」
医者はそう言って微笑み、もう一度安心させるように頷くとそのまま部屋から出て行った。
「お願いします……先生」
真宵は祈るような気持ちで、深くその頭を下げた。