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山本七平年譜

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本ページは、『「怒りを抑えし者」【評伝】山本七平』(稲垣武著 PHP研究所発行)の「年譜にかえて」からの転載(「黒」表記)、同書本文からの引用・要約(「青」表記))及び山本七平の著書やれい子夫人及びご子息良樹氏の回想等からの引用・要約(「緑」表記)で構成しています。また、山本書店刊行の聖書学関係の書籍は私が所有しているもののみ掲載しました。(なお、本ページへの上記転載部分の掲載は、著作権者及び出版社の許可を得ています)

山本七平をとりまく人々 山本七平年譜

山本七平をとりまく人々 【 系図はこちら 】

大石余平 | 玉置酉久 | 大石誠之介 | 大叔父・角源泉 | 親族・永田衡吉 | 父・文之助 | 母・(西)八重 | れい子の母・寶田あい | 妻・れい子(旧姓:寶田) | 長男・山本良樹

大石余平

大石余平は、大石増平・かよの長男として新宮中之町に生まれた。余平は漢学を学んだが、後に英語も修めた新知識人で、明治十三年八月、妹の睦世を大阪のキリスト教系の梅花女学校に学ばせた。睦世は十五年五月、大阪で洗礼を受けてクリスチャンとなり、翌年四月、漢訳のマルコ伝を余平に贈った。余平はこの本に感銘を受け急速にキリスト教に傾斜し、同年、伝道師の派遣を要請し、十一月、米人宣教師アレクサンダー・D・ヘールが新宮にきて、余平に洗礼を授けた。明治十七年五月には父の増平、弟酉久も受洗、六月十日、ヘールの弟で同じく宣教師だったジョン・B・ヘールの指導のもとに九人の信者で新宮教会を組織し、中之町に新宮発の会堂を建てた。教会の長老には余平、執事には酉久が選ばれた。誠之介も同年の七月、大阪西教会でA・D・ヘールにより受洗している。

[ エピソード他 ]

 大石一門は新宮の名家で、代々学者や文人を出している知識階層であった。大石家の次男の玉置酉久は、七平の父文之助の母方の従姉妹、瀬藤タカの夫。文之助が四歳で父を亡くしたため、酉久の弟の大石誠之介に幼少より薫陶を受けて育った。
その誠之介が、不注意から「大逆事件」に巻き込まれ、幸徳秋水と並んで事件の主犯格とされ逮捕・処刑された。この事件は熊野地方を震撼させ、誠之介の親戚縁者は身の置き所もない空気に包まれることになった。七平の父母が故郷を捨てることになったのもこのためである。

 七平がこのことを父からはじめて聞かされたのは、徴兵検査が近づいた頃であったという。しかし、七平はこの事件をその後の自分の評論活動の中で語ることはなかった。それが自己正当化になることを嫌ったのである。(『ある異常体験者の偏見』p101)

玉置酉久(山本は自らを三代目のクリスチャンと称しており、一代目を玉置酉久としていた)

文久元年七月一日、和歌山県東牟婁郡新宮町に大石増平・かよの次男として出生。七平出生時は六〇歳。兄弟に大石余平、大石誠之助がいる。玉置源三郎の養子となる。
明治九年一月四日、家督相続。
明治一六年七月三一日、瀬藤タカ(慶応三年五月一三日、東牟婁郡勝浦村生まれ、瀬藤米太郎、姉)と結婚。船を何隻も持っている材木商。
明治一七年五月二二日、J・B・ヘールから受洗。六月一〇日、新宮教会設立式と献堂式、執事となる。
明治二二年、新宮教会長老。このころ、新宮伸之町に洋館の自宅を建てる。二階は八角形、庭には鐘つき堂があった。
明治四三年六月三日、弟、大石誠之助と共に家宅捜索を受ける。七月五日、五月に名誉毀損罪で公判に付されたため、被選挙権を失ったとされ、郡会議員、町会議員を失格させられる。
明治四四年一月二六日、大石誠之助の遺体を引き取り、東京の落合火葬場で荼毘に付す。一月二八日、東京の富士見町教会(植村正久牧師)で遺族慰安会を行う。二月二日、新宮にて大石誠之助の簡単な葬儀を行い、遺骨を南谷墓地に葬る。二月一六日、新宮教会に脱会届を提出。
大正八年一二月一四日、妻、タカ死去。
昭和二一年二月一六日、隠居届提出。
昭和二四年二月一三日、自宅にて死去。享年八九歳。二月一六日、葬儀。新宮教会にて樋口春喜牧師が司式。(右青字につづく)

[ エピソード他 ]

酉久のことは、七平の母が、そのエピソードを家族に話している。酉久は誠之介逮捕の日以来、「着物を左前に着て、一生それで通すであろうこと。人がこれを注意すると『フン、神武天皇は左前じゃぞ。忠良な臣民と言うなら、お前さんも左前にせい。右前に着とるやつは逆賊じゃ』と言ったこと。六(八?)角堂という名の六(八?)角形の家をつくり、そののきに鐘をつるし、時々狂ったようにそれを打っていたこと。」「その傍若無人ぶりは、人々があらゆる面で言葉を慎んでいた戦争中も変わらなかった。貴金属の供出を命じられたとき、それを汚いずだ袋に入れて役場に持参し、余りに正直な供出ぶりに驚く役人に『フン、安いもんじゃ、天皇は命まで供出させたんじゃからの・・・』と言って、人々を慄然とさせた。」(『静かなる細き声』p33~34)

 和服は左前に着た。晩年は、キリストにあやかりロバに乗って笛を吹きながら農園に通った。
子供の名は長男、醒(さめる─サムエル)、次男、起(おきる)、三男、徐歩(じょぶ─ヨブ)と付けた。目が覚めて、起きて、歩き出すという意味。長女、おえ津は、サロメと名付ける予定だったが、妻が酉久の旅行中に届けを出したためそれは免れたという話もある。
日本最古のクリスチャンを自称。

