赤きナイトと青きポーン・7

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照明を落とされた天井をぼんやりと見上げながら、成歩堂は深い溜息を吐いていた。
医者による診察が終わった時に処方された痛み止めのおかげで、じっとしている分には痛みは少ない。
しかし、少しでも動くと途端に痛みに襲われる。
激痛でこそないが、動くことは困難だった。

「くそっ」

小さく呻き、唇を噛む。

御剣にばれてしまったのはまずかった。

検事と言う職業柄、暴行を受けたことが知れたら例えそれが成歩堂でなかったとしてもあの男は動くに違いない。
承知していたからこそ御剣には特に勘付かれないようにしていたのに……

「まさかあんなに早く気付くなんて……」

正直、御剣が乱れを直そうと成歩堂のスーツに手を掛けた時にはヒヤリとした。
シャツとスラックスは替えがあったため問題なかったが、上着の方はそうはいかず可能な限り汚れを落とすに留まってしまっていた。
擦った跡があるのには気付いていたが、何分時間が無くどうしようもなかった。

恐れていた通り、御剣に指摘を受けてしまい、その場は何とか誤魔化したが……

その時には既に疑いを持たれてしまっていたのかも知れない。

取り敢えず、と思い飲んでおいた鎮痛剤も、どのくらい効いていたのか……

審理中は気が張っていて、思ったより痛みは感じなかった。

……と言うか、忘れていた。

しかし、審理が進むにつれ、呼吸が困難になっていくのはどうしようもなかった。
肋骨にヒビが入っていたのだ。当然とも言える。

「…………ばれない方が可笑しいか……」

考えてみれば、立場が逆であった場合、成歩堂だって気付いてしまっただろう。

しかしその時はとにかく必死だった。何が何でも審理を終わらせたかったのだ。
そして、どうしても確かめたいことが有った。

病院に行くとしてもその後にするつもりだった。
尤も、審理が終わって気が抜けた瞬間襲ってきた激痛に、それが叶わないことも分かってはいたが……

結局は不調を見破って駆け付けた御剣によって阻止されてしまい、無理矢理ここに担ぎ込まれてしまった。

「御剣の奴……思いっきり殴りやがって」

殴られた場所に手をやって、成歩堂は思いきり顔を顰めた。

余程うまく殴ったのか、湿布を貼られているだけで今は完全に痛みは引いている。

返り討ちに合っても、文句の一つも言いたかった。
どのような言葉が返ってくるか、完全に予測できていたとしても。

首を狙ったのも、恐らくそこが最も被害が少ないと看破したためだ。

「メイでは無かった事を感謝するのだな……」

冷笑しながらのたまう御剣の顔が想像できてしまい、溜息が出てしまう。

もしもこれが狩魔冥相手だったら……

恐い事を想像してしまい、成歩堂は身震いした。

(考えるのはやめておこう……)

そう言う意味では感謝はしたくないが、御剣の観察眼に敬意を表しても良い。

事実、それは当たっていたのだから……

(殺すなよ)

自分を殴り、蹴っている連中とは別の声……そいつが指示を出していた。
顔は殴るな……と。
その指示の仕方から相手がその筋の者であることは容易に想像がついた。

目的は脅迫……今回の公判で最も重要になる証拠品の奪取……
そして恐らくは成歩堂自身に恐怖を植え付け、審理を放棄させるか失敗させる目論見もあっただろう。

しかしそれは却って成歩堂の怒りに火をつけてしまう結果にしかならなかったが……

(このエセ弁護士!)
(あんたが持ってるモノ、渡しなさいよ!)

耳に蘇るまだ若い女の声……
わざと荒い口調を使ってはいたが、その響きには必死なものを感じた。
直接手出しする事は無かったが、彼女も主犯の一人とみて間違いは無い。

「………………」

脅迫者たちを庇うつもりは毛頭無い。
御剣ほどでは無いかもしれないが、成歩堂とて犯罪者を野放しにするほどお人好しでは無いのだ。
犯した罪は裁かれなければならない……

ただ、それでも……

「…………フゥ」

成歩堂は深々と溜息を吐き、ベッドに沈んだ。

ただ、それでも、もしまだ間に合うものならば……

「多分、あの女の人は……」

成歩堂は小さくそう呟くと、暗闇の中でそっと目を閉じた。

 
 
「フゥ…………」

執務室の自分のデスクに着いて、御剣は目頭を軽く抑えた。

病院から真宵を駅まで送り、その足ですぐに必要な段取りをつけるために局に戻ってきた。
やり残していた仕事と、今回の事件の真犯人の送検を可能な限り早く済ませ、
「成歩堂弁護士襲撃事件」の捜査を開始するために動き回った。

