Last Modified : 18 JUNE 2006
私の父は、外面は良いが家庭は駄目、というタイプの男だった。知り合いや仕事相手との電話のやり取りを見ていると、明るく大きな声でよく笑うのが印象的。だが家族相手となると途端に無表情になり、声を発することすら殆ど無かった。発したところでそれは母を軽く怒鳴るような時だった。私や妹が子供の頃からそうだった為、私たちはそういう父を少し恐れて育った。
私や妹が社会人となって家を出て暫く経った頃、何か心境が変わったのか知らないが、父は家族相手にもある程度普通に口を開くようになった。そこで聞くのは明るく大きな声でよく笑うあの声なのだが……どうにもぎこちない辺りが、何とも決まりが悪い。そしてそれは、こちらのぎこちなさも同様なのだ。
子供の頃、父親に親しみを感じられなかったその経験は、特に妹に深く残っている。父と妹が会話をする光景を覚えていないし、今も妹が父を良く言うことは無い。私たちに対して柔らかな表情を見せず、話もしなかったのだからそうもなる。私も父のそういった面は、反面教師にしている部分だ。それは家族としてとても悲しいことではあるが……それが父の残した結果である。
そんな父が数年前私が帰省した折に、初めて見せたものがあった。数日過ごした実家を後にしようと私が玄関に立ったとき、そこで見送る父の目には涙が浮かんでいたのだ。
「そんな感情があったのか!?」
「今頃そんなものを見せられても!」
その時私は、酷く困惑した。
Ultima Onlineを始めとして殆どのMMORPGでは、ゲームのスタートは町から始まり、門をくぐって草原や砂岩の広がるフィールドへと冒険の世界は広がっていく。陸地をキャラクターの足で駆け、近場の入門用モンスターに刃を突き立て基本的な戦い方を学び、時には敗北を体験したりしつつ、ささやかな経験値と収穫を得るのだ。まぁ、それはMMORPGに限らず、オフラインのRPGにも良く見られる構図である。
冒険の舞台は歩ける場所とモンスターさえいれば、本来必要は無い。まっ平らな床が地平線の向こうまで伸びていても、機能としては何ら問題は無い。無いのだが、感情の無い経験値獲得プログラムではない人間には、それはあまりにも味気ない。だから普通は、山や谷などの起伏や自生する何種類もの草木、重々しく鎮座している巨石など、いかにもそこが「世界」であるようなオブジェクトが存在し、「景色」を作り出している。そんな中で我々は時に青い空を仰ぎ見て、狩りの心地良い疲れを感じたりするのだ。……UOに空は存在しないが。
そういえば昔は、正にそういった味気ない世界で冒険していたのだ。「ウィザードリィ」とか「ブラックオニキス」といったコンピュータRPGでは、まっ平らな床とまっ平らな壁、それだけがプレイヤーに与えられていたビジュアルだった。それを見ながらプレイヤーは、各々が出来る範囲でその世界を想像して、より現実的に補完しながら仮想世界の中へと入り込んでいったのだった。閑話休題。
景色を作り出すオブジェクトの中で、比較的大きなものに「川」と「海」がある。水の流れるその場所はキャラクターの入り込めない場所……障害物になっていることも多いが、浅い部分には浸かることが出来たり、ゲームによっては泳ぐことすら出来るようになっていたりもする。そういった場合の狩場としては、陸地とは異なった性質を持つ、魚系のモンスターが配置されているのが通例だ。
そして水に満ちたその場所は、狩場以外の目的にも使われる。生産の一要素、「釣り」の場所としてである。
釣りといえば私自身の経験は、小学生の頃に親に連れて行かれたことがあるくらいで、中学生以降に体験したことは全く無い。今やるとしたら、針に餌となる虫を付けることや針を咥えた生きた魚に触れること自体が怖くて、まともに出来ないのではないかと思う。微かに残る記憶の情景の中、幼い私は虫を沢山の針に取り付けて、一度に5〜6匹も連なって釣れる魚を嬉々として掴んでいるのだが。
後に学校で、この釣りの体験を作文に書いた。持ち帰り、母に揚げてもらったその魚はとても美味しかったのに、文の最後では「だけど頭はちょっと苦かった」なんて形で締めて「落ち」としたのだった。昔から私は格好付けだったのだなぁと、作文のことを思い出しては苦笑するのだが……そうやって文章にしておいたお陰で記憶はより確かなものになり、私は今もこの体験を思い返すことが出来るのだろうと思っている。
