1. 番長方面
  2. Scenes from the Memories - 目次

Last Modified : 15 APRIL 2006


爆音。すぐ脇を飛んでいく電撃。制止を呼びかける声、諦めの溜め息。立ち尽くす者、当ても無く迷う者。地面を蹴る重々しい音を立てながら、人々の間を駆け抜けていく軍馬。それを追う竜。討たれ、死骸を晒す者と、その幽霊。酒場の台は斧で壊され、主人は弱々しい声を漏らしながら慌てて商品を懐にしまい込む。そんな事態を傍観しながら冷やかに笑う盗賊。

フェルッカ、ブリテイン郊外のバッグボールコート。その夜開かれていた大会は数名の乱入者により妨害され、今や混乱の極みにあった。観戦に訪れていた私はその中で、今や残骸となった酒場の椅子に1人座って、自らの感情と戦っていた。

……彼らが「それ」をする自由は認めなければならない。何故ならそれは「出来ること」だからだ。自由を奪う行為は自らに跳ね返る。だから認めた上で、するべきではないと説得しなければならないのだ。気分は悪い。確かに悪いが、その感情を理由としては……少なくとも自分はそうしてはならない……!

自らに、そして友人に飛んでくるやも知れぬ乱入者の刃を警戒しながら、私は胸の中に渦巻く感情をそうやって抑え付けていた。


Ultima Onlineで普段私が過ごしているのは「トランメル」という世界。そこは他のプレイヤーに対する攻撃など、ネガティブな行為がシステムで出来なくなっている平穏な世界だ。もう一方、バッグボールコートが存在する「フェルッカ」はそれらが容認され、人を殺すPK(Player Killer)や窃盗(Stealing)スキルを持った泥棒が活動できるスリリングな世界である。

とはいえ、殺されたり所有物を取られたりするのを受け入れられるプレイヤーは多くない。現在のプレイヤーの多くはトランメルで活動しているようだ。フェルッカはトランメルより豊富な鉱石や木材の資源量、人が少ない故の家建築用の空き地の多さ、そしてフェルッカでしか入手できない強力なアイテムの存在などのプラスの面も多い。その為トランメルからフェルッカを訪れる者はよくいる。だが「トランメルでしか遊ばない」私のようなプレイヤーは多いだろうが、逆に「フェルッカでしか遊ばない」プレイヤーは決して多くは無いだろう。

元々この世界は、2つに分かれてはいなかった。フェルッカに近い、他者への干渉が自由に出来る世界「だけ」があり、プレイヤーは全てそこで共存していた。それは「旧UO」「昔のUO」と呼ばれる時代のこと。もう6年も前までの話だ。

「UO:R」、ルネッサンスと呼ばれる大きな変化がその時、2000年3月にあったのだ。


UO:Rから6年も経つ今でも、旧UOを懐かしむ人の声をネットの掲示板などでよく見かける。

例えば戦闘のシステムについては、アイテムの性能がまず重要である現在のゲームバランスに対し、昔はプレイヤーの技量が大きく反映されるものだったという。プレイヤー同士の戦いでは、大して強力でもないアイテムしか持たない1人の者が、数人、果ては数十人の相手と戦って、勝ち抜いていくという大立ち回りを演じることもあったという。またモンスター相手の戦いでは、防具を殆ど着けない裸キャラでも非常に強いモンスターを倒す遊びが出来たようだ。

UO:R以降、武器や防具に付与される効果がどんどん高まっていった。防御力や体力が高まった分、武器やモンスターの攻撃力も高まっている。各種のスキル値も一律上限100までだったのが、パワースクロールというアイテムの登場により最大120まで上がるようになった。それらは技量ではどうにもならない要素、数値の戦いだ。他のゲームでも良くある「パワーのインフレ」である。

パワースクロールはフェルッカのダンジョン、Doomにいるボスキャラが落とすアイテムだ。Doomでは他にも強力なアイテム・アーティファクトが入手できる。より良いアイテムとパワースクロールを求めて、プレイヤーはモンスター狩りに興じる。他のゲームでも良くあるレアアイテム収集だ。

人対人ではなく、人とモンスターの戦い。仲間以外の同じ場所にいる他人は、倒すべき敵ですらない、資源を奪い合う邪魔者にしかならない関係。アイテムを中心とした利己的な関係性を私はそこに見る。

