赤きナイトと青きポーン・8
翌朝、御剣は成歩堂の事務所に足を運んだ。
成歩堂の話から、現場はすぐ近くと言う事は判ってはいるのだが、
改めて見てみると意外に夜襲をかけるのにうってつけの場所が幾つもある。
先ずは現場の特定をしなければならない……
その前に取り敢えず事務所の方に立ち寄ってみたのだ。
出来るならば直接事務所で確認したい事も幾つかあるが、如何せん、御剣は事務所のカギなど持ってはいない。
試しにドアノブを捻っては見たがやはり鍵は掛かっている。
郵便ポストに何か入ってはいないか……
確認するべきか迷っていると、
「あれ、ミツルギ検事!?」
元気な声が背後から掛かった。
「ム、真宵君か」
振り向けば真宵が大きなバッグを肩から提げて立っていた。
「おはようございます! どうしたんですか? こんなところで」
「うム、現場を特定するついでに事務所も少し見ておこうかと思ってな」
「でも、鍵掛かってますよね?」
「ああ、ちゃんと掛かっているようだ。空き巣が入った形跡はないな」
「空き巣が入っても盗る物無いけど……」
そう言いながらバッグを降ろし、何故か真宵は御剣の手元をじっと見つめる。
用事があってきたのだろうに、鍵を開けようとする気配は無い。
「……どうしたのだ? 君はここに用事があるのだろう?」
そのまま全く動こうとしない真宵に何をしているのか全く見当がつかず、御剣は訝しげに眉を顰めて尋ねた。
「……開けないんですか?」
しかし真宵から返ってきた頓珍漢な言葉に、御剣は虚を突かれてしまう。
「いや、私は鍵を持っていないのだが……」
「え~~~っ、だから、こう、ピンとかでこじ開けるとか……」
怪しげな手つきをして見せる真宵に、御剣は一気に頭痛が押し寄せてくる気がした。
「残念ながら真宵君……それは犯罪だ」
蟀谷を押さえながら正論を口にする。
真宵はその言葉に残念そうに俯いた。
「……なんだ、やんないんだ……」
(本気だったのか!?)
すっかりしょげかえってしまった真宵に、御剣は思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
しかし賢明にも口には出さずに、咳払いをする。
「もし良ければ、中に入れてもらえまいか?」
「はい! どうぞ!」
途端に表情を変えて真宵は大きく頷き、事務所の鍵を開けた。
ドアを開けて御剣を先に通す。
「ム、失礼する」
事務所の中はやはり荒らされた様子は無かった。
応接室は何事も無かったかのように静まり返っている。
「お茶、入れましょうか?」
バッグを抱えて後から入ってきた真宵が、電気を付けながら御剣に声を掛けた。
「うム……いや結構だ。気は使わないでくれたまえ」
部屋の中で立ち止まったまま、真宵の方を振り向く。
「それより君も何か用事があるのだろう?」
昨日の時点で決めていた待ち合わせ時間にはまだ相当早い。
場所も確か事情聴取の為、局のエントランスに決めていたはずだ。
「あ、はい。なるほどくんの着替え持って行かなきゃって思って」
言いながら抱えたままのバッグを軽く持ち上げる。
それで御剣は合点がいった。
しかし同時に疑問も浮かぶ。
「着替えならば、成歩堂のアパートにあるのではないのか?」
至極当然の問いに、真宵は小首を傾げてう~ん、と唸った。
「私、なるほどくんのアパートの鍵持ってないんですよね。
それになるほどくん、泊まり込むこと多いからここに着替えがあるんです」
「ここに……?」
御剣の思考の琴線に何かが引っ掛かる。
その瞳が鋭く光った。
しかし真宵はそれを感知することなく大きく頷いた。
「公判の時には家に帰らない事多いから」
「それは今回もだろうか?」
「う~~ん」
御剣の質問に再び真宵はしばし考えるそぶりを見せ、
