1. 番長方面
  2. Dulcet Wind
  3. ドルシネア・ダイアリィ 第四部・目次

Last Modified : 27 AUGUST 2004


Heaven's Door

扉を開けて、モグハウスから外に出る。眼前に伸びる石造りの階段。その階段を一歩一歩下りていくと、陽光降り注ぐウィンダス・森の区に下り立った。風にそよぐ赤い頭髪と長い尻尾。その猫女……ミスラの名は「ヘブンスコープ(Heavenscope)」。「天国を覗く者」、「天国鏡」……転じて「天国を映す者」。

画像・ヘブンスコープ。
森の区の広場に飾り付けを発見。どうやら今は端午の節句のイベント期間らしい。

二月の上旬にちょいとした都合があり、このヘブンスコープを作成してヴァナ・ディールにログインしていた。勿論ログインするためにはFFXIの契約を結ぶ必要があり、その際に二月分のプレイ料金を支払っていた。用事を終えて必要は無くなっていたものの、つまり二月一杯まではFFXIをプレイ出来る状態にあったのだ。

2002年の三月より2004年の元日まで、ネットワークゲームをプレイしてきた。それ以来久し振りにネットゲームから遠ざかっていたのだが、そろそろまた恋しくなってきたところだ。ネットを介して他人とコミュニケーションを取ることの出来るオンラインゲームには、一人で遊ぶオフラインのゲームとは全く異なる魅力がある。

面白いゲームは無いものかとここ暫く幾つかのMMORPGについて調べていたが、未だこれという物を決められずにいた。そして折角二月中は遊べるのだからと、この日はFFXIにログインしてみたという訳である。

画像・ウィンダスの町中。
クリスマスイベントの飾り付けの様に、今は桜の木で一杯のようだ。

元日にドルシネアのデータを削除したその直後、私は強烈な喪失感と罪悪感に襲われた。あれだけ自分に言い聞かせたのにも係わらず、ドルシネアという存在を失うことは私にとってとても辛いことだったのだ。それから数日の間は、友人のことを思い出したり、ドルシネアやヴァナ・ディールが恋しくなったりすることもよくあった。恐らく比較的ドライな私がそうなるのだ。思い入れがもっと強い人がFFXIを終えるときには、更に辛い思いをすることになるのだろう。辞め切れずに復帰してしまったりするのだろうと思う。

プレイを終えた後、幾人かの知り合いにお別れのメッセージを送った。数人からその返事を貰うことが出来た。数日後、ある方からお別れのメッセージが届いていた。それはあのハロウィン以降に関係が途絶えた人であった為、感謝の言葉が綴られたそのメッセージを最初に読んだ時はとても嬉しかったものだ。

だが後にそのメッセージに対する私の印象は、冷ややかなものに変わっていった。何故今になってそんな言葉を送ってくるのか。既にヴァナ・ディールに居なくなってしまってから言われても、何も返しようが無いではないか。まるで私が存在しないという「安全地帯」から送られてきたような、そんな印象を抱く。メッセージの中にある「ありがとう」という言葉は、本当に私に伝えたい言葉なのか。実際のところは、「ありがとう」と言う「自分」を見たいが為の言葉なんじゃあないのか。……そんな疑念に包まれる。

未だレベル1のヘブンスコープを通して見るヴァナ・ディールからは、レベル1のドルシネアを通して初めて見たヴァナ・ディールとはあまりにも違う印象を受ける。既に見知った風景の中に、多くの記憶が埋め込まれている。ドルシネアを通して見た未知の希望は、ヘブンスコープで見ると楽しさと苦しさを包含した過去の記憶として掘り起こされるのだ。

画像・競売所の風景。
以前と異なり、各キャラの「影」が表示されている。だが所により向きが変になるようだ。

所持金が全然無い。競売所に行っても剣一本も買えやしない。取りあえず手持ちの短剣で頑張るしかないだろう。水の区を経由して、ヘブンスコープは西サルタバルタに狩り場を求めた。


