赤きナイトと青きポーン・4
「……全く、あの男は……」
真宵から一通り話を聞いて、御剣は微かに苛立たしげな声でそう呟いた。
呆れを通り越して憤りすら感じる。
何も病院に運び込まれてまで耐えようとする必要は無いと言うのに……
「なるほどくん……いつもなんです」
真宵は俯いたまま弱々しい声でそう返すと、大きなため息を一つ吐く。
「滅多に自分の事を話してくれなくて……」
男としての矜持なのか、或いは真宵に心配掛けまいとしてか……
あるいは……
「あたしって、頼りにならないのかな……」
「いや、それは違うだろう」
答えを要求していない呟きに、しかし御剣は意外にも即答する。
「頼りにする、しない、ではなく、危機感そのものが成歩堂には足りていないのだよ」
「……ミツルギ検事……」
真宵が少しだけ顔を上げる。その大きな瞳が涙に濡れていた。
その黒い目の輝きが意外にも成歩堂と似ていることに、御剣は唐突に気付いた。
しかし、それは言葉に出さず、ただ無表情に頷いて見せる。
「あれは昔からそう言った所があった。責任感と言うのか……一度引き受けた事や決めた事は決して投げ出さない所がある」
「あ、それ、分かる気がします。普段はだらしないくらいだし、無気力っぽい所もあるけど、いざ仕事になると絶対に諦めないんです」
それは千尋の教えもあっただろうが、成歩堂自身の性格そのものでもある。
その諦めの悪さに、真宵は幾度も救われたのだ。
それは御剣も同様だった。
成歩堂は、その責任感の強さゆえに公判中はいくらでも無理を重ねてしまう。
終わるまで決して自分を顧みない。
「でも、それだけじゃないんです」
真宵は再び視線を下げてしまう。
「普段でも自分の本当の気持ちとか、言ってくれないし……結構、本音言ってくれないんです」
そう……本当に肝心な所は……一つも……
「今日だって……確かに頼りないかもしれないけど……」
言葉が続かず、真宵は唇を噛んだ。
せめて、全てが終わってからでも……
一言だけでも……
「うム……」
言葉に出来ない真宵の思いを推し量りながら、御剣は腕を組み壁に背を凭せ掛けた。
何も言わない、イコール信頼していない、と言うのであれば、御剣も同様に信頼されていない事になる。
事実、成歩堂は御剣に対してさえ不調を誤魔化そうとしていた。
「…………」
ふと、御剣の眉根が曇る。
確かに成歩堂の仕事は簡単に交代のきくものではない。
それは御剣も同様だ。
ましてや今日は法廷の最終日……
誰にも時間の余裕など無かった。それは分かる……
しかし……
「今一つ、解せないな……」
「え……?」
御剣の呟きを耳にして、真宵は思わずその横顔に眼を向けた。
「げせない……って?」
真宵の問い掛けに御剣はちらりと視線を走らせると、
「うム……」
再び考えを纏めるかのように眼を閉じた。
「成歩堂は審理を途中で投げ出すことなどしない……それははっきりとしている」
「…………」
「だから、審理が終わるまで何も言わなかった……それは理解できる」
同じ立場だったら、恐らく御剣も同じ事をしていただろう……
「気を緩めてしまえば気を失うほどの傷だったはずだ。持ち堪えただけでも奇跡だな」
「ミツルギ検事はいつ、なるほどくんの怪我に……?」
「確信したのは審理の後半辺りからだ。違和感は朝から覚えていたが……」
「そんなに早くに……」
呟く真宵の眉根が曇る。
御剣は相変わらず眼を閉じたまま、真宵の表情に気付かない。
いや、気付いてはいるが敢えて見ないふりをしているのかもしれない。
長い指で腕をトントンと叩きながら、御剣は続ける。
「しかし問題はここからだ。成歩堂は審理が終了して控室に戻った直後に倒れたのだったな……」
「はい」
「立ち眩みを起こしたみたいに、と言っていたが?」
「そうですね……そんな感じでした」
その時の事を思い出しながら真宵は御剣の質問に答えた。
「突然よろけて……」
とっさに支えようと手を伸ばした真宵ごと床に倒れこんでしまったのだ。
「あ、そう言えばなるほどくん左脇腹を押さえてた」
「フム……その時にはもう立っているのも辛かっただろう……」
「だと思います。すぐに立ち上がろうとしてたみたいだけど、結局立てなくて……」
真宵の声にすぐに駆け付けた係員たちが、二人掛りで成歩堂を長椅子に運んだ。
「つまり自分ではもう立つことも出来なかったのだな」
真宵は無言で頷いた。
「それだけ状況が露呈しておきながら、何故、成歩堂は病院を拒んだのだろうか」
「わかりません……なるほどくん、大丈夫って言うばかりで……」
「いくら心配掛けまいとしていたとしても、それも限度がある……」
