左の棟と正面の棟が接続する曲がり角まで走ってきて、ラング・ラングラーは四つん這い状態から立ち上がった。その場に立って廊下を見回し、首を傾げて耳を澄ます。
「何処へ行った……? 確かこっちに向かってたんだが……」
―― 先程見たのは、女とガキだった。対面の棟から遠ざかるように走っていたということは、オレの殺しを見たのかもしれない。まぁ、この校舎から出られるはずはないから、逃げられる心配はないのだ。オレはヤツらの「狩り」を楽しめばいい。あまりノンビリとはしていられないか……いつまでオレの『記憶』が保たれるか、分かったものではない。
「上か、それとも向こうか……」
―― 上ではないな……逃げるならまずは玄関を目指すはずだ。玄関が閉ざされているのを見て、それから右の棟というところか。普通の人間なら、逃げるのに二階へ行こうとは考えない。一階なら窓なりなんなりから脱出できるだろうからな。もっとも、奴等が動揺して思考が混乱していたら、何をやらかすか分からないが。
廊下の壁際に寄り、中庭側に付いている窓から顔を半分覗かせる。そこから見える校舎の窓に、人影を探した。対面の棟、一階……二階……三階……。次に右側の棟へ。三階……二階……一階……女と少年の姿は見えない。二分ほどそのまま観察をしていたが、動くものを見つけることは出来なかった。
―― 恐らく二人は何処かの教室の中にいるのか、それともこちらを警戒して、姿を見せないように移動しているのか、そのどちらかだろう。
そう考えていたラングに合わせるように、右の棟二階の中央付近にある窓で、頭らしきものが二人分、チラリと揺れた。
ニヤリと口を歪めて床を蹴ると、ラングは廊下の天井まで飛んで体勢を変え、そのまま逆さまになって天井に張り付いた。既に『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』の能力は発現済みで、重力に引かれて落ちることはない。そのまま廊下の天井を舐めるように、正面の棟を飛んでいく。
天井に設置されている古びた蛍光灯を左手で触れながら、保健室と職員室の前を一気に通り過ぎる。正面玄関の先、廊下の突き当たり近くまで辿り着いたところで両手を天井に付け、反動を付けて右方向へ進路を変更、右の棟へ滑り込む。
その時、廊下を腰を屈めて歩む一人の女と上下ですれ違った。
「……えッ?」
「……何ッ?」
後ろを振り向き、天井を見上げる美瑛。
後ろを振り向き、見上げるような体勢で廊下を見下ろすラング。
「……ヒギッ!」
驚愕に顔を歪め、喉が詰まったような叫びを発する美瑛。弾かれたように立ち上がって走り出す。そしてモップを振りつつ、玄関の横にある階段を勢いよく駆け上がっていく。
「こ、こんなところにいるだと!? さ、さっきは……(右の棟の二階に)!」
予期しない遭遇に反応の遅れたラングは、慌てて身体を反転させて天井を蹴る。スピードのある下降。身体が廊下に迫ったところで自身の無重力を解除、右足で着地してそのままの勢いで疾走に移った。女の後を追い、二段飛びで階段を上る。2、4、6……頭上に階段を上る音を聞いた。
(この足音……二階で止まってはいない!)
足を付く度にカウントアップ……8、そして9で折り返す。左手で手すりを掴んで180度旋回、二階へ向かって階段を駆ける。
(2、4……まだ覚えているぞ。最初は9段、そして折り返した後は……8、10!)
二階の廊下を横目に、さらに三階まで一気に駆け上がる。廊下に躍り出て、ラングはそこに誰もいないのを確認した。ちらりと左に視線を飛ばす。三階からさらに上に伸びる階段……9段上ったその先に、古びた扉があった。校舎の構造から推測すると、その扉の向こうは屋上に続いているはずであったが、しかし何度も試してもそれが開いたことはなかった。
フンッと鼻を鳴らして、正面に向き直る。「3-1」「3-2」と書かれた木製のプレートが、先の教室に続いている。自分の足音以外の音は何一つ聞こえない。手をかけて、「3-1」の扉を横へスライドして開ける。扉が接地面で擦れて、ガリガリと音を立てた。その音が静かな教室内に響き渡る。
教室の中に、ゆっくりと歩を進めた。見たところ、女が隠れているような雰囲気はない。そもそも教室の中に人が隠れられるようなスペースはほとんどない。せいぜい、教卓の下がいいところだ。
(音はどうだ? 教卓の下で息を潜める、女の呼吸音が聞こえないか? ……いや、ちょっと待て)
そこでふとラングは足を止める。
―― さっき、この教室に入った時に、オレは扉を開けた。その時に扉はガリガリと、結構派手に音を出していた。女を追って階段を上がっている時に、オレは女の足音が聞こえるほどに気を付けていたのだ。ならば、女が教室に入る時に開ける扉の音も、聞こえるはずではないのか……?
教室を出て、ラングは廊下を先に進んで教室の扉を確認する。……「3-2」「3-3」の教室の扉は閉まっていた。
―― その向こう、「3-4」「3-5」まで行けるほどの距離は離れていなかったはず。そうすると、女が既に開いていた扉から教室に入っていった可能性も消える。この状態……つまり到達できる扉の全てが閉じているのであれば、開いていた扉から入っても……それを閉めたことになる。その時に扉が音を立てたはずなのだ。それがオレに聞こえない訳がない。
「あの女、いったい何処に……?」
ギギ……
その時、廊下に立ちすくむラングに、何かが軋むような音が微かに聞こえた。振り返る……今のは後ろから聞こえた。
「3-2」、「3-1」と廊下を戻っていく。教室側の壁に取り付けられている窓から中を注意深く覗き見ても、特に変化は見られない。
ギィ……
再び聞こえたその小さな音を、ラングは聞き逃さなかった。
(ま、まさか……ッ!)