How To Game

以前、知り合いと話し合ったことがある。向こうはこう言った。
「同じリンクパールを持つ仲間ならば、共に冒険に出て死んだとしても、笑い合える筈だ」
それに対して私はこう意見した。
「そのような条件を提示してパールを渡したのではないのだから、そうとは限らない」

既にその当時、ドルシネアは冒険者を辞めていた。他の者とは異なる、レベル上げを放棄した道を歩み始めていた。経験値を稼ぐ機会は極端に減り、それ故死んで経験値を失うことのリスクを非常に強く感じるようになっていた。そうして交わす言葉の中に、経験値に対する価値観の違い、そしてゲームに対するスタンスの違いを、私は感じた。

「Ultima Online」(UO)というゲームがある。世界で初めて登場したMMORPGだ。スタートしてから既に七年になるが、未だ現役で運営されているモンスターなゲームだ。それ故MMORPGを語る時、このゲームについても言及されることが多い。そしてその文章から、私はMMORPGについて理解してきた。

UOでは、プレイヤーは様々な職業を選ぶことが出来るという。モンスターと戦う戦士や魔法使いの道もあれば、鎧や武器を作ったり直したりしてプレイヤー相手に商売をする鍛冶や裁縫を職とすることも出来る。木工、細工、錬金術、釣りや調理といったFFXIでもお馴染みのスキルが存在し、好きなものを選んで技術を上げていける。そして自由気ままな生活を送っていける。そんな風にUOを紹介する文章や漫画から、私はとても豊かな世界観を感じた。

定められたストーリーを歩むオフラインのRPGには無い自由度。世界を危機から救うといった大それた目的を持たない親近感。そしてそこに属するキャラクター一人一人の個性と、彼等が自由に生きている生活観を想像した。それは、コンピュータRPGではなかなか感じることの出来なかった、テーブルトークRPGの再現だった。冒険だけではない日常。MMORPGではそれを仮想世界の中で体験出来るのだと考えていた。

そして私はMMORPG、FFXIを始めた。だがそこには日常は殆ど無く、冒険だけがあった。今のMMORPGは、「日常を送られる仮想世界」という訳では無かったことを初めて知った。

しかし私はMMORPGに、冒険だけではない平穏な生活を望んだ。だからFFXIでもそれを追求し、冒険者を辞めたドルシネアと共に冒険をしない生活をヴァナ・ディールで送った。もし、困難や障壁となる敵に立ち向かい、それを攻略するのが「ゲーム」だというのなら……私は「ゲーム」をプレイしていなかったのだろう。

何処で目にしたかは忘れてしまったが、このような例えを聞いたことがある。最近のMMORPGは世界の一員として過ごすゲームではなく、「レベルを上げてボスを倒す」オフラインのゲームを「皆で同時にプレイする」ゲームである、と。FFXIを振り返り考えると……なるほど、言い得ている。そう頷くのと共に、それは私の望む形とは違う、とも思う。

私は最近、「ゲーム」という言葉に疑問を抱いている。MMORPGの「G」は、「ゲーム」である必要があるのだろうかと。私にとってヴァナ・ディールは、冒険や攻略をしないで暮らす「世界」である。「ゲーム」をプレイしていない私にとって、FFXIは「ゲーム」では無く生活を送る、ごっこ遊びの「世界」であり、その為の「資源」であるのだ。

以前他のネットワークゲームをプレイしていて、やはり冒険を目的としない人に出会ったことがある。その人はキャラクターの見栄えを色々変えるのが楽しいらしかった。その為に多くのアイテムを持っているようだったが、そのアイテムを入手する「過程」には全く興味を持っていないと語っていた。レアアイテムを手に入れる苦労を楽しむことを「理解出来ない」とすら言い切っていた。そしてその人は、不正な手段……データの改変や複製……で作られたアイテムを多く持ち、それを無作為にばら撒いていた。

