「フハッ……フハハ、フハハハーーッ!」
「……ッ!?」
スピードワゴンの語りを打ち破り、大きな笑い声が山腹の冷たい大気を震わせる。それまで黙していたブラフォードが突如、天を仰ぎ見るようにして笑い出したのだ。その唐突な様子の変化に戸惑い、スピードワゴンはその口をつぐむ。改めて、ブラフォードの様子を詳細に観察する。
少しして、ブラフォードの笑いが止まった。顔を上げたまま眼球だけを動かして、ギロリとスピードワゴンを睨みつける。その眼光の迫力に、思わずスピードワゴンは一歩後ずさった。
最初は静かに、そして徐々に音量を増しながらブラフォードが言う。
「なんのつもりだ……? おれの過去を話して何とする? そんな話がおれをちょいとでも、センチメンタルな気分にさせると思・っ・た・の・か・ア・ァァ!?」
何も変わりないブラフォードの口調。むしろ、これまでよりも自信に満ちた、淀みのない口調であるとスピードワゴンは思った。そう、もう戸惑いのない、人の心を不安と恐怖に凍らせる口調に。
ブラフォードは左手を持ち上げると、吹き飛ばされた側頭部にその指を突っ込んだ。そしてバリバリと音を立てて掻きむしる。肉やそれ以外の物が、バラバラと飛び散った。
「脳みそを少しばかり吹き飛ばされてエェーー! 多少混乱していただけのことだアァーーー! もう何も問題はないなアァーーッ!」
右手に持った剣を前へ……折れた剣先を、スピードワゴンに向ける。
「そう、お前を殺るのに、もう何も問題はないなアァァーーッ!!」
「……くっ!」
ブラフォードの言葉に弾かれたように、スピードワゴンの右手が上がった。ブラフォードの毛髪によって握らされた銃が、スピードワゴンの被る帽子に近付く。そこには帽子のツバに仕込まれた刃があった。
「易々とそれをさせると思うかァッ!?」
ブラフォードの左腕が背中から回る。左に屈み込みながら手を地面に伸ばし、その場に落ちていた岩を掴むと、回転の勢いを乗せてアンダースローで投げ放った。
ドギュンッ
手と銃を覆う頭髪を切り裂く暇を与えず、飛礫(つぶて)はあっという間にスピードワゴンの頭部へ到達する。
「おうっ……」
スピードワゴンは背中を大きく反らして、頭を砕かんとした飛礫を避ける。更にそのまま身体を捻り、地面にしっかりと立った二本の足を軸に回転運動を作り、それを身体に巡らせる。そして首を通して、再び頭部に戻す。そのエネルギーの行き着く先は頭頂の帽子!
「……りゃあッ!」
ドンッ
スピードワゴンの頭で急に回転を始めた帽子は、スピードワゴンが頭を振ると、カタパルトから打ち出されたかのような勢いで前方へ飛び出していく。そこには、既にスピードワゴンに向かって走り出していたブラフォードが迫っていた。
ギャルルルルルルルッ
「何度も同じ手をオォッ!」
ブラフォードが飛来した帽子を右に避ける。ブラフォードの後ろへ行った帽子はすぐに方向を反転し、今度は後ろからブラフォードを襲った。
「くどいッ!」
しかしブラフォードはそれを予期していたかのように、くるりと身体を回転させて帽子を避ける。ブラフォードの肩の側をすれ違うようにして通過した帽子は、そのままの勢いでスピードワゴンへと戻っていく。ブラフォードが再び自分へと向かうのを肌で感じ取りながら、それでもスピードワゴンの目は、帰ってくる帽子と、差し出した銃と右手を見つめていた。
右手のすぐ先にまで帽子が到達しようとしたとき、その帽子の後ろに現れたものをスピードワゴンの目が捉えた。波打ちながら伸びてくる黒い触手。
(髪の毛かッ!)
