アメリカ、テキサス州。
夜明けにはまだ早い、暗い町の中を、ベージュのコートを羽織った一人の男がとぼとぼと歩いていた。齢4、50歳というところか。道の端を、身体を縮こまらせて歩くその姿には、弱々しさと闇への怯えを感じさせる。しかし、手に持ったランプの明かりが男の表情を浮かび上がらせると、その頬に走る傷跡と大きな瞳に、未だ男が持っているバイタリティーを見て取ることが出来た。
一台の自動車が、通りの前方から走ってくる。車のライトが、通りの端を歩く男の顔や身体を無遠慮に照らし出す。眩しそうに目を細めた男は、しかしそれをむしろ歓迎するように、安堵の笑みを浮かべていた。
車は男に近づき、やがてすれ違う。するとすぐに速度を落とし、男の後方で停止した。ドアが開いて、一人の男が顔を出す。
「スピードワゴンさんじゃないか!」
「えっ、本当か?」
「ほら見ろ、だから言っただろ?」
顔を出した男の声に、車の中からも続いて声があがる。振り向いた男……スピードワゴンが、右手を挙げてそれに応えた。
「やあ、お早う、みんな。どうしたんだ、こんな朝早く?」
「オレ達は『これ』なんだけどよ」
「スピードワゴンさんこそ、どうしたんだい?」
釣り竿を振って答えた二人目の男を押し退けるようにして、三人目の男が顔を出す。スピードワゴンが、町の外を指差して答えた。
「ちょっと空港にな」
「空港? まだ夜も明けてないってのに?」
「何かあったのかい、スピードワゴンさん」
「いやいや、何もないよ」
少し表情を曇らせた男に、スピードワゴンは笑みを浮かべて否定する。
「知人がやって来るんで、それを出迎える準備をするだけさ」
「スピードワゴンさん一人だけで? 大事な商談相手が来るとか? 手伝おうか?」
「いやいや、そんな大それた事じゃあないよ。本当に単なる身内さ」
「本当に手伝わなくていいのかい?」
「ああ、気持ちだけ頂いておくよ」
「空港まではちょっと距離がある。送っていこうか?」
「構わないでくれていいよ、散歩のつもりだから」
「そうかい?」
尚もスピードワゴンを気にかける男達の車を、スピードワゴンは暖かな笑顔で送り出した。そしてまた、道を一人で歩き出す。
しばらく歩いて、住宅地の外れに建つ一軒家を通り過ぎる。そこにぽつりと明かりの灯った窓と、その中で微かに動く人影を見て、スピードワゴンはため息を付いた。
「ジェフの奴、相変わらず遅くまでやってるんだな」
そうしてスピードワゴンが町外れの空港までやって来た時には、東の空が徐々に青く染まり、稜線がくっきりと浮かび上がるまでになっていた。それを見て、ふと安心したような表情になると、滑走路の脇に建つ倉庫の中へ入っていった。
空港といっても、そこには滑走路が一本と、飛行機を何台か入れられる倉庫が三棟建っているだけである。スピードワゴンが自分の石油会社のために自費で建設したのだが、自社だけでなく、町の者達にも使わせている施設だった。
倉庫から出て、滑走路脇まで歩いてくるとそこに立ち止まり、倉庫の中から持ち出してきた椅子を置いた。その上に毛布を投げる。
深呼吸をして落ち着くと、スピードワゴンは空を見上げた。そこにはまだ、星が瞬いている。そこに先程町中で会った、三人の男の顔が重なった。
「釣りか……いいな。今度暇を作って一緒に行くか……」
呟きながら三人の、若い頃の顔を思い出す。彼等は昔、砂漠の町でスピードワゴンを襲ったチンピラだった。
スピードワゴンは後ろを振り向いた。そこには、この十年で大きく変わった町があった。スピードワゴンが波紋研究者達と共に油田を掘り当てたこの地には、多くの仕事が生まれた。人が集まってきた。自然と、町は大きくなった。
夜明け前の静かな町に、スピードワゴンはそこに住む人々の顔を重ねた。彼等、アメリカの各地からやって来た人々……希望を胸にやってきた者、故郷を追われ流れ着いた者……その人生がこの町で結び付いていくのを、スピードワゴンは長く見守ってきた。
(そうさ、俺達が……俺達がこの町を築いたんだ……)
スピードワゴンが、天を仰いで目を閉じる。スピードワゴンが旅の中で見た、世界中の町の様子が、そこに生きる人々の様が、瞼の裏に溢れ出す。
(世界中にそんな人々がいる……守りたい、その全てを。要らぬお節介と言われても構わない……)
瞼を開き、その瞳に星の光を受け止める。そして空のグラデーションを追うようにして、東の空に再度視線を移した。
(俺ももう歳を取った……肩の後遺症もあるし、暗闇や狭いところも未だに苦手だ。波紋も使えない俺では、あとは老いていくだけだ……)
(だから、ブライアン爺さんの遺産を……我が「財団」の組織力を使おう。この財団の力で、戦士達の支援に努めよう……)
スピードワゴンは、自分の右手を挙げて見た。そこにある手は、スピードワゴンが幾ら力を込めようと握られることはない。ブラフォードとの戦いの後で取り付けられた、義手だからだ。しかし今、スピードワゴンはそこに一丁の「銃」を見ていた。
(そう、それだけが……たった一つ、このスピードワゴンに残された武器なのだから……!)