他にも、ゲームには飽きてしまい、知り合いとチャットする為だけにログインする人がいるというのは、良く聞く話だ。着替えを楽しむ人、チャットを楽しむ人。これらも前述のような定義と比べた場合、「ゲーム」をプレイしていない人達と言えるだろう。MMORPGとは、そういった人達も存在出来る「世界」なのだと私は考える。だからMMORPGの「G」を、冒険や攻略を強いるキーワードとして邪魔に感じるのだ。

FFXIにおける冒険の先には、レベル75という終着駅が待っている。そこへ至る道も概ね攻略されて用意されている。全てのプレイヤーは、その冒険者としての道を進まなければならないのだろうか。MMORPGとは、そんな狭い一本道であったのだろうか。私がUOについて聞き、そして想像した、MMORPGの豊かな世界観は何処へ行ってしまったのだろうか。MMORPGにはもう冒険しか残っていないのだろうか。

そんなやるせなさが、FFXIに対して残っていた。


Heavenscope 〜 ドルシネアの世界

元日にFFXIを止めた後で、私が最初に考えたこと。それは、何故私はこれほどまでにプレイを終わらせることに固執するのだろう、固執したのだろう、ということだった。マロングラッセという調理の目標に到達したものの、しかしまだプレイを続けることは出来た筈なのに……。

弱体魔法・ディアを覚えて西サルタバルタに出た。久し振りに見る草原に、暫し目を細める。ヘブンスコープは赤魔道士である。本当は片手剣の方が強いのだが、あいにく赤魔道士の初期装備は短剣だ。

門を出てすぐの所に最初に戦うべきモンスターがいる。覚えている……愛らしい風貌のマンドラゴラは危険だ。まずはハチを相手にするべきである。ぺちぺちとハチを叩いてレベルアップ、赤魔道士・レベル2になった。ここでシグネットを掛けていない事に気付き、急いでウィンダスに戻る。道理でクリスタルが出ない筈だ。

ハチから風のクリスタルを回収しつつレベル3に。購入してきた魔法スクロールを使って、回復魔法・ケアルを習得した。これで体力回復のスピードが上がるだろう。

お金儲けを考えると、風のクリスタルを集めて競売所にダース単位で出品するのがベストだろう。ハチを狩りつつ、経験値の取得効率を上げる為にウサギにも手を出し始める。近場でレベル37の白魔道士がモンスターを乱獲していて、少々鬱陶しい。

ふとヘブンスコープのそばに、一人のタルタルが現れた。先程から見掛けていた彼は、ヘブンスコープ同様レベルの低い黒魔道士だ。見ると体力が幾分減っている。折角覚えたことだし、ケアルを掛けてやろうかな……そう思い準備をしていると、彼がSay形式で声を発した。「can u heal me?」

結果的にこれに応える形となり、彼にケアルを施した。だがほんのちょいとしか体力が回復しないのに驚く。そうだった! これはケアルIなのだ。ドルシネアでいつも使っていたのはその上位魔法であるケアルII。そっちのつもりで使ってしまったが、ケアルIの回復量は微々たるものなのだった。やれやれ、すっかり忘れていた。慌ててケアルを更に重ねる。「thanx」と言って立ち去る彼に「np」と返した。

ヒーリングする為に座り込んだヘブンスコープの向こう側を、青い大きな獣を従えた男が走っていく。「フェンリル」とかいう狼……多分召喚獣だろう。最近追加されたに違いない。そんなことを考えていた私の耳に、赤い色で示されるShoutの声が入ってきた。先程ウィンダスの町中でも何度か聞いた、英語の「金くれ」Shoutだった。

まぁ当然だが、誰も応えはしないのだろう。今回もそれは何度も繰り返されている。よくよく見るとその叫びの主は、先程ケアルを施した黒魔道士のタルタルだった。ログウィンドウに並ぶ金くれShoutを少し鬱陶しく感じて、「あぁ、ケアルなんてしなきゃ良かったかな」、そう思った。