 口癖は「怒りを抑える者は、城を攻め取る者に勝る」で、七平は、「決して怒りを爆発させず、また爆発させてケロリと忘れることをせず、これを抑えつづけ、裁きに日までじっとそれを生き抜いた人がいたということ。信仰の生涯とはおそらくこれと同質のことだと私は思う」といっている。七平が三代目クリスチャンというとき、その一代目はこの酉久のことである。(『静かなる細き声』p34)

大石誠之介

慶応三年一一月二十九日、大石増平・かよの三男として新宮中之町に生まれた。新宮小学校には二年通っただけで、後は私塾で勉学、十七、八歳の時同志社英学校に入学したが、二年後に退学し東京・神田の共立学校に通った。
明治二十三年五月、余平から五十円もらって渡米し苦学してオレゴン州立大学医学部を卒業した。
明治二十八年十一月帰国し、翌年四月に新宮市内に医院を開いた。
明治三十二年一月、シンガポールに渡航、現地の病院で医師をしながら脚気とマラリアを研究した。後にボンベイ大学でペストなどの伝染病の研究をした。ここではじめて社会主義思想に触れた。
明治三十四年一月帰国して再び開業した。
明治三十七年二月、新宮教会で日露戦争非戦論を演説、三月幸徳秋水、堺利彦らの主催する「平民新聞」に時局批判の投稿をするなど、中央の社会主義運動との関係を深める一方、歌人の与謝野鉄幹らとも親交を結んだ。
明治四十三年六月、過激な社会主義者宮下太吉が天皇暗殺を謀り爆弾を製造したとする容疑で逮捕され、その材料である塩素酸カリを、誠之介の家に居候していた新村忠雄から送らせたと供述したことから、誠之介が逮捕された。新宮一帯のキリスト教徒の家も一斉に家宅捜索を受け社会主義者・無政府主義者と見なされた六人が逮捕され、誠之介はその首魁にでっち上げられた。
明治四十四年一月二十四日、秋水らとともに絞首刑を執行された。

[ エピソード他 ]

 誠之介は、無益な投薬を拒否し、貧しい家庭にも喜んで診療に行く反面、金持ちから往診を乞われてもなかなか行かず、無理に頼まれると高い診療代を取った。そのために新宮では貧しい人たちから神様のように崇められたという。

 また、「ドクトル大石は、気まぐれや奇矯とは全く別な態度で被差別部落民に接して」いた。「彼は部落民から、金を決してとらなかったのである。診療代を払えぬ貧民に対し誠之介は、病院の窓を三回叩いて合図するようにと申し渡していた。」(『戦後日本の論点』高澤秀次p28)

 また、西洋の空気を身につけたハイカラさんとして新宮の知識人の尊敬を集めた。

誠之介の社会主義思想は、長兄余平や医者として貧者の診療を通じて社会の実相を見ることで強まったもので、キリスト教的な人道主義にもとづくものであった。しかし、持ち前の軽率さから社会主義者の革命談義に鷹揚に相づちを打っているうちに事件(=「大逆事件」)に巻き込まれたというのが真相ではないかと思われる。
「この大逆事件ででっち上げの指揮を取ったのが、当時大審院次席検事であった平沼騏一郎であった」。当時は藩閥政治から政党政治への転換期で、自由民権運動等に対する警戒心が強かった。その時「彼は司法省民部局長を兼任し予審判事の任命にも関与、岡部法相をさしおいて直接、桂首相や元老山県有朋と連絡を取り、その意向を受けて事件を思う方向に導いた。

 山本七平は帝人事件や天皇機関説問題における平沼の関与についても批判的に言及している。(『昭和東京物語2』p114,176) 

大叔父・角源泉

明治四年九月一八日、和歌山県東牟婁郡三輪崎村、角三郎左衛門の三男として出生。七平出生時は五〇歳。幼名は魚民彦。明治二一年ごろ、医師、神谷有哉について上京。親族神谷敏行の紹介で司法省刑事局長(間もなく逓信次官)の河津祐之の家に書生として住み込む。
明治二四年、司法省指定、和仏法律学校(現、法政大学)仏語法律科入学。
明治二六年七月、卒業(卒業證第三号)。
明治二七年、河津死去。
明治二九年二月二一日、永田はつね(明治八年九月一日生まれ。和歌山県東牟婁郡新宮町、永田小三郎長女)と結婚。八月二二日、源泉と改名。
(中略)
明治三〇年一一月二〇日、判事検事登用第一回試験合格。同年一一月三一日、文官高等試験合格(合格証書四四号)。同年一二月九日、司法官試補、検事代理、和歌山区裁判所詰。
(中略)
明治三一年一月一八日、田辺区裁判所詰。四月一五日、司法官試補を依願免職。同郷の先輩湯川寛吉の推挽により八月六日、通信書記、東京郵便電信局勤務。八月三〇日、監理課勤務。明治三二年五月一五日、通信事務官補、広島郵便電信局監理課長。
(中略、各地の郵便局長歴任)
明治四三年四月一日、逓信管理局長、札幌逓信管理局長。内田嘉吉の招きにより明治四四年五月九日、台湾総督府事務官。五月一一日、台湾総督府通信局長心得。大正二年三月一日、台湾総督府通信局長。
大正四年三月二〇日、台湾総督府土木局長。高等官二等。
大正五年十二月二十五日、叙勲三等瑞宝章。大正七年五月三十日、従四位。
大正八年五月二十一日文官分限令第一条第一項第四号により休職。七月三十一日、台湾電力株式会社副社長(社長、高木友枝)。
大正九年一〇月一八日、依願免本官。総選挙に三重九区より出馬、落選。
大正一〇年七月、東京の三軒茶屋に家を建てる。敷地約四〇〇坪、建坪約一〇〇坪。書生、お手伝いさん各二人ぐらい。庭の一角に文之助に山本家を建てさせる。
(中略)
昭和八年一一月二八日、初代新宮市長(~昭和一〇年一二月一八日)。
昭和一一年、大正一三年に東京を離れてから一一年振りに東京に戻る。二月二〇日、第一九回総選挙に出馬、当選。三重二区、立憲民政党(~昭和一二年四月)。昭和十二年二月十三日、妻はつね死去。(中略)
四月、第二〇回総選挙に三重二区から出馬、落選。昭和一六年一一月、発病(胃ガン)。
(中略)
昭和一七年八月一四日、東大病院にて死去。享年七〇歳(後略)