1年1ヶ月余りに渡るFinal Fantasy XIの生活の中で、私はよく釣りをして過ごした。当時の釣りは操作が単純で、友人やその場で知り合った釣り仲間などとチャットを楽しみながら遊べる手軽なものだった。竿や餌、そして場所や月齢など、釣果を左右する要素は多岐に渡り、魚の種類自体も相当に豊富だ。単純ながらじっくり楽しめるものになっていたと思う。
だが単純故に、それは人間でなくても出来るものだった。簡単なプログラムでも釣りは出来た。そして魚は売ればお金になる。結果、所謂BOTと呼ばれる外部プログラムを使う者が多く現れ、それを抑止する為に竿を折る「外道」が増えた。安い竿はそれにより使い物にならなくなった。私がFFXIを止めた後では更にゲーム性を高めることも兼ねて、より操作が必要となる変更が加えられたという。ゲーム性を重んじるFFXIらしい変更かなとも思うのだが、私がかつて体験したような、話をしながらののんびりした釣りは難しくなってしまったのだろうかと、傍で聞いて少し寂しく思ってしまった。
ところでUOの釣りはもっと単純だ。安い釣竿……これは1種類しかない……を買えばそれで全て事足りる。餌など無い。竿を手に持ち、ダブルクリックしてから水面をクリックすれば、後は勝手に釣り上げるのを待つだけだ。魚の種類も色違いの「fish」が数種類と、小魚がいるくらい。まぁ、靴やら釣り上げることも良くあるが、FFXIの釣りと比べると随分味気ないなと、初めて試した頃は残念に思ったものだ。
ただ、やはりUOらしい自由度と雄大さを感じたのは、海にもまた自由に繰り出せるところだった。
FFXIでは、海を渡るには定期船を利用するしかなかった。それは決まった路線を自動的に行き来する乗り物で、プレイヤーはそれに乗って時間が過ぎるのを待つしかなかった。海釣りも出来るが極めて強力なモンスターが出現することもあり、またそれらから特別なアイテムが入手できることもあって、「狩場の1つ」のような場所でもあった。
対してUOの海は、プレイヤー各々が購入した船で好きなように移動できる、自由で広大な空間である。船は少々値が張るが、収穫のインフレが進む現在は、乗り捨ててもそれほど痛くは無い程度の物。そして一度に何人も乗り込めるので、集団での行動も可能だ。例によって「Forward」「Turn left」「Stop」「Drop anchor」などと声で船頭に命令を出すことで、真っ青に広がる大海原を正に思うままに旅することが出来るのだ。
UOでは魚を刃物でさばくと切り身となり、これは私がいつも握るお寿司の材料となる。FFXIとは異なり、魚の種類が少ないUO。どこで釣っても魚は「a fish」だ。だがそれでは味気ないので、私は「どこどこの魚」と意識して使っている。
買い物の際はノートを持ち歩き、魚を買った日付と町の名を記しておく。そうして作ったお寿司を誰かに味わってもらうとき、「今夜のお寿司はスカラブレイの魚ですよ」などと伝えるのだ。するとこれは時折、「スカラブレイと言えば、あれあるでしょ……」とか「あそこか懐かしいなー、昔よく行ってた」という風に、相手の記憶の中から何かを引き出して、話を膨らませる切っ掛けとなったりすることもある。物は使い様なのだ。
記憶の中……最近になって、私は気が付いたことがあった。そう、考えてみれば、作文に書いたあの釣りに連れて行ってくれたのは、他ならぬ父だったのだ。あの無口で冷たかった筈の父は、休日に私を車であの湖まで連れて行ってくれていた。
まだある。私の家にも野球のグローブとバットがあった。父とキャッチボールを……した覚えがある。夏には何度か、親戚一同と一緒にやはり車で海に行った。春には今よりずっとぼろかった旭山動物園に行くのが毎年恒例だった。オセロにはさっぱり勝てなかったし、早朝の山の中に家族でキノコ取りに行ったことは、同じく小学校で詩にしたのだった。
そこには全部、父もいた。きっとあの涙は、そこから繋がっている。
今、実家に電話をしたときは、いつも父と近況を報告し合っている。何を話題にしたら良いのかなかなか分からず、お互い相変わらずぎこちない感じだ。確かに子供の頃から出来ていればベストであったかもしれないが、例え今からであっても何とかベターにはなるだろう。今お互いに出来ることで今の最善が得られれば、それは決して無駄ではない、遅くは無いと思うのだ。
父の日にはハムやソーセージの入ったビールセットを送った。口に合えば良いのだが。