少し狩りを続けた後で、溜め息をついて立ち止まる。
(違うな……それとこれとは別の話だな……)
そう考え直す。

彼はまだ駆け出しだ。お金の稼ぎ方を知らない。敵を倒してもお金を落とさないこの世界に、面を食らっているのではないかな。それに他の多くのゲームでは、高レベルになればお金が余ってくるものだ。そういえば私も以前のゲームで、駆け出しの者にお金を与えたりしていたっけ。このFFXIではレベルが上がってもお金稼ぎが大変だということは、彼はまだ知らないに違いない。

それに彼は……私に、「can u heal me?」と尋ねてくれた。そして施したケアルに「thanx」と礼を告げてくれたのだ。そこに何か問題はあるか? ……何も無い。彼は私に、意思を伝える声をくれたのだ。それで充分じゃあないかな。その声は何よりも、大切にすべきことなのだから。

レベルを4まで上げた私は、集めたクリスタルを競売所に出しに行った。早く売り切るための値付けのノウハウを、まだ覚えている。競売所からモグハウスに帰るまでの短い時間に、風のクリスタルは落札されていた。これで剣や防具を整えることが出来るだろう。あぁ、こういったお金の稼ぎ方をさっきのタルタルに教えてあげれば良かったかな、とか思う。

このヘブンスコープと共に、またこの世界を生きていくのはどうだろうかと考える。他にやりたいネットワークゲームがなかなか見当たらない。ならばFFXIをもう一度始めるのはどうだろうか。そんな風に考える。ドルシネアを通して得た経験を元に、より良い遊び方が出来るんじゃあないだろうか。今度はもう少しレベル上げに精を出してみるとか、もっと多くの人に話し掛けてみるとか……心の持ちようで、以前よりも楽しく遊べるかもしれない。

しかし……ヘブンスコープの背中を見ると、そこに全てが映し出される。サルタバルタの向こうにある峡谷や白い半島の景色が。海を行く船が、砂丘が。幾つもの国々と、そこにいるNPCのことも浮かんでくる。そこを走り渡ったドルシネアと、彼女と共に体験した記憶がもう私の中にあるのだ。同じ事を繰り返しても、その黄金の時は色褪せた形でしか追体験出来ないだろう。ドルシネアの世界を改めてなぞることは、私にとって殆ど価値の無いことだ。

思い返してみると、私は昔からゲームをプレイする時、「二周目」以降を続けてプレイすることは殆ど無かった。「二周目」とは、シューティングゲームなどで最後のボスを倒した後、難易度が上がった一面以降がまた続くというものだ。ゲームによってはその二周目以降が特に面白いらしく、熟練者の友人は「二周目からが本番」と気合いを入れてプレイしていたものだ。

だが私は、その二周目以降を好まなかった。一周した時点でそのゲームの攻略を終えることの方が多かった。それは一周の時点でそのゲームのストーリーが、私の中で完結してしまうからだ。私にとって、ゲームではストーリーを完結させることが重要であり、二周目をプレイすることで同じストーリーを繰り返すのは、蛇足と感じられるものだったのだ。

再びFFXIを始めるということは、私にとって「ドルシネアの二周目」を始めるということになるのだろう。それが私には強い抵抗を感じさせるのだ。完結したストーリーに、二周目は必要ない。FFXIにおいて私は、ドルシネアのストーリーを語り終えたのだ。

そうだ。ストーリーを完結させたのだ……私は、攻略するという形ではなく、昔から自分なりにとっていたスタイルで、FFXIという「ゲームをプレイしていた」のだと今は思う。

……ポストから取り出された風のクリスタルの代金は、結局使われることは無かった。ドルシネアのウィンダスに通じるその扉は、もう二度と開けられることは無かった。

第四部 「March for the Dulcet Wind」 完


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