[ エピソード他 ] 

 酉久と並んで、山本一家の生活に大きな影響を及ぼしたのが、文之助の母のぶの腹違いの弟、角(すみ)源泉である。角家は三輪崎(漁村)屈指の名家であったが、源泉の父三郎左衛門が郷土のために私財を傾けて惜しまぬ人であった〈魚民彦(なみひこ)と名づけられたのは、そういう父の願いからであろうが、だれも読めなかったので、二十五歳の時源泉と改名した〉ため、源泉の生まれるころは没落しかけていた。源泉に高等教育を受けさせる余裕はすでになく、源泉は小学校卒業後、わずかに残った田畑を耕していたが、星雲の志やみがたく、十七歳のとき、苦心してためた五円を懐に、同郷の医師神谷有哉に随行して上京した。

その後苦学してフランス語を独学、法政大学の前身である和仏法律学校を卒業。明治三十年高等文官試験と判事検事登用第一次試験の二つに合格、和歌山地方裁判所の検事代理として故郷に錦を飾った。しかし、司法官は適職でないと判断し、その後は逓信官僚の道を歩んだ。明治四十三年本省の逓信管理局長となった。明治四十四年には台湾総督府に移り大正二年には通信局長、大正四年に土木局長に転じた。

文之助と源泉とは、単に叔父・甥の関係だけではなく、子供のころ、三輪崎の同じ若衆宿に属しており、文之助も一一歳年上の源泉の指導を受け、強固な結びつきを持ったのであろう。

文之助が成人してからのかかわりは源泉が台湾総督府土木局長となった大正四年頃からと思われる。大正六年一月、旭川電気事務所という電力会社に赴任、旭川暮らしは大正九年まで足かけ四年に及んだ。文之助はここで生涯の師と仰いだ内村鑑三のと出会い、旭川豊岡教会の青年会長に推挙されている。大正九年一二月、文之助は旭川を去って台湾電力に入社、東京支店の総務課長を務めていたらしい。

大正一〇年七月、官を辞して台湾から帰った源泉が世田谷の三軒茶屋に敷地四百坪、建坪百坪くらいの邸宅を建てると、文之助を呼んでその敷地の地続きの土地に住居を建てさせた。両家は同じ家族のように親しくつきあった。源泉の家にはその妻はつねの連れ子永田衡吉がおり、精神形成期の七平に大きな影響を与えたものと思われる。

源泉は大正一二年一二月末、事業の失敗から台湾電力副社長を辞任し、文之助も台湾電力を退社し、その不動産を処分する第一土地建物株式会社に移り、その倒産後も一人支配人として残った。

源泉は、その後、昭和八年一一月二八日に初代新宮市長となり(昭和一○年一二月一八日まで)、東京に戻ってからは三重二区から総選挙に出馬するなど活躍した。

昭和一六年胃ガンを発病したため、三軒茶屋の土地と家屋を売却して借金を清算した。このため山本家は世田谷区上北沢町一丁目八二番地(経堂の家)に引越した。

親族・永田衡吉

明治二六年一一月二〇日、永田家に養子に入った父(玉置)勇八郎と母、永田はつねの長男として和歌山県東牟婁郡新宮町にて出生。永田家は代々新宮藩水野家の家臣で代官職。七平出生時は二八歳。
明治二七年三月五日、父、勇八郎、永田家を去る。
明治二九年二月二一日、母、はつね、角源泉と再婚。衡吉は永田姓のまま新宮市在住の祖父、永田小三郎の下で育つ。
明治四〇年。新宮中学入学、一学年上に佐藤春夫。中学二年の時、札幌に住んでいた角源泉夫妻の下に引きとられ、札幌中学に転校。
明治四二年、病気のため札幌を離れ上京。東京開成中学(小寺融吉と同期)を経て早稲田大学英文科卒業。
大正六年、東京帝国大学美学美術史選科入学。
大正七年七月一〇日、大杉栄、奥栄一、大石七分らと同人雑誌「民衆の芸術」を発刊(一巻五号まで、発刊禁止となった号もある)。
大正九年、東京帝国大学卒。個人雑誌「稿本」発刊、一号のみ。警視庁警部(脚本検閲官)となる。
大正一○年秋、(武田?)スミ子と結婚。結婚式は挙げず、芝の紅葉館にて披露宴。スミ子は生田春月の内弟子。大正一一年、文部省社会教育調査委員(芸能)となる。
(中略)
昭和二年、柳田國男、中村吉蔵らと「民俗芸術の会」結成、幹事となる。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館建設運動に参画。河竹繁俊らと「三水会」を結成。
昭和三年、小寺融吉らと雑誌「民俗芸能」創刊(五巻六号、昭和五年まで)。
昭和五年、日本俳優学校(校長、六世尾上菊五郎)創立に参与。新劇部主任。七年間演劇概論、新劇史を担当。昭和一〇年、中村吉蔵、河竹繁俊、五世中村歌右衛門らと国立劇場建設運動を起こす。
昭和一一年、早稲田大学演劇協会(会長中村吉蔵)の設立に参与。妻、スミ子、松沢病院に入院。
昭和二一年二月一三日、母、はつね死去。
昭和一七年八月一四日、義父、角源泉死去。印南高明、羽田善朗、大山功と共に中村吉蔵著『現代演劇論』(豊国社)を刊行。
昭和二〇年一月一五日、妻、スミ子松沢病院にて死去。昭和二六年、神奈川県文化財専門委員。
昭和二八年、外務省、米国海軍共催の開国記念ページェント「ペリー来航」(世界最大級といわれた)を横須賀久里浜にて監督。
昭和三六年、神奈川文化賞受賞・神奈川県立博物館研究調査員として同館の設立に参与。昭和四二年、神奈川県史編集懇談会会員。
昭和四三年、『日本の人形芝居』(錦正社刊)で早稲田大学より博士号受与。勲五等瑞宝章受章。
昭和五三年、神奈川県民俗芸能保存協会会長。
(中略)
平成二年二月二七日、死去。享年九六歳。(後略)

