赤きナイトと青きポーン・6
一度成歩堂の病室を訪れ、まだ眼を覚ましていないことを確認してから、御剣はいくつかの場所に連絡を入れた。
成歩堂からの確認が取れ次第、すぐに動ける様に段取りを怠らない。
全てを終えて戻ってきたとき、丁度成歩堂が意識を回復した。
しかし、まだ薬が効いているらしい。
うっすらと開かれた瞳に力は無く、状況を把握できている様子ではなかった。
「大丈夫? なるほどくん」
不安げな真宵の問い掛けにゆっくりと眼を向け、成歩堂はうっすらと微笑した。
「真宵ちゃん……うん、大丈夫だよ……ここは、病室?」
「そうだよ、治療が終わって、移ったとこ」
頷く真宵に自身も頷き返し、成歩堂は身を起こそうとする。
「! ダメだよ! まだ横に……」
「大丈夫、痛みはもうないから」
「……痛みが無いのはまだ薬が効いてるからだ」
「……! 御剣!?」
突然掛かった声に、たった今その存在に気付いたように成歩堂が驚きの声を上げる。
事実、全く御剣の事が見えていなかったのだ。
「……それだけ注意力が散漫だといっそ見事だな、成歩堂?
今の君がまともな集中力も持ち合わせていないという立派な証拠だ」
御剣は皮肉を込めて言いながら真宵とは反対の方に回り、軽々と片腕で成歩堂の身体を抑え込む。
「! 何するんだ、離せよ!」
何処にそのような力があるのか、成歩堂がどんなにもがこうともびくともしない。
「大人しくしていたまえ。絶対安静だそうだ」
冷たい声音で告げて、真宵の方に眼だけを向ける。
「入院承諾書は?」
「あ、はい、ここに」
言われて真宵はテーブルの上にあった書類を手に取った。
御剣はそれを確認してから頷くと、成歩堂に眼を向け直す。
睨みつけるような冷たい瞳に気圧されそうになりながらも、成歩堂は負けじと睨み返した。
しかし、次の瞬間、成歩堂は息を飲んでしまった。
「成歩堂……頼むから、もう少し自分を労わってくれ」
悲しげに響く言葉……
そして瞳に過った不安の色……
「……御剣?」
抵抗することを忘れ、成歩堂の動きが止まる。
御剣は胸の上で抑えていた手を退けて、一枚の紙を指し示した。
「これが解るか?」
「これは……診断書?」
「そう、君の診断書だ。先ほど担当の医師から出してもらった」
言いながら、成歩堂に書類を手渡す。
「君も殺人事件担当の弁護士ならば予測がつくだろう」
「………………」
「暴行の痕は、専門家が見れば一目瞭然だ。幸い内出血は内臓器官にまでは至ってはいなかったそうだが……
かなり危険な状態だったそうだ」
感情が消えた声で話し続ける御剣の言葉を、成歩堂はただ、唇を噛み締めて黙って聞いていた。
その表情から、成歩堂自身が全く状況を予測していなかった訳では無かった事を御剣は見て取った。
しかし敢えて問うことはせず、淡々と続ける。
「……もし場所が悪ければ最悪、死に至っていただろう……」
告げられた言葉に、成歩堂の眉がピクリと動いた。
更にキュッと唇が噛み締められる。
書類を握っていた腕が、ぱたりと胸の上に落ちた。
そのまま、疲れたように眼を閉じ、深々と嘆息する。
御剣はその手からそっと書類を取り上げた。
「……どうして」
長い沈黙の後、成歩堂は半ば諦めに近い声色で呟いた。
「どうして、判ったんだ……気付かれない様にしてたはずなのに」
「確かに、君の演技は大したものだった」
微動だにせず、御剣が答える。
「だがしかし、隠し通すにはその傷はいささか大きすぎたのだよ」
「いつ、気付いた?」
「はっきりと君の変調を確信したのは審理の後半、最後のあたりだ」
「確信……したのが?」
「違和感は朝から覚えていた」
「……なぜ、暴行だって?」
咎めるでもなく、純粋に確認するかのような響きに、御剣もまた素直に答える。
「予測が確信に変わったのは君の身体に触れてからだ。君は自分でも気付かないうちに左手で患部を押さえていたのだよ。
それに……」
「それ、に……?」
「君のスーツの皺、および、背中の部分の汚れ……拭き取ったようだが、肩の擦過の痕跡は消せなかったようだな。その跡は地面に激しく擦り付けられたものだ。案の定、君は私が腹部に直に触れただけで激しく反応した。
これだけの状況が揃えば後は簡単に結論に辿り着く……私は君よりも遥かに多くの事件に携わってきたのだからな」
嫌味の響きも無い、淡々とした御剣の言葉に、成歩堂はもう一度深く溜息を吐いた。
「……流石は、検事局きっての天才検事……だな」
まさかこんなに早くばれるなんて思っていなかったよ……
口の中で小さく呟くと、成歩堂は諦めたように眼を閉じた。
しかしその声は御剣の耳にはっきりと届いていた。
「理由を聞かせてもらおう……何故、隠そうとした?」
「…………」
成歩堂は眼を閉じたまま、黙して語らない。
その様子と、何より成歩堂の顔に苦痛の兆候が見えてきて、御剣はあまり話を長引かせる訳には行かないと判断を下した。
「君がその件について黙秘するならば、質問を変えよう……
いつ、だれに、どこで、襲撃された? 目的は……脅迫、か?」
「…………昨夜……と言うべきなのかな」
しばらく何かを考えるように沈黙を続けた後、観念した成歩堂は漸く口を開いた。
その顔には疲れが色濃く浮かんでいる。
「時間は判るか?」