意識がそちらへ一瞬だけ及んだとき、スピードワゴンのバランスが僅かに崩れた。靴の中を浸す血によって足が滑ったのだ。そして次の刹那、鋭い刃を持つ帽子が、スピードワゴンの右腕を伝うようにして駆け抜けた。
スッパアァーーーーーッ
「うぐあぁ……っ!」
右腕の先から肩口にかけてから、一斉に血が噴き出す。痛みに身体を震わせながら、それでもスピードワゴンは、続けて殺到するブラフォードの髪の毛に抗おうとした。
ズブゥッ
しかしその時、スピードワゴンの腹部に突き立てられたのは髪の毛ではなかった。剣。それを自分の腹の中に感じながら、ブラフォードの冷たい吐息が自分の首筋に掛かっていることに、スピードワゴンは気が付いた。その瞬間にブラフォードは、スピードワゴンの元に辿り着いていたのだ。
「のろい……のろいぞォ、人間よオォ……」
剣を握った右手でそのまま殴り抜くように、ブラフォードはスピードワゴンを吹き飛ばした。
「ぶっ、げぇ…………っ!!」
軽く十メートル以上を飛ばされてから、スピードワゴンの身体は山の固い地面をごろごろと転がった。
身体がうつ伏せに止まった後も、スピードワゴンは腹を抱えたまま、起き上がることが出来ないでいた。冷たい地表に、暖かな鮮血がスピードワゴンの腹からぼたぼたと滴り落ちる。
「フン、勝負ありかアァ……? おれの人生なんていう講釈を語っている暇があったならァ……準備運動に屈伸の一つでもしておけば良かったんじゃないかァ、お前エェ……ククハハハハーッ!」
「ぐ……あ、が…………ッ!!」
ブラフォードの嘲笑が、そのスピードワゴンに浴びせられた。しかし今のスピードワゴンには、先程までのブラフォードの様に身体を震わせて悶絶する以外に、出来ることはなかった。
「さて……」
ブラフォードの声が落ち着きを取り戻し、冷徹な響きを帯びた物に変わった。
「トドメを刺すとするか」
そう言ったブラフォードが、スピードワゴンに向けて足を踏み出した。スピードワゴンは必死に立ち上がろうとするが、背中の冷たさと腹部の熱さがその力を奪い去っていく。一歩一歩歩み寄るブラフォードの足音……それが突然止まった。
「ゥゥウ鬱陶しいぞオォッ!!」
そう叫んで、ブラフォードは振り向きざまに右手の剣を振り投げた。
ギャンッ
剣は風を斬りながら、崩れた洞窟の瓦礫に向かう。そしてそれが岩陰に飛び込む一瞬前に、そこから白いものが飛び出した。
「ヒギアアウゥッ!!」
獣じみた叫び声と共に現れたもの……それは白いローブを羽織った上半身だけの女、シマだった。瓦礫の上に張り付くようにして、長い黒髪の奥から鋭い視線をブラフォードに向けている。シマと「同じ能力」を持つ者がその場にいれば、シマの身体から十本ほどの『白い腕』が突き出して、その手に持った『釘』を刺して岩に取り付いている、さながら蜘蛛のような姿を見ることが出来ただろう。
シマの血走った目から送られる怨念の視線をものともせず、ブラフォードがシマへと足を向けた。
「気が付いていないとでも思っていたのかアァ? あれだけの殺意がこめられている視線をオォ……」
シマは歯をギリギリと鳴らしながら、ブラフォードとの間合いを計っていた。
「わたわたし私は……見ているだけ……」
シマの呟きを聞いてか聞かずか、ブラフォードが答える。
「ぶった斬られて生きているその生命力も気になるがアァ……貴様が見る度に疼くこの背の冷たさも気になるがアァ……」
バギッと音を立てて、ブラフォードの奥歯が砕けた。
「遠くから見ているだけで、ただ嘲笑っているゥ! 毛の抜けた病気持ちの猫のようなアァッ! 呪いに満ちたその眼が許せんンン……ッ!!」
地面を蹴って、ブラフォードが駆け出した。
「我慢ならぬ! 今度こそ殺すッ! 侮蔑に満ちたその眼から潰してくれるッ!!」
「ギイィッ!?」
身を翻して、シマが再び洞窟の中へと滑り込んでいく。そしてその後をブラフォードが追っていく。
「まっ……待ちやが、れ……ッ!!」
後ろから聞こえた弱々しい声に、ブラフォードが振り向いた。膝で立ったスピードワゴンが、ブラフォードに向けて右手の銃を構えている。右手と銃を強制的に固定していたブラフォードの頭髪は、既に取り除かれていた。
「ほう……先程の帽子のブーメランはァ、拘束を解く、端からそれが目的だったということかアァ」
「……シ……シマを追うんじゃねぇ……」
「ククク……止めてみせろォ……おれはその攻撃を避けん、好きに撃てィィ」
ブラフォードはスピードワゴンから目を逸らすと、瓦礫に近寄り、岩の陰に手を入れた。そのブラフォードに向けられた銃口は、ガタガタと大きく揺れていた。スピードワゴンの表情が歪む。その間に、ブラフォードは瓦礫の中から自分の投げた剣を抜き出した。
「その武器……『gun』とかいったか、ようは弓矢と同じタイプの飛び道具だなァァ。飛び道具はァ、標的との距離が離れるほど手元の僅かな狂いが大きなズレとなるウゥ……。今の貴様がおれに命中させられるかアァ? その傷を負った腕で、ボロクソの身体でエェ!」
ドオォンッ!
スピードワゴンの銃が火を噴いた。
バシッ
ブラフォードの右、十メートルほど離れたところにある岩の表面が砕かれた。
ブラフォードは剣を背にしまうと、シマを追って洞窟の中へと姿を消した。
少しして、スピードワゴンが立ち上がった。右手で押さえる腹部からは、今も血が滴り落ちて、地面を赤く染めていく。深い呼吸で肩を上下させながら、スピードワゴンは左、山の下方に目をやった。そしてそちらに向かって、一歩、また一歩と足を運んでいく。
しかし十歩も進まないうちに、その足が止まった。顔は、シマとブラフォードが消えた洞窟の中へと向いていた。逞しい胸に息を思い切り吸い込み、荒く息を吐く。それを数回繰り返してから、スピードワゴンは呟いた。
「はぁ、はぁ……肩を砕かれたって……腕を切ったって……はぁ……腹を刺されたって…………足が動くなら前へ進めるんだ……はぁ、はぁ……ハハッ、お、俺ってツイてるぜ……そうだろ? はぁ、はぁ……」
再び洞窟の、暗闇が支配する世界へと、スピードワゴンは入り込んだ。