1. 番長方面
  2. Scenes from the Memories - 目次

Last Modified : 12 APRIL 2006


その夜Ultima Onlineにログインして友人の家に行ってみると、そこのギルドメンバーが既に数人集っていた。早速私も話の輪に加わったのだが、その中に1人、いつもの明るい調子では無い者がいた。

「お気に入りのサイトが閉鎖されたらしく しょげてるらしい」

その理由を友人が語った。

「何のサイトなの?」

別の者が尋ねると、しょげ返っている当人が答えた。

「ネトゲマンガの有名さんだよ」


ネットゲームを題材にした漫画のサイトは数多いが、UOを元にしたサイトは群を抜いて多い。サービスが始まって既に8年を越す、長い歴史が一因だろう。それだけの期間、数多くのプレイヤーがUOに触れ、関わってきた。記憶を漫画として残す者は、プレイヤーの数に比例して多くいた筈だ。

だがそれだけではなく、他にもUOならではの「要素」が創作者の心に働きかけてきたに違いない。私はその要素に「ゲームの多用性」と「グラフィックの貧弱さ」、そして「各個人個人の物語」の3点を考えている。

モンスターとの戦いだけではなく、多岐に渡る生産活動や家での生活、個性を発揮できるファッションや魔法、多彩なスキル。ゲームの中で出来る様々な行動は多種多様なエピソードを生み出す為、話のネタには事欠かない。

そして全キャラほぼ共通で個性の無いの顔の絵や、画面上で小さくしか表示されないキャラクターの姿は、それ故プレイヤーの想像を駆り立てる。画面に描画されるグラフィックからではなく、むしろ各プレイヤーの行動や発言といった個性を元にして、プレイヤーの心の中にそれぞれの情景が生み出されるだろう。そこにはテーブルトークRPGから受け継がれた「想像遊び」がある。

更にUOには、プレイヤーが通らなければならない「決まった道」「用意されたシナリオ」は無い。レベルを上げるのにクリアが必須なクエストとか、見なくてはならないイベント。更にその中で強い個性を発揮する、「格好良い」「可愛らしい」という点でプレイヤー間において人気を分けるようなNPCは存在しない。あくまで主役は各個人だ。各人が歩んだ各人の道を、各創作者の手が描くのだ。


教えられたサイトにアクセスしてみると、確かにサイト閉鎖を伝える文章が表示された。絵を見て思い出したが、そのサイトの漫画は私も以前読んだことがある。絵も綺麗で内容も面白かった。またかなり有名なサイトの筈だ。このサイトが閉鎖されたとあっては、この知人の様にしょげ返る者は他にもかなり多いだろう。

だがその日はある「特別な日」だった為、私は知人を慰めながらサイトの記述を注意深く調べた。そして末尾部分に違和感のある一節を見つけ、ある確信を得て時を待った。深夜の0時を回ったところでキーボードのF5キーを押し、Webブラウザの表示を更新して考えが間違っていなかったことを確認した私は、知人が気落ちしたままログアウトしようとするのを急いで呼び止めた。

「あ!」「ほらきた!」
「?」
「エイプリルフールだった!」
「先のサイト!??」
「日付変わって 更新されてます」
「なに!」

先の漫画サイトの閉鎖。それは4月1日に行われた、嘘のパフォーマンスだったのだ。


今回の場合閉鎖は嘘で、すぐに以前のコンテンツが復活した。だが一方でゲームをプレイしなくなったから、もしくは更新する気がなくなったからという理由で、ゲームのプレイ日記等がネットから消されることは時折ある。

人は時として、必要のない二者択一をする。

プレイしなくなったからといって、過去の記事は朽ち消えることはない。更新できなくなったからといって、過去の記事は価値の全てを失いはしない。その内容が時事ネタであれば、時が過ぎることで実質的に役に立つこともなくなるだろうが、それでも過去を懐かしむのには使えるだろう。昔のゲームを語るサイトは今でも多くあるものだ。

文章は誰かに読まれた時点で作者の手を放れる。書き終えた時点で作者にとっては「終わった」ことかも知れないが、文章とその読み手にとっては読まれた時点から始まって「続いていく」。終わっても続いていくのだ。

人は文章は一度切りしか読まないものだろうか。そんなことはない。気に入った文章は読み返すだろう。例えその文章が更新されなくとも、読み手は何度でも繰り返し読んで、何度もその中身を噛みしめ味わうものなのだ。

私の自宅の本棚には、お気に入りの漫画や本、CDやDVDが並んでいる。私はそれらを何度でも読むし、観るし、聴く。それと同様にネット上にある文章も、気に入ったものはWebブラウザのブックマークに入れて何度でも繰り返しアクセスして読む。更新されているかどうか、ネタとして新鮮かどうかは重要ではない。そこにあるその文章が、価値を有しているから読むのだ。それが既に私の心を揺さぶるものであるから読むのだ。そしてそれを自分の中に強く染み込ませる為に読み返すのだ。

誰かに気に入られ、愛された文章を、作者といえどもその都合で抹消するのは、良い行為とは思えない。罪の無い文章とその読者を、軽々しく作者の道連れにするべきではない。ネットが世界で共有される本棚だとしたら、自分で書いて入れた本を勝手に処分していいものだろうか。もしかしたらその本の表紙には、誰かが何度も手にした手垢が付いているかも知れないし、その何処かのページには、誰かの思いのこもった折り目が付いているかも知れないのだ。


サイトの閉鎖が嘘だと分かった後でも、知人の落ち込みは解消することがなかった。

「更新しなくなっても 残しておいてほしいものですね」
「うん・・・」「凹り」「凹り凹り」
「凹んでるらしい」
「もうナベだったら使い物になりません!」
「あはは」
「あーいいや」「サイトがあるなら いいや」
「元気出してくださいねー」
「自分の浮き沈みなんて」「どーでも・・・」

そんな知人の様子を見て、改めて思った。

文章を気に入ってくれた人に、感謝の気持ちを持とう。文章を気に入ってくれた誰かの気持ちを、最大限に尊重しよう。いつか誰かに愛されるかも知れない文章を大切に。

そしてそんな文章を書けるように。

  • 初出 : 2006/02/23
  • 改定 : 2006/03/14

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