複葉機の操縦席から、男が縄梯子を上ってきた女に手を差し伸ばした。しかし、女はそれに反応を示さず、機体に乗る素振りも見せない。下方に広がる地上の夜景に、女の白いコートが激しく揺れている。声を掛けようとした男は、女の身体が風に煽られる以上に震えていることに気が付いた。
「お、おい、どうした? 何かされたのか?」
男の掛けた声に、女がぴくりと肩を動かした。続いて、低い笑いが男の耳に届く。
「ふふ……『何かされた』ですって? ふふふ……『されている』わ。ええ、ずっと以前から……!」
「イ、イライザ?」
女の激しい口調に、男は伸ばしていた手の動きを止めて、続く言葉に耳を傾けた。
「私の……顔も覚えていない最初の父親は、屍生人に殺されたわ。母親もッ! そして、優しかった二人目の父もッ! ストレイツォ父さまもッ!」
「イライザ……」
「屍生人ッ! ヤツらに呪われているのよ、私はッ!!」
「イライザ、とにかくこっちに乗るんだ。そこは危ない」
柔らかな声で男が諭す。顔を上げた女の目は、涙で潤んでいた。
「それにお前だけじゃない。俺の父親も母さんの目の前で吸血鬼に殺されたというし、マリオの父親も、祖父も、石仮面の因縁の中に死んだんだ」
「え? 誰ですって?」
「マリオさ、マリオ・ツェペリだ。アイツがお前に危機が迫っていることを、教えてくれたんだ」
「ツェペリ……ああ、彼? 彼が来ているの?」
「いや、人づてで知らせてくれたんだが……きっと来るだろうさ。頼もしい限りだぜ」
「そう、そうだったの……」
女が再び力無く俯く。唇を噛みしめながら、女が呻いた。
「な……情けないわ。逃げることしか出来なかった……。こんなんじゃ、ロバート父さんも殺されてしまう……! 何の為に長い間、波紋の修行をしてきたというの……。折角……折角、彼奴に会えたというのに……ッ!」
「何だってイライザ? 『彼奴』……まさか『彼奴』ってのは、あの……スピードワゴンのオッさんが言っていた……あのプレッシャーはそうなのか? 見たのかイライザ!?」
「そうよ……彼奴だったわ、来たのはッ! ストレイツォ父さまの仇ッ!!」
「『黒騎士』ッ!!」
「やはり還ってきたか、ブラフォード……」
椅子に座って、毛布で足を覆ったスピードワゴンが、今にも太陽が顔を出しそうな東の空を眺めていた。誰とも無しに呟く。
「ジョースターさんの波紋を受けて死んだお前が還ってきたんだ。きっとまた還ってくると、思っていたよ」
思い出したくない顔が脳裏を過ぎり、スピードワゴンの表情が一瞬曇った。
「ディオのヤツはもういない……今度は誰がお前を蘇らせたのか、それが分からない限り……そいつを叩かない限り、お前は還ってくるんじゃないかと思っているんだ」
目を細め、語り掛けるようにスピードワゴンが言葉を紡ぐ。
「だからブラフォード……俺はお前を倒したい。死の眠りからお前を無理矢理蘇らせる、その呪いからお前を救いたい。今度こそ、永遠の眠りにつかせたいんだ」
その時、稜線に太陽が姿を現した。白い陽光がスピードワゴンの目に飛び込む。眩しさに思わず右手を顔の前にかざしたスピードワゴンは、その太陽を背に飛来する物があるのに気が付いた。スピードワゴンの表情がぱっと輝く。
「おおっ、来たかっ!」
スピードワゴンは、毛布をはね飛ばして椅子から立ち上がった。スピードワゴンの見守る中、確かにそれはその影を徐々に大きくしていく。
「マリオ君の知らせは間に合ったようだな……。うちのエリザベスを助けられていなかったら、俺が張り倒してやるところだが……その時はここに帰って来たりはしないだろうから……いや、良かった。本当に!」
両手を東の空に向けて広げると、スピードワゴンは大きな声で叫んだ。
「早く帰ってこい、ガキ共! 俺はお前達に、全てを託しているんだからなっ!」
夜明けの迫る空の下を、漆黒の列車が走っていく。その最後尾、客車の切断口に、黒い鎧を纏った男が立っていた。黒衣が風になびいてばたばたと音を立てている。黒騎士……ブラフォードは、低い笑い声を漏らした。
「クックック……波紋の流れた帽子を繰り出してきたぞ、あの女……クックック」
ブラフォードの足下には、女の放った帽子が落ちていた。それには切り落とされたブラフォードの髪が巻き付いており、波紋によって音を立てて煙を上げながら溶けていた。
「名が『スピードワゴン』というからもしやと思ったが……貴様の娘か、スピードワゴン。クックック……こいつは愉快だ! おれを待っていたという訳か!」
背中から黒い刀身を持った長剣を抜き出すと、今正に太陽が顔を出そうとしている東の空へ向けて、真っ直ぐにかざした。
「いいだろう、スピードワゴン……今度こそおれは、『良く生きて』みせる! 『良く生きる』とは『良く死ぬ』こと。即ち『やり遂げる』ということだ!