それがようやくひと段落ついて、御剣はやっと少しだけ肩の力を抜くことが出来たのだ。

執務室に設置されている時計に目をやれば、もう夜の9時を過ぎている。

成歩堂はもう眠りについているだろうか……

昨夜とは違う気分で、御剣は思い巡らせる。
互いの仕事柄、危険と隣り合わせなのはもとより承知の上ではあった。
事実、成歩堂が幾度となくかなり危険な橋を渡っていた事も知っている。

初めて弁護士となった成歩堂と対峙した公判でもそうだった。

「…………クッ!」

思い返し、御剣はギリリと奥歯を噛みしめる。

今思えば未熟であった自分が悔やまれてならない。
20歳で検事になり、良い意味でも悪い意味でも注目を浴び続け、天才と持て囃された。
その頃の自分にはやはり驕りがあったのだと今ならばそう思える。

そして同時に組織人でもあったのだ。
やたら滅多に盲従する事こそなかったが……

あの時、真実に気が付いていたのに……
成歩堂が嵌められたことに気付いていたのに……
御剣は真犯人を庇い、成歩堂を有罪にしようとした。

自分の中で響き続ける抗議の声に耳を塞いで……

しかし成歩堂は綾里の力を借りながら、見事御剣たちの思惑を打ち破り、真犯人を討ち取った。
そう、討ち取ったと言って良い。

だが、もし成歩堂にあれだけ強いアドバイザーがいなかったならば……?
もし、成歩堂にあれだけの情熱と才能が無かったならば……?

「…………!」

御剣は、不意に悪寒に襲われ、身震いした。今更ながらあの時彼がどれほど危険であったか思い知る。

愚かにも自分はその片棒を担いでしまったのだ。

御剣は机の上に乗せていた手をぎゅっと握りしめた。

もう、あのような事は二度としない……

いや、起こさせない……

「だが、確かあの時も……」

後で糸鋸刑事から聞かされた……成歩堂が暴行を受けたことを……

油断していたからだ、と切って捨てる一方で、暴行した真犯人に怒りも覚えた。
しかし相手はすでに塀の中……被害届も無く、担当も変わり自分の出る幕でもなかった。

(……本当にそうだったのか?)

そう考えて御剣はフッと苦く笑った。
過去の事を今更どうこう言った所で何も変わりはしない。
だが、今胸の中に渦巻く後悔は本物だ。
救う力があったにも拘らず、何もしなかった。
いや、しようともしなかった……

成歩堂とは正反対に……

どれだけ不利な相手であろうとも、どれだけ崖っぷちに立たされようとも、
悪夢の様に喰らい付いて最後には総ての虚飾を剥ぎ取り……
御剣の悪夢を切り払った。

知るのにはあまりに辛い真実もあったが、それが無ければ今頃ここに御剣怜侍と言う男は存在していない。

思考を巡らせながら泳いでいた視線がふとチェスボードの上で止まった。
赤いナイトが青いポーンを取り囲んでいる……

打倒成歩堂を目指し有り得ない配列をした。
初めは勝ち負けの為に……
そしていつの間にかその意味は変わっていた。
今は、彼より先に真相に辿り着こうと言う意思の表れだ。

「…………」

ふと違和感を覚え、御剣は眉を寄せた。
しかし何が引っ掛かっているのかが判らない。

ただ、この配列は、ある意味ナイトがポーンを見つめているようにも思えた。
それは今の御剣の思いを反映しているのかも知れない。

「……今度こそ」

立ち上がり、ボードの上のポーンを手に取ると御剣は呟いた。

「今度こそ、犯罪者を絶対に野放しになどしない」

幼馴染であり、弁護士としても、人間としても敬意を表するに値する男……
そんな成歩堂を卑怯な手で脅迫した者を許しては置けない。

「必ず、私の手で捕まえてみせる」

その為には、成歩堂自身から聞かなければならない事がまだまだある。
成歩堂の様子から、簡単には口を割ってくれそうにないが……

「少し、材料を集める必要があるな……」

そうでなければ成歩堂は決して本当の所など打ち明けはしないだろう。

どちらにせよ面会は午後からしかできない。
真宵とも事情聴取の後で共に面会に行くということで昼から会う約束をしている。

それまでに可能な限り捜査を進めよう……

心に決めて御剣は不敵に微笑むと、ポーンを戻すことなくスーツのポケットに仕舞い込んだ。

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