[ エピソード他 ]

 七平は中学校に入ったころから本の虫であったが、その書棚には当時国禁の書であった多数の共産主義・社会主義関係の本が揃えられていたという。
また、その当時の国際政治情勢についても、独自の情報源を持っていたらしく、中学五年の時友人の日置(日置晙吉、中学時代の親友)に、当時ナチスドイツ・ブームが蔓延する中でヒトラー狂人説を唱えたり、そのユダヤ人迫害によって、「ドイツはいずれ科学戦に敗れるだろう」と漏らしていた。

それは青山学院の外国人宣教師の影響や満鉄調査部を組織した後藤新平と関係のあった角源泉からの情報もあったかと思われるが、思想統制・弾圧の厳しかった当時、そうした本を学生が持っていれば特高警察に検挙される危険がある本をどこから手に入れていたか。それは、この永田衡吉の存在なしには考えられない。

永田衡吉の実父は玉置勇八郎という人で永田家に養子に入ったが、衡吉が生まれるとまもなく離婚した。母はつねは源泉と再婚したが、はつねの実家は熊野屈指の富豪だったので、家名を残すため、衡吉は角家の籍に入らなかった。

衡吉は母の膨大な持参金で食うに困らず、大正九年に東大を卒業すると、警視庁警部となって演劇脚本の検閲官をしたりしたが、九ヶ月で辞し、それ以降は戯曲や小説を書いたり、歌舞伎や演劇、民俗芸能の研究に没頭して一生を送った。いわば高等遊民であったが、そんな衡吉を堅実なサラリーマン家庭であった山本家は敬遠し、七平も母から「衡吉さんに近づいてはいけません」と戒められていた。しかし、七平は母の戒めを破って角家の二階にある衡吉の書斎に入り浸っていたらしい。

その衡吉の部屋には七平の興味をかき立ててやまぬ膨大な、各分野の書籍があった。七平の持っていた左翼関係の書籍の一部や、当時の情報統制の範囲を超えたさまざまな情報は、衡吉の本棚から持ってきたり教えられたものがある可能性は十分に考えられる。

ともかく精神形成期にあった七平に与えた衡吉の蠱惑的な影響力は大きなものがあったと推測される。

父・文之助

明治一五年四月十二日生まれ。七平出生時は三九歳。西喜十郎・のぶ(角三郎左衛門の二女)の次男(文之助の作った過去帳によると、幼児で亡くなった辰三郎が次男、戸籍上は文之助が次男)として和歌山県東牟婁郡三輪崎村に生まれる。
明治一九年七月、父、喜十郎死去。
明治二〇年三月一二日、同郡新宮町の山本善次の死跡相続。
明治三二年一二月一一日、新宮の借家で母、のぶ死去。
明治三七年一一月四日、同郡勝浦村の瀬藤米太郎・よしえの次男(明治三四年三月三〇日生まれ)、住次郎と養子縁組。
明治四五年五月二〇日、住次郎と協議離縁。
明治四五年六月六日、東京府荏原郡大井町へ転籍。
大正二年一二月二一日、日本基督教会品川教会にて秋葉省像牧師より受洗。大正三年一二月一〇日、西八重と結婚。大正四年ごろ、夫婦で銀座のビルに住み込んでいたころ は銀座教会に通う。
大正六年ごろ、叔父、角源泉の勧めで北海道、旭川の富士製紙㈱旭川電気事務所(所長、小畠正長)に勤務。
大正七年、おめが会(内村鑑三の北海道旅行を機にできたもの)に入会。大正八年、旭川の宮下町の社宅に旭川豊岡教会の日曜学校の分校を設ける。
大正九年九月四日、全道メソジスト総会にて、二日目の講演会の司会を務める。
大正九年十二月、東京に戻り台湾電力㈱に入社、東京大井町の借家に住む。日曜は今の中渋谷教会に通う。
大正一〇年七月、角源泉が三軒茶屋に家を建てたので、山本家は庭の一角に別棟を建て住む。三軒茶屋に移ってからは内村鑑三の聖書研究会に出席。ヨハネ組(男性の最年長組) のメンバー(~昭和五年、内村没まで)。
大正一三年、台湾電力㈱を退社、台湾土地建物㈱の子会社第一土地建物㈱に入社。
大正一五年二月四日、大井町教会より駒沢教会に籍を移すが数年後に籍の抹殺を要求。
昭和七年、第一土地建物㈱が倒産。倒産後、同社の支配人としてオフィス賃貸と日本国内にあった不動産の処分にあたる。
昭和二〇年、終戦前、銀座松屋裏あたりにあった同社は強制疎開で社屋を失う。会社にあった額や置物は、銀座教会(三井牧師)に寄付。その後もしばらく経堂の家で残務処理にあたる。
昭和三四年ごろより亡くなるまで鶴田雅二の無教会の集会に参加。
昭和四二年五月一七日、湯河原の温泉病院にて死去。享年八五歳。葬儀は鶴田雅二が司式。俳号は夏汀。

[ エピソード他 ]

 誠之介の逮捕と処刑は、熊野地方を震撼させた。誠之介の遺族・親族らは警察の要監視人となり、共同墓地に葬られた誠之介の墓に参る人があれば、警察はその氏名を中央に報告した。町では大石の名を出すのはもちろん、大逆事件のことを話題にすることさえ憚られた。