それの善悪といった性質は、全く別の次元の話だ! 重要なのは『やり遂げる』ということなのだ!
騎士としてやり遂げるまで、おれは終わらぬ! たとえ志半ばにして死んだとしても、決して終わりはしない。終わることが出来るまで、おれは何度でも死んでやろう! 何度でも、何度でも……永遠に死に続けてやろう!
そう、それがおれの……!」
その時、稜線に太陽が姿を現した。白い陽光がブラフォードに届く一瞬、列車が暗いトンネルの中に飛び込んだ。
「それがおれの、おれ自身に対する……!」
ブラフォードの紅い瞳が、トンネルの闇の中に消えていった。
「飛行機がこんなに高く飛べるのはどうしてか、知ってるか?」
複葉機の後部座席に座って、眉間に皺を寄せて落涙を抑える女に、男が操縦席から質問を投げかけた。
「な、何? いきなりそれは」
「いいから……なんで高く飛べると思う?」
困惑の表情を浮かべた女は、少しだけ考えてつまらない答えを返した。
「エンジンが付いているから?」
「んん……『翼が』と来た方がまだロマンがあったんだがなぁ」
「じゃあなんなの」
女の言葉に「苛立ち」が少し混じっていることに気付かずに、男が答えた。
「それはさ……飛行機がこんなに高く飛べるのは……『ものすごい空気の抵抗があるからこそ』、なんだ」
「空気の、抵抗?」
「そうさ。抵抗をその一身に受けてこそ、高く飛ぶことが出来るんだ」
「高く……」
それだけ答えてしばらく黙した男が、照れ笑いを浮かべながら後ろの女に振り向く。
「って、お前のとこの図書館で見た本に、書いてあった話なんだけれどな」
「なんだ……ちょっとがっかり」
「で、でもいい話だろ?」
男が前に向き直り、操縦桿を握った。口調を正して、女に語る。
「そしてその言葉を読んで、俺は飛行機乗りになりたいと思った」
「……」
「俺も高く、高く飛びたいと思った」
二人の間を、飛行機のエンジン音が流れていく。
女は男の後ろ姿を見つめた。パイロットスーツに隠された首筋……そこにある星形の「あざ」を、女は思い出していた。
しばらくして不意に、女の声が男の耳元に掛けられた。
「私も飛んでみたいわ」
「わぁっ、驚いたっ! お、おいイライザッ!?」
女は後部座席を抜け出し、機体の上に直接座り込んでいた。
「危ないだろ、落ちるぞ!」
「落ちないわ、波紋でくっついているもの」
「し、しかしだな……」
「呼んで」
男に女が顔を近づけた。男の目をじっと見つめる。
「私も貴方と飛んでいきたいの」
「い、今飛んでいるだろう?」
「そういう意味じゃないわ……だから呼んで、私の名を」
「イ、イライザ?」
「そっちじゃないわ、さっき呼んでくれたじゃない」
迫る女に、男が顔を赤くする。押し返そうとした男の手を、女が強く握った。
「あ、あれはその……咄嗟にだな……」
「あの名を呼んでいいのは、貴方と父さんだけなの……特別な絆なのよ」
「イ、イラ……」
「貴方となら私も高く飛んでいけるの。小さい頃からずっとそう思ってた……お願い、呼んで」
やがて男はふぅと大きく息を付くと、女を真っ直ぐに見つめ返した。握られていた手を、逆にしっかりと握り返す。
「分かったよ……一緒に高く、何処までもいつまでも飛んでいこう……リサリサ」
「ああ、ジョジョ……ッ!」
目を閉じて、顔を寄せ合う二人を乗せた飛行機が、朝日を背に受けながら空を飛ぶ。その行く先に、陽光に明るく浮かび上がる町があった。飛行機が町に向けて、徐々に高度を下げていく。その飛行機の尾翼には、操縦者の愛称が山吹色の塗料で描かれていた。
―― ジョージ・ジョースターII世。「JOJO II」と。
The end.
And now, "JOJO'S BIZARRE ADVENTURE (another) Part II" has begun !!