「午前2時、10分は過ぎてたよ」
「詳しいな」
「直前に携帯で時間見てたからね」
「なるほど……で、何処で襲われた?」
「……事務所の近く、道向かい側の建物の路地裏で……」
「詳しい場所は?」
「向かいのビルの……バンドー側とは反対の方……かな」
「防犯カメラの死角か……では、最後だ。相手の人数と目的は?」
「人数は多分、4人、かな」
疲れが出てきたのだろうか……
成歩堂の語尾が途切れ、曖昧になった。
「証拠品を渡せって言ってきた。断ったらこの様だよ……ま、いつもの事だけどね」
敢えて軽口を叩くように言いながら小さく笑う。
御剣はメモを取りながら重い溜息を吐いた。
「そんなもの自慢にもならないぞ。よし、では後は……真宵君、承諾書を」
言いながら真宵に視線を向ける。
真宵は短く返事をすると、書類が挟まれたボードを成歩堂に手渡した。
御剣は自分のペンを差し出し、有無を言わさぬ様子でそれを握らせる。
「ここに署名したまえ」
手の中に半ば押し込むようにして渡されたボードとペン、そして書類の一番上の文字を目にして、成歩堂の眉が顰められた。
「どうしても……入院、しなきゃダメ、なのか?」
「……本当に往生際の悪い男だな、君は」
呆れたように溜息を吐くと、御剣は再び診断書をその眼前に突き付けた。
「この状態で言える台詞か? 担当医師からも動けば命の保証は無いと言われた。
とにかくこれにサインして、今日はもう休みたまえ。一切の異議は認めない」
高圧的に言い切る御剣の瞳には、しかし、心底から友人を案じる色が浮かんでいた。
「み、御剣……」
それに気付いた成歩堂は続ける言葉を失う。
しかしそれでもなかなか手が動こうとしない。
「はいはい、もう諦めちゃいなよ! なるほどくん!」
ついに見かねて、真宵がその手のペンを握らせ直した。
「真宵……ちゃん?」
戸惑う成歩堂に向かって、敢えてニッと笑って見せる。
その瞳に剣呑な光が宿る。
「あんまり強情だと、お姉ちゃんに言いつけるからね!!」
「うぐっ!!」
かなり痛い所を突かれて、成歩堂は瞬時に固まってしまった。
そこに御剣がすかさず止めを刺しに来る。
「……なるほど、それは良い手かもしれんな……丁度ここに診断書もあるし、これを見てもらうとしようか」
「み、みつるぎ!」
呟く御剣に成歩堂は己の怪我を忘れて抗議の声を上げると同時に体を起こそうとしてしまい、襲ってきた激痛に溜まらず悲鳴を上げた。
そんな成歩堂を冷静に見つめながら、御剣は冷たいとも見える微笑を浮かべる。
「それ見ろ、まともに動けまい? もう黙りたまえ……」
「そうだよ、諦め悪いと嫌われちゃうよ」
「そう言う事だ。食い下がるのは法廷だけにしておくのだな」
ここぞと言わんばかりに二人が畳み掛けてくる。
その二人と痛みの一斉攻撃に、成歩堂はついに白旗を上げざるを得なくなった。
「まったく……分が悪いよな。二人掛りなんてずるいよ」
疲れを滲ませながら、それでも最後の抵抗を試みる。
しかしそれは御剣によって軽く鼻で笑い飛ばされた。
「今回に限って言えば、君の味方は居ない。諦め給え」
「そうそう! はい、書いて書いて!」
「…………分かったよ」
とうとう観念して、震える手でサインを入れる。
そしてそれを手渡すと力尽きたようにベッドに沈んだ。
本当はかなり無理をしていたのだろう。
御剣と真宵は眉を顰めてその様を見つめていた。
これ以上無理はさせられない……
暇を告げようとした丁度その時、ドアをノックする音が響いた。
応えをするとドアが開き、医者が顔を覗かせた。
「話は終わりましたか」
言いながらベッドに近付き、三人の顔を見渡す。
「ええ、たった今」
視線が合い、御剣は一つ頷くと、真宵の手の中のボードに眼を向けた。
それに気付き、医者は承諾書を真宵から受け取る。
「どうやらサインはして貰えたようですね」
署名の欄を確認して呟き、成歩堂に眼を向ける。
「では私たちは今日のところはもうお暇するとしようか」
医者の気配に診察が始まることを見てとり、御剣は真宵を促すように声を掛けた。
「あ、はい。……じゃ、なるほどくん、明日また来るね! 大人しくしてなきゃダメだよ!」
「今日はもう休みたまえ。無理をさせてすまなかったな」
本当はまだ聞きたい事はたくさん残っているが、それは全て明日以降の事だ。
それ以上は敢えて告げることをせず、御剣は医者に向き直る。
「少し無理をさせてしまったかもしれません」
「……本当は無理は禁物なんですけどね。でも、まあ、今日は仕方ないでしょう」
状況が何となく察しがついたのだろう。医者は諦めたように溜息を吐いて見せた。
その芝居がかった仕草に、御剣が苦笑を漏らす。
「ええ、もう少し素直ならば、こちらも助かるんですが……」
「なるほど、一筋縄ではいかない、と……肝に銘じておきましょう」
御剣の言外のメッセージを正確に読み取って、医者は惚けた表情で蟀谷を掻いた。
「じゃあ、後は診察しますので……」
「はい、では我々は帰ります。後はよろしくお願いします」
「わかりました。では、明日は午後にでもいらしてください」
医者の言葉に二人は頷くと、
「ではな、成歩堂」
「明日ね!」
「……うん」
成歩堂と医者を残し、病室を出て行った。