 そんな身の置きどころのないような空気の中、将来を誓い合っていた文之助と八重は故郷を出て阪神間の芦屋に移り住んだ。二人の女の子が生まれたがいずれも生後まもなく夭折している。その前後、文之助が大怪我をし、八重も病床に臥せった。そうした悲運に見舞われたこともあり、明治四十五年に二人が上京した翌年の大正二年に、それぞれ日本基督教会品川教会で受洗している。もっとも、二人をキリスト教の信仰の道に導いたのは、故郷で新宮教会を建てた玉置酉久を除いては考えられない。二人は酉久を、その奇行にもかかわらず深く敬愛していた。

  謹厳なクリスチャンの家庭らしく、家には大衆娯楽雑誌のたぐいは全くなく、新聞すら子供が読むことは禁じられていた。文之助は子供たちに「新聞を読む暇があったら聖書を読め、新聞を読む時間だけ毎日聖書を読めば、二年で旧約聖書が全部読める」と口癖のように言った。

  ただし、子供にことごとに干渉するといった両親ではなく、七平は日が暮れるまで近所の子供と遊んだ。両親とも「勉強しなさい」とはいわなかった。

  ただし、学校の勉強は強制しなかったが、内村鑑三の弟子を自認していた父は、「聖書を理解するには論語を読まなければならぬ、と内村先生がおっしゃった」と言い、大判四冊の論語の注釈本を買ってきて、子どもたちに半ば強制的に読ませた。

  また、当時の親たちが奨励し、子供たちをも巻き込んでいた立身出世主義の風潮も山本家では希薄だった。

  そうした家庭環境に育ったせいか、七平の少年時代の印象は「よく言えば『おっとりしていた』で、悪くいえば『ボンヤリで、ぽかんとしていた』」小学校の備忘録には「積極性に欠ける」とか「引っ込み思案」などと書かれている。

  家庭では朝食はいつもパン食で、牛乳やソーセージ、ベーコンなどもよく食卓に上った。父母とも子供たちが食物の好き嫌いを言わないように、厳しく躾けた。

  また、子供たちにお手伝いさんを呼ぶときは必ず名前に「さん」をつけるように命じ、子供たちに自分の用事を言いつけてはいけないとも教えた。

  ただ、父母ともクリスチャンとはいえ、日本の伝統文化と決して無縁ではなく、むしろ家庭内ではその雰囲気が色濃くあった。父は聖書よりも論語を引き合いに出して子供たちに訓戒を垂れることが多かった、

  文之助は、子供たちに、若い頃の苦労話や愚痴は一切漏らしたことがなかった。また、仕事上のトラブルを家の中に持ち込むまいとしていた。会社で何か不愉快なことがあったらしい日は、庭に出てしばらく犬と遊び、時には家のまわりの掃除などをしてから、手と顔を洗って再び家に入った。いわば明治とともに育った典型的な明治人で、「質実剛健」を当然とし、「軽佻浮薄」や「華美」を嫌い生活は「堅実」一点張りだった。

母・(西)八重

明治一五年四月十二日生まれ。七平出生時は三九歳。西喜十郎・のぶ(角三郎左衛門の二女)の次男(文之助の作った過去帳によると、幼児で亡くなった辰三郎が次男、戸籍上は文之助が次男)として和歌山県東牟婁郡三輪崎村に生まれる。
明治一九年七月、父、喜十郎死去。
明治二〇年三月一二日、同郡新宮町の山本善次の死跡相続。
明治三二年一二月一一日、新宮の借家で母、のぶ死去。
明治三七年一一月四日、同郡勝浦村の瀬藤米太郎・よしえの次男(明治三四年三月三〇日生まれ)、住次郎と養子縁組。
明治四五年五月二〇日、住次郎と協議離縁。
明治四五年六月六日、東京府荏原郡大井町へ転籍。
大正二年一二月二一日、日本基督教会品川教会にて秋葉省像牧師より受洗。大正三年一二月一〇日、西八重と結婚。大正四年ごろ、夫婦で銀座のビルに住み込んでいたころ は銀座教会に通う。
大正六年ごろ、叔父、角源泉の勧めで北海道、旭川の富士製紙㈱旭川電気事務所(所長、小畠正長)に勤務。
大正七年、おめが会(内村鑑三の北海道旅行を機にできたもの)に入会。大正八年、旭川の宮下町の社宅に旭川豊岡教会の日曜学校の分校を設ける。
大正九年九月四日、全道メソジスト総会にて、二日目の講演会の司会を務める。
大正九年十二月、東京に戻り台湾電力㈱に入社、東京大井町の借家に住む。日曜は今の中渋谷教会に通う。
大正一〇年七月、角源泉が三軒茶屋に家を建てたので、山本家は庭の一角に別棟を建て住む。三軒茶屋に移ってからは内村鑑三の聖書研究会に出席。ヨハネ組(男性の最年長組) のメンバー(~昭和五年、内村没まで)。
大正一三年、台湾電力㈱を退社、台湾土地建物㈱の子会社第一土地建物㈱に入社。
大正一五年二月四日、大井町教会より駒沢教会に籍を移すが数年後に籍の抹殺を要求。
昭和七年、第一土地建物㈱が倒産。倒産後、同社の支配人としてオフィス賃貸と日本国内にあった不動産の処分にあたる。
昭和二〇年、終戦前、銀座松屋裏あたりにあった同社は強制疎開で社屋を失う。会社にあった額や置物は、銀座教会(三井牧師)に寄付。その後もしばらく経堂の家で残務処理にあたる。
昭和三四年ごろより亡くなるまで鶴田雅二の無教会の集会に参加。
昭和四二年五月一七日、湯河原の温泉病院にて死去。享年八五歳。葬儀は鶴田雅二が司式。俳号は夏汀。

[ エピソード他 ]