思わず走る。そして廊下の突き当たりまでやってきたラングは、上へ行く階段の先で「閉ざされた扉」が僅かに開いて揺れているのを見た。
「お……おぉ……!」
歓喜の呻きとともに、ラングの顔に笑みが浮かんだ。
1、2、3……一段一段、ゆっくりと上っていく。……7、8、9。上りきり、扉の前に立つ。扉が数センチだけ開いているが、その向こうは暗く、様子を伺い知ることはできない。重たそうにそびえる黒い扉には不釣り合いな、銀色に光るドアノブが付いている。最初は赤く錆び付いたノブだったのだ。それを毎日のように手をかけて、開くかどうかを試している内に、ラングが綺麗に磨く形となってしまったのだ。
ノブに向けて右手を伸ばす。それはこれまでのような、「回らないことを確認するため」の動作ではない。「開けるため」の動作である……そのことにラングは久しぶりの高揚感を覚えた。
右手がノブにあと数センチまで近づく。しかし、ラングはそこで不意に右手を止め、そして数えた。1、2、3、4……四本。足りない……指が一本……思い出してきた。同じようなことがあったのだ……そう、確か……。
ブルブルと右手が震え、息が詰まる。8、7、6……階段を後ずさった。
―― この向こうは屋上のはずだ。屋上まで出れば、オレの能力で脱出できる。この校舎を脱出できるのだ!
「し、しかし、何かが……木の匂い……小指……ハァ、ハァッ!」
2……1……そしてついにラングの足は、三階の廊下に降り立った。
「ハァ……開けられない……な、何故だ……ハアァ……オレはどうして…………思い出せない……」
手で顔を覆い、廊下をおぼつかない足取りで歩いていく。棟の中程まで行って、唐突に振り向いた。
「『思い出せない』だと? そうだ、オレが求めていたのは『記憶』! ここを逃げ出しても記憶がなければ意味がないッ!!」
廊下を左右に見渡しながら、ラングが叫ぶ。
「思い出したぞ、女だッ! オレは女を捜していたッ! アイツかガキがオレの『記憶』を持っているはずだッ! 何処へ行った!? ……ハッ、まさかッ!!」
―― だから開いているのか、あの扉が? アレはあの女が開けて、そしてその向こうへ行ったのか? 確かにそれだったら、教室の扉が開いていない説明になる! だとしたら……あの女から記憶を手に入れるためには、やはりあの扉を越えなければならないのか……?
ラングの精神は、再び「扉の向こう」に対する希望と畏怖に包まれた。荒い呼吸で、廊下を右往左往する。
「ハァッ、ハァッ……お、落ち着け……そうだ、空を……いつものように……」
中庭を望む窓に歩み寄り、ガラスに張り付いて空を見上げる。
ゴオオオォォォ
青空に背景に白い雲が流れている。いつの頃からか、ラングにはそのような習慣が身に付いていた。校舎に一人佇む孤独に心が苛まれた時や、図書室の天井に聞こえる物音に言い知れない恐怖を覚えた時、空を流れる雲を見ていると不思議と心が平安に満たされた。
ゴオオオォォォ
乱れていた呼吸が、穏やかなものに戻っていく。暗闇に迷い込んだ思考が、暖かな日の光に照らされるのをラングは感じた。
―― そう……そうだ、オレが無理に行く必要はないのだ……。もし、屋上に行ったというのなら、またあの扉からでないと戻ってこられない。オレのような能力を持っていなければ、屋上から何処かに行ける訳がないのだ……もしかしたら教室にいるかもしれない。ならばここに……そう、廊下にいて、扉と教室の両方を監視していればいいのだ。そうだ、それが確実で安全だ……。
そうして窓に背を預け、三階の廊下にラングは待ち続けた。
「なんにも使えそうにもない物しか手に入らないけど……あれ?」
右の棟二階の窓から外を見た早人が、正面の棟にラングの姿を発見した。慌てて窓から身を隠す。
「なんであんな所に? ぼく達を探しているふうでもない……ハッ、まさか!」
何分経っただろうか。ふと、チカチカと瞬く光が視界の端に入った。目を向けると、それは窓の向こう……つまり中庭の方向から届いているものだ。窓に手を付くまで近づき、中庭を見下ろす。
チカッ!
また光った。中庭ではない、その向こう側……対面の棟の一階にある教室、つまり「1-1」の窓から発している。そしてその教室の中にいる人間の姿に、ラングは自分の目を疑った。
「お、女ッ!? バ、バカなッ! あの女があんなところに……ッ!」
「1-1」の窓際に、確かに自分が追っていた女が立っている。そして少し離れたところで、少年がカメラで女を写している。そのカメラのフラッシュが光っていたのだ。
ラングは扉のある階段の方を見て、再び対面の棟を見直す。間違いなく、女はそこにいた。
「い、いつの間に……最初からここにはいなかったのか? し、しかし……クソッ!」
吐き捨てて、ラングは廊下を左の棟方面へ走り出す。その姿が廊下の先の階段に消える頃には、既に「1-1」の二人の姿は消えていた。
……それから二十秒ほど経ってから……軋む音を廊下に響かせて、その扉は開いた。そこからそっと出て、階段を9段、音を立てずに下りてきた者は、矢印形の髪をなびかせ、モップを持った手を振りながら、そのまま階段を駆け下りていった。