赤きナイトと青きポーン・9
着替えの次は洗面道具だ。
これもやはり一揃い有った。
小さなバスルーム兼洗面室には小さな籠と紙の袋が一つ置いてあった。
籠の中には何も入ってはいない。
「ふム……」
御剣は乱雑に脱ぎ捨てられたシャツなどから、成歩堂は既にシャワーすらできない状態だったと推測した。
「真宵君、ここには洗濯機などはあるのだろうか」
「え……? いえ、ここには有りません」
必要そうなものを詰め込んでいた手を止めて真宵は頭を振った。
「ではここで着替えたものなどは……?」
「そこにある袋に入ってると思います。いつも終わってから持って帰ってたから」
「うム……」
覗いてみると、なるほど、洗濯物が雑多に詰められていた。
その中の一番上に有ったものを手に取る。
それはすでに乾いてしまったタオルだった。
一度濡らして絞ったのだろう。あちこちに泥のような汚れが付着していた。
「…………」
しばし考え、御剣はそれも押収することに決め、ビニールの袋に詰め込んだ。
既に真宵には許可を求めていない。
真宵もまた非難もせずに忘れ物が無いかチェックを始めていた。
「……こんなものかなあ」
呟いた言葉に御剣が振り返る。
「済んだのだろうか?」
「はい、たぶん大丈夫だと思います」
もう一度ざっと確認して真宵はバッグを閉じた。
よし、と小さく呟いて御剣を見上げる。
「他に見たい所とか、有りますか?」
真宵の問い掛けに御剣は間髪入れずに頷いた。
「一応所長室も見ておきたいのだが……機密に関しては一切手を触れない」
真宵には蛇足かも知れないが、念のためにそう付け加える。
「ええ、大丈夫ですよ。どうせうちには機密なんてないし」
案の定、真宵はあっさりと承諾し、いっそ小気味良いほどにきっぱりと言い切った。
成歩堂が聞いたらさぞ怒る事だろう……
いや、怒るよりも法廷で見せるような滝の汗を流すかもしれない。
(いやいやいや! 真宵ちゃん、ここ一応法律事務所だから!)
頭の中で再生されたツッコミは御剣自身のものか……?
あまりにリアル過ぎて頭痛がしてきた。
「まあ、ここは曲がりなりにも法律事務所だからな……少し見るだけにしておくとしよう」
「はい! 多分散らかってるけど、どうぞ!」
真宵の先導で所長室に向かう。
そこは他の部屋に比べると散らかり方が激しかった。
恐らくは大半の時間をここで過ごしているのだろう。
机の上には書類やメモ、そしてコンビニの袋などが散乱していた。
袋の中に詰め込まれた残骸はその殆どがサンドイッチやおにぎりと言った軽食の類ばかりである。
見える範囲で確認すると書類や証拠品は今回の審理の二日目で不要になったものが大半だった。
しかし、襲撃事件に関しそうなものは見当たらない。
念の為証拠品などを確認してみたが血痕などの類は無かった。
電話にも留守電の類は入っていない様子だ。
時計を確認すると、もう10時近い。
そろそろ捜査員も到着する頃だ。
これ以上はさすがに成歩堂自身から情報を得ないと捜査も進まない。
「そろそろ時間だな……」
呟き、黙考する御剣の顔を、真宵はじっと見つめながら次の言葉を待つ。
(なるほどくんに少し似てる……)
両腕を組み、眉間に皺を寄せ、長い指でトントンと腕を叩くなど成歩堂はしない。
そんなところを目撃しようものなら、真宵は躊躇わずに爆笑するだろう。
銀糸の髪に整った面立ち……
正直、成歩堂と比べなくても美形かもしれない。
一方の成歩堂は、いつも真宵のボケに突っ込みつつ仕事の時は現場を走り回っている。
けっしてスマートではないし、バタバタしている印象が強い。
しかしそれでも、真宵は知っている。
ふと立ち止まり、何かを考えている時の成歩堂が、ひどく冷静な眼をしていることを……
そんな時の成歩堂は、真宵どころか他の誰にもついていけないスピードで、
他の者が容易に辿り着くことのできない結論を導き出す。