 誠之介の逮捕と処刑は、熊野地方を震撼させた。誠之介の遺族・親族らは警察の要監視人となり、共同墓地に葬られた誠之介の墓に参る人があれば、警察はその氏名を中央に報告した。町では大石の名を出すのはもちろん、大逆事件のことを話題にすることさえ憚られた。

 そんな身の置きどころのないような空気の中、将来を誓い合っていた文之助と八重は故郷を出て阪神間の芦屋に移り住んだ。二人の女の子が生まれたがいずれも生後まもなく夭折している。その前後、文之助が大怪我をし、八重も病床に臥せった。そうした悲運に見舞われたこともあり、明治四十五年に二人が上京した翌年の大正二年に、それぞれ日本基督教会品川教会で受洗している。もっとも、二人をキリスト教の信仰の道に導いたのは、故郷で新宮教会を建てた玉置酉久を除いては考えられない。二人は酉久を、その奇行にもかかわらず深く敬愛していた。

  謹厳なクリスチャンの家庭らしく、家には大衆娯楽雑誌のたぐいは全くなく、新聞すら子供が読むことは禁じられていた。文之助は子供たちに「新聞を読む暇があったら聖書を読め、新聞を読む時間だけ毎日聖書を読めば、二年で旧約聖書が全部読める」と口癖のように言った。

  ただし、子供にことごとに干渉するといった両親ではなく、七平は日が暮れるまで近所の子供と遊んだ。両親とも「勉強しなさい」とはいわなかった。

  ただし、学校の勉強は強制しなかったが、内村鑑三の弟子を自認していた父は、「聖書を理解するには論語を読まなければならぬ、と内村先生がおっしゃった」と言い、大判四冊の論語の注釈本を買ってきて、子どもたちに半ば強制的に読ませた。

  また、当時の親たちが奨励し、子供たちをも巻き込んでいた立身出世主義の風潮も山本家では希薄だった。

  そうした家庭環境に育ったせいか、七平の少年時代の印象は「よく言えば『おっとりしていた』で、悪くいえば『ボンヤリで、ぽかんとしていた』」小学校の備忘録には「積極性に欠ける」とか「引っ込み思案」などと書かれている。

  家庭では朝食はいつもパン食で、牛乳やソーセージ、ベーコンなどもよく食卓に上った。父母とも子供たちが食物の好き嫌いを言わないように、厳しく躾けた。

  また、子供たちにお手伝いさんを呼ぶときは必ず名前に「さん」をつけるように命じ、子供たちに自分の用事を言いつけてはいけないとも教えた。

  ただ、父母ともクリスチャンとはいえ、日本の伝統文化と決して無縁ではなく、むしろ家庭内ではその雰囲気が色濃くあった。父は聖書よりも論語を引き合いに出して子供たちに訓戒を垂れることが多かった、

  文之助は、子供たちに、若い頃の苦労話や愚痴は一切漏らしたことがなかった。また、仕事上のトラブルを家の中に持ち込むまいとしていた。会社で何か不愉快なことがあったらしい日は、庭に出てしばらく犬と遊び、時には家のまわりの掃除などをしてから、手と顔を洗って再び家に入った。いわば明治とともに育った典型的な明治人で、「質実剛健」を当然とし、「軽佻浮薄」や「華美」を嫌い生活は「堅実」一点張りだった。

れい子の母・寶田あい

明治二七年一一月一〇日生まれ。東北開拓伝道師、吉田亀太郎の四女として父親から燃えるような信仰を受けつぐ。青山女学院卒。鎌倉時代、及び四番町のマンションで山本と同居。信仰歴は、寶田一蔵と結婚した時、仲人の長尾半平より内村鑑三の聖書の集会への出席を勧められ、熱心に通う。内村亡き後は塚本虎二の集会に出席。敗戦の年、新潟の村上の自宅で集会を始める。五年後、東京に戻ってから鎌倉ほか各地で集会を開き多くの人々を導いた。
昭和六一年十二月七日死去。享年九二歳。

[ エピソード他 ]

 山本は見合いの席でれい子の母に初めて会って、その気品のある人柄に「この人の娘なら」と結婚を決意した。

 山本は「年を取っても高貴な精神を持ち続けている人は、美しく見えるものだ・立ち振る舞いを見るだけで、その人の生涯を通じてどのような声に耳を傾けてきたかが分かる。僕は母と娘の両方に惚れた」と後に冗談まじり述懐したこともある。

妻・れい子(旧姓:寶田)

昭和二年九月二一日、東京府豊多摩郡淀橋町(現在都庁が建っている場所)で出生。寶田一蔵・あいの二女。香蘭女学校、青山学院女子専門部家政科卒。
昭和三〇年、恵泉女学園短期大学英文科入学。
昭和三二年、同校卒業。寶田家は無教会。れい子は生まれて間もないころ内村鑑三に祝福されたという。幼い頃は、母、寶田あいが、祖父の牧師、 吉田亀太郎(組合教会)、祖母、まちの信仰を語り、子守歌代りに讃美歌を歌う。日曜日はあいが内村鑑三の集会に出席したあと自宅で聖書の話をした。小学校低学年のときは桜新町教会の日曜学校。高学年になってからは一粒舎の日曜学校。香蘭女学校から青山学院女子専門部卒業までは塚本虎二の主宰する丸の内聖書集会に出席。卒業後はアメリカ軍の教会(超教派)に勤務、アメリカの子どもたちの日曜学校の教師。アメリカの大学のスカラシップをグランドハイツ教会より受けたが結婚することになったのでそれは恵泉女学園短大で学ぶために使う。結婚後は矢内原忠雄の聖書集会。長男、良樹が生まれた後は母、寶田あいの集会に参加。現在、聖書を学ぶ会を行っている。
山本書店主、東京都在住。

[ エピソード他 ]