旧UO時代の話を聞いていると、出てくる話題の内容が現在と随分異なるのを感じる。今と同様に何処何処の何というモンスターと戦い、これだけの報酬を得たというものも勿論あるのだが、そこに絡んでくる他のプレイヤーとの係わり合いがとても生々しいのである。

なんといってもまずPKだ。町の外、ダンジョン内部など、移動や狩りの「日常」をスリルある非日常の中へと、PKの存在は急展開させる。あっさり倒されてしまったり、瞬間移動魔法による避難に成功したり、ひたすら走って逃げ回ったり、反撃に転じていったり。対処方法も様々だ。

移動中、行く先に死体がごろごろ転がっていたり幽霊を見かけたりして、PKの存在を感じ取る。先客が「PKが来ているから気をつけろ」と警告を発している。その場にいた知らない者たちで団結し、PKに立ち向かっていったり、仲間たちが応援に駆けつけたり。

それらのエピソードはどれもそれぞれのプレイヤーが生き生きと、ドラマチックに描かれている。それは何より、登場する敵も味方も皆、人間だからこそである。プログラムによる画一的な動きをし、個性を持たないNPCではないのだ。皆がそれぞれの性質、それぞれの考えの基に動く。それは用意されたシナリオに沿った動きではない。だからこそ生々しい。

また、当時は各スキルの上がり方も相当遅かったようで、今のように色んなスキルを持ったキャラを何人も作るというのは難しかったようだ。今は戦闘用・生産用など、自分でキャラを揃えて自分だけで完結させることも可能だが、当時は大切な武器の修理を生産用キャラを育てているプレイヤーに託すというのが自然と行われていた。入手できるお金やアイテムも今とは段違いに少なかったようだから、生産職の存在は今よりずっと重要だったのだろう。

モンスターから利益を細々と得る一般の冒険者。彼らの上前をはねて多くの収入を得る代わりに、PKK(PK Killer)に狙われ、町に入れず、生産者の恩恵を得にくいPK。冒険者たちの信頼を得、彼らと安息の時間を過ごし、時に彼らに守られる立場となる生産者。

「毎日何らかのイベントが生まれていた」と、旧UO時代の話ではよく語られている。彼らがありのままであることが、自然とその世界での「役目」を演じさせていたのだろう。そこには今の時代でもある「なりきり」とはまた別の形の「ロールプレイ」の姿がある。それは何と、魅力的な世界であろうか。


数日に渡ってこういった「旧UO時代の話」をネットで漁って読んでいるうち、私の中で急速に膨らんでいった感情があった。それは「徒労感」である。

旧UO時代を語る者には今のUOを嘆き、中には蔑む者もいた。確かに今のUOには、あの自然と成り立った「ロールプレイの世界」はない。他のゲームと同じく、機械的にモンスターを倒し、お金やアイテムを収集する要素が非常に強いゲームになってしまっている。生産者と冒険者の係わり合いも無いに等しく、それを残念に思うのは私も同様だ。

私は生活の中で自分の役目を探し、それを果たす為にこのゲームをやっている。だが「ロールプレイの世界」でない場で行っても、それは無意味なことなのではないか。無価値なことではないだろうか。無駄に時間を浪費しているのではないだろうか。だとしたら……

『このゲーム、止めるべきではないのだろうか』

重苦しい圧迫感を胸に感じる程に、私は思い詰めていた。それは1年前にラベンダリスのスキル上げがほぼ完了して「やることが無くなった」と感じたとき以来の、「プレイの終了」を意識した瞬間だった。

……だがちょいと待て。疑問がある。それ程魅力的で楽しげな「ロールプレイの世界」は、では何故今は存在しない? 皆が楽しく遊べる場なら、今もあって膨らみ続けている筈ではないのか。1つだった世界は何故トランメルとフェルッカの2つに割れた? PKや詐欺などがあったからと聞いているが、それらは「ロールプレイの世界」の構成要素だ。もっとはっきりした理由がある筈だ。

まだ納得する訳にはいかない。結果には理由がある。理由はきっと、何処かに残っている。それを見つけなければならない。

以前ネットで見かけた、次のような言葉がある。

『時の歩みは三重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のようにはやく飛び去り、過去は永久に静かに立っている』

私はこの過去の記憶を、6年前に立つ者の恨みの視線の様に感じていた。

To be continued to Next Scene.

  • 初出 : 2006/04/04
  • 改定 : 2006/04/15

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