日曜日、ぼくは友達の家に遊びに行くために自転車を走らせていた。その友達の家は農家で、町や学校からは遠く離れたところにある。どのくらい遠いかというと、だいたい自転車で50分近くかかってしまうくらい。バスの路線から外れたところにあるので、車やバイクに乗れないぼくたちには自転車で行くしか方法がない。これをママに言ったら、まず「そんなに遠くまで行くの!?」ととても驚いて、そして次に「大丈夫なの?」と心配そうな顔をしてくれた。
確かに最初はどこまで行くのか分からないこともあって、自転車をこぎながらうんざりとなった。でも、その後何回かその家までは行っていて、ぼくはもうそんなに遠いとは感じなくなっていた。町から離れるに連れて空気が変わるのを感じて、なんだか健康になるんじゃないか、なんて思ったり(もちろん、そんなことはないと分かっているけど)。小高い丘をいくつも越えて、暗い森の脇を走っていくのはちょっとした冒険気分にもなれた。以前、道を横断するヘビに出くわした時なんかは、一緒に行った友達と大騒ぎしたりした。
だいたい、30分くらい走ってきた時だった。今回はぼく一人で行くことになっていて、その時も道の右側を流れる小川を眺めながら、ただ黙々と自転車をこいでいた。
「おーい、そこのボクー!」
どこからか、女の人の声がしたような気がした。小川を見ていた顔を上げて、ペダルの上の足も止めて自転車を惰性で走らせながら、キョロキョロと左右を探してみる。けれど、人の姿は見当たらない。左側は草が長く伸びている丘の斜面、右側は小川の少し向こうに高い木がいっぱい並んだ薄暗い森が広がっている。
……気のせいだったのかな、とまた自転車をこぎ始めたところに、よりハッキリとした声が右側の森の方から聞こえてきた。
「ボクーッ、ちょっと待ってーッ!」
慌てて自転車を止めて、舗装道路に足を付く。声の聞こえた方に視線を向けると、今いる道路の少し前方に小川にかけられた小さな橋があって、そこから細い道……舗装もされていない、車が一台通れるか通れないかくらいの道が、森に向かって伸びているのに気が付いた。森の入り口に、自転車が一台止まっている。
こんなところに道があるなんて、全然知らなかった。確かに目立たない橋と道だけど、舗装道路の左側のように草に覆われているわけでもない。今まで気が付かなかったのがおかしいくらいだ。本当にここに、こんな道があったのだろうか……。
当惑していると、森の中からその道に一人の女の人が姿を現した。どうやら、上下ともに黒い服装が森に溶け込んでいたために、ぼくが見逃していたようだ。腰まで伸びた髪をなびかせて、元気よく道を走ってくる。ぼくも橋の入り口まで自転車を走らせてから、そこでその女の人が来るのを待った。
「ふぅ~……ごめんねぇ、呼び止めて」
そう言って、長い髪を右手で後ろに払った女の人は、ぼくのママよりも少し若い感じの人だった。髪は7、8本に束ねられていて、それぞれの先が三角形に、まるで矢印のような形になっている変わった髪型だ。縦縞模様の付いた黒い半袖シャツとこれまた黒いパンツの間に白い肌とおへそが見えて、ぼくはちょっとドキッとした。
「一つ聞きたいコトがあるんだけれど、いいかな?」
腰に手を当て、少し屈むようにして覗き込んでくる黒い瞳に、ぼくは頷いて答える。ありがとう、そう言って女の人は口をニッと横に伸ばした。そして後ろにある森の入り口を指差して、こう切り出した。
「神隠しのある廃校っていうのは、この向こうなのかな。知ってる?」
思いもかけない言葉が出てきて、ぼくは一瞬答えに困った。
「……え、なんですか? 神隠しの学校?」
「あら、知らないかな? ボクみたいな子供の方がワリと知ってるかと思ったんだけど」
そう言いながら、女の人は背負った小さめのバックパックに手を伸ばした。話が長くなりそうなので自転車を降りてそこに留めると、振り返ったぼくの顔の前に小さな画面が現れた。それはかなり小さめのノートパソコンのものだった。
「実はねぇ、ウェッブでこういう話を見掛けてねぇ……」
「『ウェッブ』?」
「いわゆるホームページというヤツね」
「あぁ、ホームページですか」
などと返しつつ、ぼくは実のところ、そのノートパソコンに目を奪われていた。元々、こういう機械関係は大好きだった。以前の家にいた時はパソコンもあったし、ビデオカメラや編集機材も(そんなに高いものではないけど)持っていた。でも、それらは引っ越しの際に売って処分してしまった。お金が必要なのは分かっていたし、ぼく自身も以前ほどの強い興味は抱かなくなっていた。そもそも今のアパートの中には、それらを入れるスペースの余裕もない。
