1. 番長方面
  2. Scenes from the Memories - 目次

Last Modified : 19 SEPTEMBER 2006


もう2年も前になるが、2004年の当時、私はMMORPG「Final Fantasy XI」のプレイ日記を自分のサイト上に記していた。FFXIの実質的なプレイ自体は2003年いっぱいで終えていた為、数千枚残した画面写真と数冊のノートに書き記しておいたプレイ中の記録を元に、プレイ日記を後から書いていったのだった。

私自身、ネットゲームのプレイ日記をFFXI以前にも書いていた。だがその文章を、今の私が読み返すことはまずない。単なる記録でしかないその内容を、今の私が面白いと思わないからだ。その反省、そしてとあるネットゲームのプレイ日記の影響から、私は続いて記すことにしたFFXIのプレイ日記を、より質の高いものにする意気込みで作成し始めた。

そのプレイ日記が独特の展開へ移り始めたのは、結果的に丁度半分、プレイ期間にして半年を過ぎた辺りからである。その頃から私のプレイ方針は、「プレイの終わりを目指す」形になったのだ。プレイ日記の中で「天国」と表現した「終わり」の形。それを追求する遊び方、そして「天国」までに至る過程を記すこととなった私のFFXIプレイ日記。それはそれ故図らずも、他ではあまり見られないプレイ日記の内容へと変わっていくこととなった。

多くのプレイ日記は更新がぷつりと途絶えてしまったり、ゲームに飽きていく過程が微かに記されたりする程度で、終わりの部分はそれ程丁寧に書かれない。対して私のプレイ日記は、日記全体の半分を費やしてゆっくりと記されることとなった。実際のプレイ終了から半年以上遅れてしまったものの、日記を最後まで書き終えられて、その時私は大きな満足感、充足感を得た。

だがもう一方で、「終わること」に執着したような自分のプレイスタイルにちょいとした疑問も抱いていた。与えられたストーリーをなぞる、レベル上げとクエスト三昧の画一的なプレイスタイルを嫌ったというのはある。しかし別のプレイヤーとは違うプレイスタイルでも、ゲームは遊び続けていけたのではないかと思ったのだ。

私なりのストーリー……過程を追求したその先の、私独特の終わりを刻みたかったのは確かだ。だがそれとは別に何か感じていた、「終わらなければならない」という微かな強迫観念のようなもの……。プレイ日記の中にそれを、漫画の台詞を引用して残している。

終わりのないのが『終わり』

「ジョジョの奇妙な冒険」第63巻、ジョルノ・ジョバァーナの台詞より。

同じゲームをただ漫然と続けること。それが「永遠に堕ちていく」ことに繋がるという恐れを、私はあの時に感じていたのだ。


「姿を見せなかった者」……長くノートを介して会話を続けた者との付き合いは、その後普通に顔を見せ合う形で続いている。彼女は私よりもUltima Onlineにおける生活が長く、また狩りによるレアアイテムの収集だけに囚われないプレイスタイルから、この世界・ブリタニアにおける知識を実に多く持っていて、むしろ「知らないように」プレイしている私をいつも楽しませてくれる。ある日は森の中で灯り続ける1つの焚き火の話を。ある日は大木が円を描くように立つ奇妙な場所と、その存在理由に関する彼女個人の持論を。

そういった場所を教えてもらうとき、大抵は「どこそこから北へ行った辺り」という感じに大まかな情報を彼女は教えてくれる。詳細に教えてくれることはあまり無いし、私もそこまで聞くことはない。

この世界の大抵の場所なら、「ルーン」に位置を記録することが出来る。ルーンを地面に置いてもらってそれに瞬間移動魔法・リコールを唱えれば、情報など聞くこと無しに直接その場所に飛べるのだ。だが彼女はそれをしないし、私もそれを求めない。分かっているのだ。結果だけでは物足りないということを。結果に辿り着く過程も含めて味わった方がより楽しめる。そういう者同士であることを、お互い理解しているのだ。


とはいえ、直接2人でその場所に出掛けることもある。特にその時、その場所が存在しているかどうか怪しい場合などだ。それは「家」。プレイヤーが所有し、自由にカスタマイズしている家を見に行くときなどである。

この世界から首都・ブリテインが無くなることはないだろう。初心者の生まれる町・ヘイブンなんかもそうだろう。ユーのように緑地から沼地になり、また緑化した特殊な例もあるのだが、このゲームの歴史上で町が無くなったことはない。だがプレイヤーの所持する家は全く逆だ。建てられては消え、また別の者がそこに建てる……そういったことが世界の至る所で繰り返されている。

家が消える理由は様々だ。持ち主がゲームを止めた為。別の所に引っ越した為。プレイヤーは1つのアカウントにつき1つの家しか建てられない。小さな家ではアイテムをあまり多くは保管できない為、ゲームを進めていく内により大きな家を持ちたくなるのは自然な流れなのだ。家にNPCの売り子であるベンダーを置いて商売を始めると、都市の近くのように売り上げが上がりそうな立地条件の良い場所を求めることもあるだろう。

そうやってこの世界では、プレイヤーの動きに合わせて景観が変わっていく。私は今の家にかれこれ2年住んでいるが、その間に周囲の隣人たちも色々入れ替わった。特に知り合いになった訳ではないのだが、見慣れた家が無くなったり、新たな住人がそこに家を建てたりすると、季節の流れを感じてちょいとした感慨に浸ったりする。

