1. 番長方面
  2. Scenes from the Memories - 目次

Last Modified : 15 APRIL 2006


過去の記録を検索サイトを使って調べても、やはり「昔のUltima Onlineは良かった」という感想が多く、フェルッカとトランメル、2つの世界に割れた要因の記述を探し出すのは容易ではなかった。しかし入力するキーワードを変えていくことで、やがて徐々にそれに近づいていくことが出来たのだった。

当時……2000年3月の「UO:R」、ルネッサンスより前の時代、通称・旧UO時代には大きく分けて3種類のプレイヤーがいたようだ。

  1. 他のプレイヤーを殺すことを主たる活動とするPK(Player Killer)と、それを掃討するのを主たる活動とするPKK(PK Killer)
  2. 対人が主たる活動ではないが、PK等に攻撃を受けた場合には反撃をするプレイヤー
  3. 反撃も含めて、他者への攻撃は行わないプレイヤー

これらのプレイヤーが1つの世界に混在していたのが、旧UOの特徴だ。

そして、世界が割れる要因となった最も大きな要因は、やはりPK(Player Killer)の増加にあるようである。

そもそも頭の悪いプログラムで動くモンスターより、頭の働く人間の動かすキャラを標的にする方がゲームとして面白い。それは他の対戦ゲームの存在でも明らかだ。特にプレイ技術の近いプレイヤー同士が当たった場合、その戦いを通して得られる緊張感と快感は相当なものだ。

もう一方で、格下の相手を蹂躙するように、一方的に勝利するのもそれを好む者にとっては素晴らしい快感に違いない。私が以前プレイしていたネットゲームでも、必要以上に高いレベルで弱いモンスターを集め、一撃の元に粉砕して喜ぶプレイヤーを見かけることがある。それが実在する人間相手に出来るとなれば、彼らにとって堪らない体験になるだろう。

中にはあくまで悪役を演じるのが目的だった者もいるようだが、私が過去の記録を見た中では後者、殺すことの快感が目的でPKをやっている者が多いようだった。

初めてPKをした者がその時強いプレッシャーを感じたという話を幾つか見た。手や身体が震える程の衝撃であるという。だがそれも回数を重ねれば慣れる。手を掛けることへの抵抗は無くなり、気軽に攻撃を仕掛けられるようになるだろう。

被害者側からPKになったという話は調査中によく見かけたが、PKから被害者側に回ったという話は見たことが無い。そうすると彼らが「ゲームを止めない限り」、そのようなPKに抵抗を感じないプレイヤーが、時と共に「世界に増えていく」ことになる。

当時のモンスターはあまりお金やアイテムを持っていない。そんなモンスターを狩るより、モンスターを狩った後のプレイヤーを狩る方が儲かる。そしてそもそも狩られる側、被害者になりたがる者はいない。そういったことから、PKはどんどん増えていったのだろう。


一方で敗れた者はやはり不満を覚える。「やられたらやり返せ」の論理で対抗心を燃やし、対策を練り、プレイヤースキルを上げる者もいる。それが前述の反撃するプレイヤー「対抗する者」だ。

増えていくPKとの遭遇を避けられないのであれば、その対策を講じておかなければならない。人と出会っても騙されないように疑ってかからなければならない。一撃で殺されないように防御や姿を隠すものなど、ある程度の装備やスキルをキャラクターに身に付けさせる必要もある。そしてそれを操作するプレイヤー自身のスキルも上げなければならない。

装備を整え、徒党を組み、プレイヤー自身のスキルを磨き、果てはゲームのバグを利用して本気で殺しに来るPKには、それに対応出来る状態を整えなくてはならないのだ。

私が思うに、それらは「自由」が謳われるUOにおけるプレイスタイルを、少なからず制限するものになっていたのではないだろうか。当時のプレイヤーで実際にすべて PK を第一に考え,個人の趣味は二の次にせざるを得ない、と語っていた者もいた。

Final Fantasy XIは「レベルを上げなければ出来ることが少ない」と批判されることがよくあるが、UOにおける上記のような状態はそれに似たような状況であると私は感じる。1人では対抗しきれないから仲間と組んで出歩かなくてはならないという状況は、FFXIにおいてこれもよく批判の対象となる「パーティ必須」のゲームバランスと同じと言えるのではないだろうか。