とはいえ興味が全く無くなったわけではなく、例えば友人の家にあるパソコンは遊びに行く目的の一つだったし、学校帰りに本屋でパソコン雑誌を立ち読みするのは、その本の発売日の日課だった。だから一目で分かったのだ、そのノートパソコンがついこの間発売されたはずの、最新型であることが。
「……それで、ここの記事にあったワケよ、『神隠しのある廃校』が」
半分うわの空で聞いていたが、ようするに「日本の、怪奇現象の起こる噂がある場所」を紹介しているホームページで、杜王町の外れ、その森の奥にいわく付きの廃校があるという話が紹介されていたとのことだった。
でも、ぼくにだって分かる。いくらなんでも、森の中に学校があるなんておかしな話だということは。
「でも、ワリと細かい地図まであるし。……そう、それそれ。」
タッチパッドをなぞって画面をスクロールさせると、その廃校があるという位置を示した地図が表示された。確かに大体この辺のようだ。……ところで、いつの間にかノートパソコンがぼくの手の中にあるんだけど。……ま、まぁ、楽しいからいいか。
「杜王町に泊まったのも何かの縁ってコトで、いっちょ確かめてみるかなーと思って自転車借りて来てみたんだけど。ニッヒッヒ」
口を横に伸ばして、女の人は悪戯っぽく笑った。そして立ち上がって……いつの間にか、二人座り込んで話をしていた……森の方を見やる。矢印型の髪が、ざぁっと風になびいた。
「でも、ボクみたいな子が知らないとなると、やっぱり期待薄かなぁ。建物だけでもあれば、写真撮って記事にしようと思ったんだけど」
こちらの方に振り返ったと思ったら、突然フラッシュが光ってぼくの目を眩ませた。いつの間にか手にしたカメラで、ぼくを撮ったらしい。あ、あれは確か先月発売されたばかりのデジタルカメラ……!
「そ、そのデジカメ……!」
「ん? 使ってみる?」
「え、いや、その……」
「そうだ。あの入り口をバックにワタシを撮ってくれない? 記事に使えるし」
女の人がデジカメをぼくの手に乗せた。それは思っていたよりも少し軽い。ボディのヒンヤリとした冷たさと、女の人の体温で生暖かくなった部分を、手の中に感じた。
「は、はい! ありがとうございます!!」
「何よ、そのお礼は。ニッヒッヒ」
「さてと、じゃあそろそろ行ってみようかなっと」
ノートパソコンをバックパックにしまいながら、女の人が言った。
「廃校ですか?」
「ま、なきゃないで散歩と思えばワリとオッケーってコトで。長話しちゃったわね、ゴメンね」
「いえ、そんなことは……」
別れにふと寂しさ(と、もったいなさ)を覚えたぼくの目は、女の人が手にしたそれに釘付けになった。
「メール、チェックしておくかな……」
そ、それは先々月発売された手のひらサイズのPDA……!
「あ、あの! ぼくも付いていっていいですか?」
少し目を大きくして、驚いたような表情で女の人がぼくを見た。まずいことを言ってしまったかと、思わず目を逸らす。
「それは別にいいけど……どっか行くんじゃなかったの?」
「だ、大丈夫です。少しくらい遅れても、連絡しておけば……」
言いながら、背中のカバンから携帯電話を取り出してみせる。女の人に会話を聞かれるのがなんとなく恥ずかしく感じて、メール作成の操作をする。
「それなら、ここで電話しておいた方がいいわよ。森にちょっと入っただけで、圏外になっちゃったから」
「そ、そうします」
1、2時間遅れることを適当に打って、メールを送る。携帯をしまって、女の人に向き直る。
「じゅ、準備オッケーです」
「そっ! それじゃ行こうか。じゃあ、ボクはこれからカメラマンってコトで」
森の入り口の方へ足を踏み出しながら、女の人はさっきのデジカメをぼくの方へ無造作に放り投げた。慌てて両手を伸ばし、それをキャッチする。
「あっ、とっ、とと……わ、分かりました。えーっと……」
女の人に続きながら、なんと呼びかければいいのか困っていると、女の人が首を回して肩越しに話してくれた。
「ワタシの名前は『美馬牛 美瑛(びばうし びえい)』。外国の人には『ビビ』って呼んでもらってるんだけど、ボクなら『美瑛』でいいわ。えーっと?」
「ぼ、ぼくは川尻 早人です!」
「そう、川尻クンよろしくね。取りあえず、このPDA触る?」
「ありがとうございます!」
「ニッヒッヒ」
そうしてぼくと美瑛さんは、森の中へと入っていったのだった。