ある日、「珍しい服が取り揃えてある」という話の家に連れて行ってもらったときも、私と彼女はその感慨を覚えることとなった。首都・ブリテインから西へ、山の中の一本道を越えていった先の三叉路にあったその家は、まだそこにあったものの幾分寂しげな様子になっていた。「ああー……」と力弱い声を漏らしながら彼女がその家に入っていく。私も自身の記憶を辿りながらその後に続いた。

というのも、彼女に教えてもらったその家は、実は私がまだゲームを始めて間もない頃に、流浪の末に辿り着いて買い物をした家だったのだ。派手ではない地味な紫色の服がずらりと並んでいて、私は喜んで数枚の服を購入した。まだベンダーから買い物をすること自体が新鮮な頃で、そして首都近郊の分かり易い場所にあるそこは、私の印象に強く残っていた家だった。

改築の途中なのか放り出したのか、壁も満足に付いていないその家。数人居たベンダーも僅かに一人きりで、売っている服も残り僅かだ。そんな寂しい家の中で、彼女と2人しばし思い出話をした。


2年半ほど前にUltima Onlineを始めて、当時同じように始めたばかりのプレイヤー2人と私は仲良くなった。その後よく顔を合わせ、一緒に遊んだこともあるその2人は、今は別のオンラインゲームを主に遊んでいる。UOを止めた訳ではないのだが、ログイン頻度は随分落ちている様子だ。一方で、私は未だUOのみプレイしているが、やはり同様にログイン頻度は春先から落ちている。生活リズムが変わり、あまり夜にゲームを遊ばなくなった為だ。同じゲームを2年もやっていれば新鮮味も薄れるし、プレイヤー個人個人の周辺にも変化はあるだろう。それらの移り変わりは、ごく自然なものであると考える。

確率に基づき幾らでも生成されるゲーム世界の道具。それはアイテムだったりNPCからの依頼であったり、狩り場のモンスターや世の支配を企む魔王だったりするが……多くの場合失われることのないそれらは、「終わりがない」という変化のない状態、すなわち『終わった状態』にある。そんな中で変わっていくのは、季節とともに変化を続ける筈のプレイヤーである。だからゲーム世界の中から人が去っていくのはごく自然なことで、それに合わせて家が消え、また建ち、そうやって景観が変わっていくUOの世界を、私はとても自然で素敵なものであると、とても愛おしく感じている。

以前「旧UO時代の話」に触れたとき、私はUOのプレイ終了を意識した。Final Fantasy XIを終えるとき、そして終えた直後、私は大きな喪失感を伴う非常に強い感情の動きを覚えた。だが今は、終わることに対する抵抗感は無い。いつかUOを終えるとき、今度は特に失う気分もなく、落ち着いてごく自然にその世界を去ることが出来るだろう。何故なら今の私は知っているからだ。プレイの終わりが、そのゲーム世界で培ったもの全ての終わりを意味するものでないことを。

人は考える。考えて、より良くしようと変えていこう、変わっていこうとする。変わっていくのは自然なことで、それが考えて選んだ先であるのなら、より良いことだ。「出来るからやる」「楽しいからやる」「そうなっているからやる」「用意されているからやる」……そこには思考がない。「自らを由とする」と書いて自由。由とする、とは拠り所とする、ということ。つまり自由とは、自身の中に「根源を持つ」ということ。「自由だからやる」……そういった思考無きもの、根源無きものは、自由ではないのだ。与えられるもの、与えられる終わりを求める者は、自由ではないのだ。

FFXI、そしてUOのプレイを通して思ったことは、「終わりの形」……「天国」は自らの中にあり、「終わっても続くもの」はゲーム世界の外側にあるということだ。ゲームを止めても私はここに在るし、ゲームの中で会えなくなる彼らもまた、この現実世界の何処かに在る。ゲーム世界の中にあるものは所詮はデータ。現実世界の我々を結ぶ為の、虚構の道具に過ぎない。だからむしろ、終わることで無くなるものなど、何一つ無いのだ。いや、そもそも……。

最近私は、以前と少し考え方を変えた。「終わっても続くもの」を求めてきたが、そんなものはそもそも無いのだ。「終わるものなど何も無い」のだ。全ては時の流れと共に変わっていくもの。ゲーム世界の中では変わっていないように見えても、その向こう側は……こちら側と同じように……季節と共に移り流れていっているのだ。ゲームを止めるとか止めないとか、そんなものは些細な区切りの1つでしかないのだ。

全ては絶え間なく変わっていく。その変化の方向をどうすれば良い方へ向けることが出来るのか。我々は自由を以て考えるしかないのだ。


Ultima Onlineで不動産業を営む知人が言うには、この世界では春頃に消える家が多いのだという。卒業・入学や入社など、新たな生活を迎える者が多いからだろうという話だ。

ゲーム世界・ブリタニアで、朽ち行く家を見ながら考える。単なる引っ越しだろうか、それともゲームプレイの終了だろうか。もし後者なら、この家のオーナーは生活の中で何かの区切りを迎えたのだろうか。生活の変化に相対しているのだろうか。

良い方に転がるといいねと、家の「向こう側」を少し想う。

  • 初出 : 2006/08/12
  • 改定 : 2006/09/18

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