PK行為がプレイヤー間のトラブルの解決策として働くという話を良く聞く。何か気に入らないことをされると他のゲームでは口で文句を言うことだけしか出来ない。それ故言葉を無視する者が幾らでも嫌がらせを出来るという形になる。だがPKの許容により、相手に直接攻撃が出来ることでその抑止力になる、というものだ。だがこれもあくまで「自分が相手より強いとき」であり、返り討ちにされるようではもうどうしようもない。

PKと対抗者により頻繁に行われ、高度化していく戦闘。その高度化についていけない者は、勝利の快感を得る為に自分より弱い者を標的とする。その格好の対象となるのは、戦いの技術が低い者や戦う意思の無い者、そしてゲームを始めたばかりの初心者だ。無抵抗に殺され続ける者、そして訳も分からない内に殺され続ける初心者。文句を言っても返ってくるのは「やり返せば良い」「対策を取らないほうが悪い」という言葉だ。

「ゲームで出来ることだから、やっても良いのだ」と自由を謳う声。敵わない技量。望むように遊べない窮屈さの中で、敗北の役を負う者は我慢を重ねていくことになる。


日々のプレイを刺激的にするPKや泥棒とのいざこざも、頻度が高まると苦痛に感じる者も多くなる。安全な町やダンジョンの出入り口は当然多くの PKの標的となる。町を出ると死体の山、いつ行ってもPKがいるのでは行動もままならない。実際、町をPKで包囲されて出られないという事態もあったらしい。

対抗心を燃やす者がいる一方で、そうはならない者もいる。根本的に他者との戦いを好まない者だ。生産をやりたい者、モンスター相手の冒険者というところだろうが、そういった者はPKの被害に我慢して過ごしていくことになる。だがそれも、害を被る頻度が高まってその限度を超えるまでの話だ。

ゲームを始めて2週間、PK地獄からぬけられずに(中略)脱落したと記す者がいた。UOR(UOルネッサンス)導入の為、UO復活、とトランメルが出来たお陰でUOのプレイを再開したと記す者もいた。我慢出来ない者も当然いたのだ。

敗北する役目の者が我慢をしながら過ごしたのは、「その場に居たい」からなのだ。その場に魅力を感じるからある程度の不都合は許容出来るのだ。そして特に旧UOの場合、「その場」……そういったゲームが他に無いという時代的な背景があった。

UOは世界初のMMORPGと言われる。実際には「Meridian59」などが先にあったらしいが、UOは特にメジャーになったゲームであるようだ。今のように多くのMMORPGが運営されていない時代、ネット上の「世界」はごく僅かに限られていた。

狩られる者が我慢を持続させた理由。それは他に「生きる世界」が無い為だ。そこに留まらざるを得ないから耐えたのだ。

それは現実の世界と同じだ。もし殺人や事故、疫病や戦争の無いもう1つの現実の世界があったなら、何らかの制限があったとしても人の多くはそちらを選ぶのではないだろうか。それが出来ないから現実の人間は不平不満を抱えつつも生きていくし、耐え切れない者は世界からの脱出……死を選ぶ。

PK、対抗者、そして弱者。これらの要素が現実と同じように1つの世界に「存在せざるを得なかった」から、あの生々しい、濃密な「旧UO」の世界は成り立ったのだ。様々な要素の混在する世界、それが現実味のある「旧UO」の面白さだったのだ。


我慢の限度を超えた者は、世界からの脱出を選ぶ。前述のケースのように、UOを止めるということだ。時が経ち、PKの存在しない「Ever Quest」等の「もう1つの世界」が登場し始めた。UOの世界だけに固執する必要は無くなったのだから、その選択は取り易くなった。

そしてUOの世界はただ存在するものではなく、会社がより多くの収益を得る為に運営するものだ。収益が落ちるような、伸び悩むような状況を良しとは出来ない。我慢出来る者にも出来ない者にも、多くのプレイヤーに居てもらえるような場所を作ろうとするのは当然の流れだ。