 れい子は、従姉妹の田村忠幸(青山師範附属小学校と青山学院高等商業学部で山本と同級生)の母の紹介で、昭和二十九年二月に山本と見合いをした。

 見合いをした後、渋谷の道玄坂にあるレストランで一緒に食事したが、山本はれい子を終始見つめながら、自分の惨苦に満ちた戦場体験を熱心に、長時間語った。「まるでカトリックでいう告解のようでした。結婚する相手に、自分の原体験だけはわかってほしい、という切実な気持ちだったのでしょう」と、れい子は回想している。

しかし、れい子には不安があった。山本が異常なほどの本の虫なのを知って、自分との隔たりが気になったのである。そこでデートのときに、「私は余り本を読むことはしないほうですし、それに出版の仕事にも全く知識がありません」とだめ押しをした。山本は答えた。「私は文学少女は嫌いです。自分が本の虫だから、かえってそうでない人のほうがいいんです。あなたはとっても素直に神様を信じていらっしゃる。私はそこに惹かれるんです。とてもそれをうらやましく思う」

二人は経堂の山本の父母の家に同居する形で新婚生活が始まった。山本は聖書学・聖書考古学の出版を志し、それが軌道に乗りかけた昭和三八年十月三日自宅が火事となり蔵書や在庫本を全て失った。

れい子は生活費を得るため「当時流行しはじめたプラスチックのタッパーウェア-のセールスをはじめた。無我夢中で頑張るうち、販売実績がトップになった。

長男・山本良樹

長男・山本良樹
出典:『静かなる細き声』
城北高校、東京神学大学神学部、米国カラマヅー大学国際政治学部卒、昭和六二年よりニューヨークに住む。
平成七年四月、小林久子(東京生まれ、ハワイ大学アート・ヒストリー卒、ブラッド大学でペインティングの修士号取得。抽象画家として活躍中)と結婚。子供は一男一女。信仰歴は小、中学生時代は鎌倉の泉水教会─千代田区四番町の番町教会(昭和五十四年、番町教会の高橋牧師より受洗)─シカゴの幕屋の集会─その後は、宗教、民族の差異を重んじるヒューマニスト。
現在、日・米両語の詩人。山本書店常務。ウラノス・コミュニケーションズを営む。(ウラノスとは古典ギリシャ語で天の意味。米マンハッタン市にあるマルティー・メディアの会社)。共著三冊。
[ エピソード他 ]

 (『父と息子の往復書簡』山本七平・良樹共著より)
私にとって山本七平式「純粋培養」の殻を打破することは、激しく時に痛ましい闘いだった。聖書やギリシャ古典を学び、日本の古典を読み、ドイツ語を習い、プラトンやソクラテスについて父と語る。それはそれでよい。けれども、何かが心の底で「弱って」ゆく。それは精神だろうか?肉体だろうか?それとも生きることのヴァイタリティーそのものだろうか?

 戦争を経験した世代が、生命の危機にさらされながら得た「智恵」を、平和の中で安穏に机に座っていながらどうして得られよう。それが私のニューヨーク行きの隠れた理由であったと思う。・・・生き残れぬものは、字義通り縊り殺してしまう都市・・・。

「NO」と言えないのは、日本だけのことではない。「空気」の圧力。「空気」の支配。しかもアメリカ的な、頭をもたげることすらできないような「空気」を感ずるとき、私はあなたと語りたいと真に思う。あなたと真実な「言葉」を、交わしたいと思う。

あなたはその頃(山本書店創業8年目火災で全てが灰となった)「使命」という言葉を口にしていたけれども・・・いや、単なる「使命感」以上の「使命」。太平洋戦争の惨禍を、再び起こしてはならないという使命。あなたの後ろ姿がそれを物語っていた。