(彼は天才よ……)
千尋の言った言葉が耳に蘇る。
初めはそれをただ単にツッコミが鋭い事だと思っていた。
しかし、今はそれだけじゃなかった事が解る。
どんなに法廷で追い詰められても、冷や汗を流しながら弱音を吐いても……
必ずや最後には法廷をひっくり返すほどの発想をして見せるのだ。
それは千尋から受け継いだ発想の逆転……
どんなに頑張ったって真宵には出来ない。
そしてこの目の前の男は、その成歩堂と渡り合い、時に成歩堂を真実に導いてきた。
確かに初めは良い出会いとは言い難かったし、何より第一印象は最悪だったのだが……
(そっか……)
似ていると思った理由に行き当たり、真宵は改めて御剣を見る。
似ているのは容姿でもなければ仕草でも、頭脳でもない。
似ているのは、その真実を追い求める姿勢なのだ。
「……良し」
考えが纏まった御剣は小さく呟くと眼を開けた。
同時に真宵も物思いから覚める。
「真宵君、事件当日の成歩堂の足取りを出来る限り詳しく教えてくれたまえ」
「あ、はい」
「どちらにせよ、現場の特定にもう少し時間が掛かる……一時の時間も惜しいからな。
我々は成歩堂の当日の足取りを追ってみよう」
付いて来るかどうかの意思確認などもはや無い。
そしてまた真宵も躊躇う事無く頷いた。
押収した物品を捜査員に預け、更に追加で防犯カメラなどの確認を指示したのち、
二人は御剣の車に乗り込んだ。
そのまま成歩堂の当日の足取りを追うべく、先ずは先日まで公判が行われていた事件の現場へ向かう。
成歩堂が襲撃を受けた状況とタイミングから、事の発端はここにあると御剣は睨んでいた。
現場に到着すると、二人は真っ先に成歩堂が決定的な証拠を掴んだ場所へ向かった。
「ふム、ここで成歩堂はあの証拠品を見つけたわけだな」
ざっと見渡し、真宵に確認する。
「はい」
真宵が頷くのを目で確認して、御剣は法廷でのやり取りを思い出しつつ、歩き回ってみる。
「ここで誰かと一緒だったりしただろうか?」
「う~~~~ん」
真宵はしばらく考え込む仕草をして見せてから、ポン、と一つ手を打った。
「イトノコさんが覗きに来ました。
ケチなんですよ! 『早く帰るッス!』なんて言って、私たちを追い出そうとしたんです!」
思い出してまた腹が立ったのか、真宵は頬をプッと膨らませる。
そのせいでもともと幼い顏が更に幼くなってしまった。
「そう言ってくれるな。糸鋸も仕事ではあるからな」
吹き出したくなるのを堪えたために妙な顔つきになってしまいながら、御剣が一応フォローを入れる。
「それで、そのほかには? 誰もいなかったのだろうか」
「え、と……一人、女の人はいたけど……」
「けど……?」
「その人、なるほどくんと少し話をしてたんですけど……そういえば、その後だったかな……
なるほどくん、急に私を星影先生の所に連れて行ったんです」
「星影弁護士の所に?」
「はい。そのまま泊まるように言われて、別れました」
「ふム、では成歩堂は君をそこに匿ってもらおうとしていたのだな」
「…………今思うと、そうだったのかな」
「その時、証拠品は確か君が預かっていたのだったな」
「はい、そんなに大きなものでもなかったんだけど」
そこまで話して、ふと真宵は黙り込んだ。
その表情が沈んでいる。
その脳裏には、以前たった一人の姉を失った時の記憶が蘇っていた。
その記憶と今が重なる。
御剣はそんな真宵の胸の内こそ分からなかったが、
その様子にしばらくそっとしておくことに決め、少し考えを纏める事にした。
成歩堂が真宵を星影弁護士のもとに預けた理由……
それは真宵自身と証拠の安全を確保するためだったという事は容易に想像がつく。
つまり既にその時点で、彼は何かしらの危険を感じていたと言う事だ。
今回の真犯人のバックに権力者がいる事は恐らく知っていたはず……
問題は、いつ、成歩堂がその危険を察知したか、或いは疑いを持ったか……