「自分じゃ大した事無いって思ってたのかな」
「いや、それは有り得まい。いくら成歩堂が自分に無頓着であったとしても、状況そのものは自分でも判っていたはずだ」
断言する御剣に真宵は首を傾げてみせる。
「じゃあ……どうして」
「まだはっきりとは言えないが……成歩堂は何らかの理由で暴行の事実そのものを隠すつもりだったのかも知れないな」
「どうして、そんな事……」
「まだ断定はできない。だが……」
御剣は腕を解き、その両拳を握りしめた。
「成歩堂がどう思おうと関係は無い……彼を襲撃した犯人は必ずこの手で捕まえてみせる……」
口の中だけでの小さな呟きだったが、その思いは真宵にもはっきりと伝わった。
「とにかく……」
切り替える様に一つ咳払いをすると、御剣は腕時計を確認した。
「あの様子では恐らく被害届も危ういものだな。何故あれほど頑なになっているのかは判らないが」
「怪我の痛みで混乱しちゃってたとか?」
「考えられない事ではないが、な。だが明らかに別の意図も感じる」
大丈夫だと言い張ったあの時の成歩堂の冷たい声音を思い起こす。
そして二人きりになった時の態度もまた、苛立ちこそ感じたが混乱しているようには見えなかった。
「その辺りは後で本人に聞く他は無かろうが……」
苦々し気に呟き黙り込んでしまった御剣を見つめながら、ふと、真宵は同じように成歩堂が呟いていたのを思い出す。
理由は聞きそびれたが、なんとなく予想が出来そうな気がした。
「あの、ミツルギ検事……」
「何だろうか」
「もしかして、なるほどくんを……止めてくれたんですか?」
疑問形ではあるが、その響きには確信が込められていた。
真っ直ぐ見つめてくる瞳に、御剣はフッと苦く笑う。
「いささか手荒ではあったがな」
言い訳はない。
そんなことをしなくても真宵にも解る。
止めなければどうなっていたか……
「ありがとうございました。ミツルギ検事が来てくれなかったら……」
しょんぼりと真宵が俯いた。
「私じゃ、なるほどくんを止められなかった……」
呟く唇が微かに震える。
御剣はそれに向かって頭を振った。
「君の体格では無理だ。曲がりなりにも成歩堂は男だからな」
大の男に二人掛りで抑え込まれて尚抵抗を諦めなかったほどだ。
真宵ではどうにもならなかっただろう……
「それに、君がいたおかげで、成歩堂にあれ以上の無茶をさせずに済んだのだ」
「えっ……?」
御剣の言葉が意外だったのだろう。真宵はきょとんとした顔をした。
本当に訳が分からない、と言った顔に、思わず御剣の口元に笑みが浮かぶ。
「君が傍に居たから、あの男はあれ以上に暴れることが出来なかった……もし君がいなければ、あれは係員さえも叱り飛ばしていただろう」
「あ……それはあるかも」
「だろう?」
普段は温厚だが、一度切れると逆に手が付けられなくなる。
暴力こそ振るわないが、静かな怒りはオーラとなって間違いなく相手を委縮させてしまうのだ。
そんな時の成歩堂はたった一言で相手を黙らせてしまう。
「ううっ……」
思わず背筋を震わせた真宵に、御剣も同調するように肩を竦めた。
過去に一度、隠す事の無い剥き出しの怒りを向けられたことを思い出す。
あの時は優先すべきことが多すぎたため、御剣は努めて平静を装った。
……そう、装ったのだ。
ズキリ、と胸が痛む。
あの時の眼差しと言葉は未だ御剣の心に深く刺さっていた。
しかし今は感傷に浸っている場合ではない。
御剣はそう思い直し、立ち上がった。
「ミツルギ検事?」
不安げに見上げる真宵に一つ頷いて見せる。
「糸鋸刑事に電話を掛けてくる。すぐ戻るから、君はここで成歩堂を待っていてくれたまえ」
「はい……あ、あの、ミツルギ検事!」
呼び止められ、歩き出そうとした足を止めて振り返る。
「何だろうか」
「あの…………ミツルギ検事はなるほどくんの事好きですか!?」
「…………は?」
唐突な質問に完全に面喰って御剣が間抜けな声をあげた。
「あ……」
その表情に言葉がまずかったことを悟り、真宵は慌てて両手を振り回す。
「あ、いえ、その、変な意味じゃなくって……なるほどくんの事、友達って思ってくれてるかな、って……意味……で……」
余りの真宵の慌て振りにかえって冷静になり、御剣は笑った。
「うム、少なくとも私はそう思っている」
その笑顔に真実を感じ取ったのだろう。
真宵はホッとしたような笑みを零す。
そして次の瞬間、殆ど見せる事の無い真剣な顔で言った。
「なるほどくんの事、お願いします」
「……心得た」
真っ直ぐに向けられた瞳に精一杯の決意を込めて頷き、御剣は己の為すべきことをすべくその場を離れた。