フェルッカとトランメル、「UO:R」において世界が割れたのにはこういった流れがあったと私は理解した。そういった理由があって、こういった結果に繋がったのだ。

「古き良きUO」を「奇跡」と言っていた者がいた。多種多様のプレイヤーが他に選ぶ世界がないという条件、多くのプレイヤーが同じ場所を共有するという、ネットゲームにおける初めての体験、それらが組み合わさって成り立った奇跡的な出来事だったのだ。

だからこそ、今にその時代のUOを復活させても同じ「良きUO」は戻らないだろう。今は選択できる「他の世界」が幾つもある。旧UOを作っても、それを望む者しかそこには残らない。それでは以前のような、多種多様な者のいる世界は生まれない。ネットゲーム自体、今や珍しいものではない。プレイヤーたちがネットゲーム世界での付き合い方を模索することももう無い。

自分の中で、そういった結論にほぼ固まりつつあった時、次のような文章を見つけた。

151 名前: 名無しさん 投稿日: 02/05/25 14:11 ID:r8XbOtfM

UOは初のMMORPG。
だからPKが嫌いな人も外国人もなにもかもUOをプレーした。
だから面白かった。

今はいろんなゲームが出て来て(UOの中ですら仕様が分かれる)
各自があったゲームを選べるようになった。
結果分散化が進み、UO初期のような多種多様な人間が集まる
ゲームがなくなってしまった。

4年も前の文章だ。私がネットゲームを始めて間もない頃に、既にそう考えていた人はいたのだ。

季節は流れ過ぎていく。初めて触れる、驚きと希望に満ちた黄金の時は、我々にはもう二度と戻らない。


大混乱の中、結局バッグボールの大会は中止となった。それはバッグボール初心者の為の大会であり、その場には初めて観戦しに来た者も多くいたようだったので、私は暗い気分になった。当日の大会前にも、複数の関係者がヘイブンの町で勧誘を行っていた。それらの努力が水泡に帰するのかと、私は残念に思っていた。

それから1週間ほど経った夜、ヘイブンの宿屋の前にはカラフルな布が敷き詰められ、テーブルが置かれ、ちょいとした部屋のような空間が作られていた。その場の話に参加してきた、3人の者たちが作り上げたのだ。

彼らとの会話の中で、先週のバッグボールの大会が話題に上がった。この間の大会で「はじめてやりました」というその方は、中止される前に試合に出ていたのだという。

「見たりするのもはじめてだったんですけど」
「ほおお」
「あれは面白いっすわ」
「うんうん」
「はまりました」
「ねw」
「うんw」

そういって笑い合うその方達を見て、私はほっと安堵した。良かった……。彼らの……バッグボール運営者達の努力は、決して無駄にはなっていなかったのだ。大会は中止となった。ベストの結果には至らなかったが、ある程度の結果は手に入れられたのだ。

出来ることだからする。自由だからする。……そこには思考がない。行った結果、何が起こるのか。それは良いことなのか、良くないことなのか。その判断を基に行う方が、より良い結果を導くものと私は考える。そうすべきであると私は思う。

ベストでなければ無意味だとは思わない。ベストを目指しても自分や周りの状況がそれを許さないことが殆どだ。ならばベストを目指した上での、妥協としてのベターを選択するのもありだろう。

古き良きUOの世界はもう無く、今の世界における行いはベストには至らないかも知れないが、ある程度の、ベターとしての結果を得ることは出来るだろう。

先日、別のMMORPGから移ってきて2日目だという2人組と出会った。

「私はこっちの雰囲気のが 好きだなぁ^^」
「ほのぼのと してていいよね〜」

どうやら2人とも、UOの世界を気に入ってくれているようだ。様々なスキルを楽しめるUO。その魅力をお寿司を渡し、狩りをせずに1年ほど過ごしていると言うことで私なりに伝えてみた。

「そのうちいろいろな 仕事もしてみたいですw」
「だから今日 ラベンダリスさんにお会いできて」
「また広がった感じですw」
「ニヒヒ」

今ある世界で、今出来ることを。それが「今」に生きる私の役目であり、今得られる最善……ベターな結果に違いないと思うのだ。

  • 初出 : 2006/04/10
  • 改定 : 2006/04/15

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