「女性……か」
こんなところまで来て、成歩堂と話しまでしたのだ。事件と全く無関係とは思えない。
その女と話した後、成歩堂は「急に」予定に無かった行動をとっている。
「すまないが真宵君、その女性の名前は解るだろうか?」
問いかけられ、ハッと物思いから様たように顔を上げると、真宵は首を振った。
「え、いえ、なるほどくんか、イトノコさんなら知ってるかもしれないけど」
どうして? と言ったように小首を傾げる真宵に、御剣は簡潔に説明する。
「襲撃の目的は裁判の妨害と証拠品の奪取だった。
しかしそれには、成歩堂が証拠を掴んだことが解っていなければならない。
そしてその証拠品が何であるかも……
問題はいつ、犯人がそれを知ったかだ。
君の証言から見て、
成歩堂がその証拠を掴んだ時間からそんなに時を置かずに情報が漏れていたと思われる」
「まさか、その女の人が……?」
「まだ確証はないが……な。どちらにせよ、何らかのヒントはあるかもしれない……」
その時、御剣の携帯が着信を告げた。
ポケットから携帯を取り出し、確認する。
糸鋸からの電話だった。
「御剣だが」
「御剣検事ッスか!?」
出たとたんに耳元で響く大音量に、思わず御剣は携帯を耳から離した。
いつもながら声が無駄に大きい。
「もう少し、小さな声で話したまえ! 何かあったのか?」
一声一喝してから続きを促す。
「すまねッス……」
シュン、と声のトーンを落とし、糸鋸は続けた。
「ヤッパリくんの事件現場の特定ができたッス!」
「良し、ご苦労。で、現場は?」
「ヤッパリくんの事務所の真向いのビルッス! そのビルと**ビルの間ッスね」
「……成歩堂の事務所から見ると、向かって左側……か」
「そうなるッスね。捜査員が現場検証に入ってるッス」
「よろしい、そのまま捜査を続けてくれたまえ。
念の為、周辺の道路にタイヤなどの痕跡が無いかチェックしておくように」
「了解ッス!」
「それで、鑑識結果は……いや、それは直に訊くとしよう」
「鑑識はまだ完全には終わってないみたいッス」
「よろしい。
ところで糸鋸刑事、成歩堂が例の証拠品を手にしたとき、君はその直後に成歩堂たちと会っていたそうだな。その時真宵君以外に女性が一人いたそうだが?」
「……ああ! はい! 確かにいたッスね」
「身元は判るだろうか?」
「はい、たぶん判るッス」
「その女性がどうやら成歩堂と最後に話をしているようだ。少しばかり話を聞きたい」
「了解ッス! 所在を確認するッス」
「判り次第連絡するように。それから引き続き例の犯人の取り調べを……以上だ」
「はい! 了解ッス」
あまりの勢いの良い声に再び眉を顰め、御剣は携帯を耳から引き離し、同時に通話を切った。
「……ミツルギ検事?」
その様子を黙って見守っていた真宵が待っていたように口を開く。
「成歩堂の襲撃された現場が特定された。やはりすぐ近くだったようだ」
御剣は真宵に会話の内容を掻い摘んで説明した。
「どちらにせよ、一度成歩堂に話を聞かなければならないようだな」
御剣の言葉に真宵は黙って頷く。
………………
ぐぎゅるるるる……
「あっ…………」
緊張感を一気に崩すような音が真宵のお腹から響いた。
「お腹空いちゃった」
捜査の最中とは思えないほど、素直な言葉が漏れる。
釣られた様に思わず笑いを誘われながら、御剣は手にしていた携帯に眼を落とした。
時間を確認するともうすぐ昼に差し掛かる頃だった。
糸鋸からの連絡もそうそうは来ないだろう。
「そうだな。どこかで昼にでもしよう。その後にでも病院の方に行ってみるか」
「はい!」
「何か食べたいものはあるかね?」
「みそラーメン! ここから事務所までの途中に良い店見つけたんです!」
「そ、そうかね……」
勢い込んで話す真宵に気圧されそうになりながら、御剣は再び成歩堂の苦労をしのぶのだった……