「多分、家に帰る時間無かったと思いますよ。
あの日別れた時にも事務所に戻るって言ってたし、ここの方が裁判所にも近いから」
「実際、ここに戻ってくる直前に襲われているしな」
「そうですよね」
真宵の顔が曇る。
やはり、成歩堂の事が心配なのだろう。
しかし今は心配ばかりしている場合ではない。
「真宵君、私も手伝っても良いだろうか」
「え……?」
少しばかり意外な申し出だったのか、真宵の眼が大きく見開かれる。
一方、御剣は表情も少なく先を続ける。
「今回、成歩堂は事件の被害者だ。現場はここではないが、念のためにここも現状維持をしておきたい……判るだろうか?」
真宵も伊達に成歩堂と行動を共にしていない。
その理屈はすぐに理解した。
理解はしても、セオリー通りに行動しないことも多々あるが……
それは御剣の与り知らぬ所だ。
「わかりました! 捜査するんですよね? 良いですよ!」
理屈抜きの一足飛びで話が伝わってしまった。
そのことに一瞬御剣は眩暈を覚えそうになったが、時間が惜しい今は敢えてそれを堪え真宵に乗じる事にする。
「話が早くて助かる。では行こうか」
「はい、こっちです」
通された仮眠室は意外にもそこまで散らかってはいなかった。
ただし、クローゼットは開けっ放し、ベッドの上には着替えた服が若干散らばってはいる。
設置されたベッドを見ると、確かに横になった痕跡はあるが……
「ふム……」
ざっと見渡して分かった事は、確かにほとんどの着替えがここにある事だった。
真宵はそんな御剣を余所に開けっ放しになっていた小さなクローゼットの下の段を覗き込む。
「う~~ん、ちょっと少ないかなあ……」
「何がだろうか?」
「なるほどくん、いつも下着とかはここに入れてるんですけど、今、二枚ずつくらいしか入ってなくて……」
「さしあたりはそれで良いのではないか?」
「う~~~~ん…………ま、いっか!」
大きく頷き、真宵は適当に下着とタオルなどをバッグに詰める。
動き出した真宵にちらりと目をやり、御剣はクローゼットの上の部分に視線を移した。
数枚のシャツがハンガーに掛かっている。
どうやらここにスーツなどの着替えも置いてあったようだ。
普段着になりそうなものは殆ど無い。
つまりここでは本当に仮眠をとるだけのようである。
真宵の作業が自分の捜査に支障が無いと判断して、ベッドの方に目を移す。
そこに脱ぎ捨てられたスラックスとシャツがあった。
「……………」
昨日の成歩堂の出で立ちを思い起こし、ふと何かに気付き、御剣は吸い寄せられるように傍に近付いた。
捜査用の手袋を嵌め、スラックスを取り上げる。
「…………やはり、そうか」
スラックスの側面がひどく汚れている。
特に膝のあたりの擦り切れがひどく、これではもう使い物にならない。
そして、シャツの方は更にひどい事になっていた。
まともに蹴られた跡がはっきりと残っている。
「…………真宵君、一つ訊きたいのだが……」
「はい、何でしょう」
「事件当夜、成歩堂と別れた時、彼は上着を着ていたのだろうか?」
検事が尋問する時そのままの口調に、真宵は作業の手を止め振り向いた。
御剣はひどく冷静な眼で手の中のシャツを見つめている。
その姿に何故か成歩堂の姿が重なって見えて、真宵ははっきりと思いだした。
「そう言えばあの日はすごく動いたから、なるほどくん、途中から上着は手に持っていました」
「シャツの腕は捲っていたかね?」
「はい。走り回る時はいつもそうです。あの日も……何でわかったんですか?」
真宵の質問に御剣は手にしたシャツの腕を指し示す。
それは擦られ、完全に穴が開いていた。
そして靴で直接蹴られたのだろう。
無数の汚れがそこかしこに散らばっている。
「おかしいとは思っていたのだ。あれほどの暴行を受けておきながら成歩堂のスラックスやシャツはキレイなままだった。
それは恐らく朝から着替えたためだ。それは解ったのだが上着の方は今一つ説明が付きにくかった」
「え? どうして……?」
訳が分からず、真宵はびっくりしたような眼で聞き返す。
その表情に何処となく成歩堂の表情が重なって、御剣は思わず頬を緩めた。
しかしそれを直ぐに引き締め、先を続ける。
「激しい暴行を受けたにしては、上着の被害がそれほどでもなかったのだよ。
そうでなければ成歩堂とて汚れを取り払った程度で身に着けるはずはないからな」
「…………あ、そうか。確かもう一つの方は今クリーニングに……」
ついこの前の公判の相手にコーヒーを「奢られて」、そのためにクリーニングに出してしまっていたのだ。
スラックスは洗い替えに余分に似た色の物を持っていた。
「つまりは……」
御剣の頭の中に情報が蓄積される。
「成歩堂は襲撃された時、上着は手に持っていたと推測される。
肩の所や裾に有った汚れは投げ出されたときに着いたものだろう。だからあれくらいで済んだのだ。
しかし、直接被害を受けたシャツとスラックスはどうしても替える必要があった」
成歩堂はそれで言い訳が立つと思っていたのだろうが、それが却って御剣に違和感を持たせる結果になってしまったのだ。
「怪我と、時間が無かったのが幸いしたな」
御剣の口元に笑みが浮かぶ。
「真宵君、この衣服を提供して貰っても構わないだろうか?」
「もちろん、良いですよ」
本来ならば本人への確認と同意が必要だが、この際、真宵に代理人になって貰う。
しかし真宵からは、更に御剣が期待していなかった言葉がもたらされた。
「もし、四の五の言ったってちゃんと言って聞かせますから!」
「それは心強いな」
「当たり前ですッ!」
力説する真宵の拳にさらに力が籠もる。
「だって、何も話してくれなかったなるほどくんが悪いんだから!」
言い切る真宵にはたと気付く。
そう……真宵は怒っていたのだ。
あまりに普段通りで見落としていたが、今回の事件を成歩堂が隠そうとして傷ついたのは真宵も同じだった。
そしてそれ以上に許せないのは……
「真宵君、一つ提案があるのだが……」
「何ですか?」
拳を落とし真ん丸な瞳で見上げてくる真宵に、御剣は法廷で見せるような冷たい笑みを浮かべて見せる。
「この事件の捜査の協力を依頼したい。
勿論、一般人が捜査そのものをする訳には行かないから、参考人として……どうだろうか?」
「……良いんですか!?」
真宵が小さな身体を詰め寄るように目一杯に伸ばして覗き込んでくる。
御剣は重々しく頷きながら、
「はっきりとはしていないが、状況から見て危害が君にも及ばないとは言い切れない。
刑事を一人つけても良いが、私と居た方が君自身にとっても安全だろうからな」
「私、ボディーガードは要りませんよ! 慣れてますから!」
「いや……それもどうかとは思うが……」
恐ろしいセリフに御剣は一瞬固まる。
実際、事件に巻き込まれるのは真宵の方が圧倒的に多い。
にしてもこうもあっけらかんと言い切られると……
(成歩堂の苦労が偲ばれるな……)
それでも明るい真宵の強さに、同時に救われるものも感じる。
それはきっと成歩堂も同じ……
いや、それ以上だろう……
「絶対に犯人をとっちめてやりましょうね! ミツルギ検事!」
「ああ……よろしく頼む」
「そうと決まれば!」
元気良く真宵はバッグを肩に担ぐと、
「善は急げ! 行きましょ、ミツルギ検事!」
そう言って仮眠室を出て行った。
(確かに言葉は間違ってはいないが……)
何かが違う……
小さな背中を追いながら、御剣は(早まったか……?)と少しばかり後悔した。