山本七平年譜


元号年(西暦) 年齢 履歴 エピソード他
大正10年
(1921)
12.18
出生 東京府荏原郡駒沢村大字上馬引沢11番地にて出生。山本文之助・八重の長男。名前は七平。日曜日に生まれたので、父文之助が旧約聖書、創世記二章一~三節からとって名づけた。「七日目の平安」という意味である。 台湾から帰った源泉が十年七月に建てた家の約四百坪の敷地に、山本一家に一階八畳・六畳の二間と玄関、台所、風呂場、二階は八畳一間の木造家屋を建てさせ、七平はそこで生まれた。
大正11年
(1922)
1歳 初節句に金太郎人形を買ってもらう。
大正12年
(1923)
2歳 夏、静岡県久能山に避暑に行く。
九月一日、関東大震災の時、父、文之助は東京、丸の内の台湾電力にいた。母が角家の電話を借りて会社にかけたが連絡がつかなかった。夕方、文之助は三軒茶屋の自宅に徒歩で帰宅。この震災以来、文之助は背の高い家具は使わなかった。
『日本人とユダヤ人』に出てくる、震災時の友人のご母堂の話は、母八重の体験談である。
大正13年
(1924)
3歳 二月頃、父、文之助、台湾電力を退社、台湾銀行関係の土地を扱う台湾土地建物㈱の子会社、第一土地建物㈱に入社(ともに社長は木村泰治)。場所は、現在の銀座松屋の裏あたり。社員数は八○名ほど。
七月一九日、妹、舟子誕生。夏、父、文之助、台湾、中国を旅行する。
大正14年
(1925)
4歳 夏、千葉の那古に避暑に行く。 父が漁村出身だったせいか、夏期に海岸の漁師の家を借りて避暑にいった。
大正15年
・昭和元年
(1926)
5歳 西浪子(当時は宮下みえ)が駒沢教会の宮沢六郎牧師の紹介で山本家にお手伝いに入る(~昭和三年四月まで)。このころ父、文之助は八時半ごろ家を出、銀座に通っていた。母、八重は病気がちだったが、日曜日は朝子供を連れて駒沢教会に行き、昼は日曜学校の先生(大学生)を自宅に招いた。山本はこの駒沢教会の日曜学校で聖書の句を暗記させられたことが、後年大変役に立ったと語っている。日曜学校の皆勤賞をもらう。ペットという名の犬を飼っていた。父、文之助はよく子供たちを玉川プールに連れて行った。泳ぎを覚えさせようとしていたようだ。一人ずつ背中にのせて、泳いだ。夏、千葉の竹岡に避暑に行く。
七平の日曜学校生活は「駒沢教会」から始まる。賛美歌の練習、そして聖句の(棒)暗唱が中心だった。七平はその教育論の中で繰り返し「古典」の棒暗記の効果を説いている。
また、父に教わった水泳は、成人してからも唯一のストレス解消法となった。
昭和2年
(1927)
6歳 夏、千葉の那古に避暑に行く。この年、母、八重は姉、信子を連れて故郷の和歌山県、三輪崎に行く。しかし父は終生、三輪崎に足を踏み入れなかった。
昭和3年
(1928)
7歳 一月二九日、東京府立青山師範学校附属小学校入学志願者(男子三〇八名、女子一八六名)の抽選が行われ、男女、各々一〇〇名の候補者が決まる。七平は当選。
三月二〇日、青山師範学校附属小学校の入試が行われ、男女各々四〇名の合格者が決定。山本は合格。四月、青山師範学校附属小学校に入学。所在地:東京市赤坂区青山北町五丁目。制服、制帽あり(山本は小学生の制帽が頭に合わず、市電の運転手が使っていた大人用の帽子を買った)。授業料が必要だった。男女別各一クラス。定員に、アキができると募集した。ただし、四年生の時、男子一組を募集するので、四年からは男子二組、女子一組となる。小学校の校訓は「まじめ」。
担任は六年生まで岡本佐吉。同氏の「学級要録」によると七平の記録は以下の通り。「なりたい人」、一年-シンシニ、二年―ゼントルマン、三年―探検家、四年―園芸家、五年―音楽家、六年―船長。「発明したいもの」、一年―一プンカンニ二〇メートルトブヒコウキヲツクリタイ、二年―一分間に二十マイルはしるもの、三年―一分間十哩の走り物、四年―一分間に百哩走るもの、五年―光の如く速き乗物、六年―風力又は波力で電気を起す方法。
入学した年の五、六月の岡本の「学級要録」には「喧嘩が多い。……山本……が特によろしくない」「テスト第一回をなす。……山本は能力が劣っているかも知れない」「スラスラ読本がよめぬものは山本……である」とある。
夏、神奈川県中郡国府村月京に避暑に行く。父、文之助が北海道時代に知り合った山中大成牧師がいた国府教会の広い牧師館に泊る。教会堂建築予定の広い庭あり。山中牧師の子供の正と遊ぶ。日曜日は午前中、礼拝に出席。山中牧師は午後、大磯教会、夜、二宮教会で伝道。
九月二九日、父、文之助の兄、二代目西喜十郎が芦屋にて死去。享年五六歳。(中略)
このころ食事の時、父、文之助がすわる食卓の上に文之助が教訓をかいた板(一五センチ×二〇センチ)がのせてあった。「一、感謝して、一、よくよく咀嚼して、一、腹八分でおしまいにする。血になった、肉になった」。食事をする時は黙禱したのち、一人一人この言葉を唱えた。
お正月はお雑煮を食べたあと、子供たちは隣の角源泉宅(大正一三年~昭和一一年までは永田衡吉夫妻のみが住んでいた)に新年の挨拶に行った。元日の夜から毎晩のように百人一首をした。子供のいろはガルタは岡本一平の絵に島崎藤村の文。聖書カルタもした。
小学生時代(昭和4年ごろ)
出典:『怒りを抑えし者』
本の虫の片鱗は幼いころから現れていたという。小学校入学前の四、五歳くらいのころ、ピーターパンの物語を母に何度か読んでもらっているうち、ついには全文を暗記してしまった。記憶力は抜群だったらしく、本屋で「少年倶楽部」や面白そうな本を立ち読みして、その内容を全部暗記して友達に語って聞かせたりもした。

七平の小学校の一年のときの「なりたい人」はシンシニ、二年ゼントルマンとなっているが、これは父が生涯の師とした内村鑑三の書いた文章に「ゼントルマンの為さざること」と題した箇条書きがあり、それを父文之助が七平に読んで聞かせていたためと思われる。

一、ゼントルマンは人をその弱気に乗じて苦しめず。
─、人に悪意を帰せず
─、人の劣情に訴えて事を為さず。
─、友人の秘密を公にせず
─、人と利を争わず
─、人の深切を蔑ろにせず。
─、人の自由と平和を妨げず
─、殺生を好まず
─、自己を宣伝せず
─、自己の為し得ることを他人に為さしめず。

少年時代の七平の印象は、よく言えば「おっとりしていた」で悪くいえば「ボンヤリでポカンとしていた」という
新聞を読み始めたのがやっと中学三、四年の頃で、それは父が内村鑑三の言葉を引用し、新聞を読むことは「この世に仕える」ことになるので、その暇があったら聖書を読みなさい、と諭したためだという。

また、当時の”テレビ”だった「少年倶楽部」を購読することもなく「のらくろ」も「冒険ダン吉」も長い間知らなかった。従って、当時の「立身出世」の社会的風潮とも無縁だった。こうした少年時代の山本七平と”評論家”時代の”山本七平”はすぐには結びつかないが、山本七平自身はこのことを次のように説明している。

「幼いときから、社会に対して目を開けとか、社会に関心をもてとか言われる教育は、何かが間違ってるであろう。・・・「社会を恐れることは知識のはじめなり」で始まり、新聞という「俗人の聖書」で育てられ、「社会」が唯一絶対の律法になる。だが、そう育てられたからと言って、その人がこの世の勝者になるわけではなく、それによって社会が改良されるわけでもないであろうに──私には、その人たちのこの”信仰”が不思議である。」「世間」とか「世評」を絶対とすれば、それを失うまいとしてその奴隷になる。その逆になれば、この地において自由であることができる、と。

目立たない存在だった七平が級友目を引いたのは、その頭の人並み外れた大きさで、級友たちは「あいつの頭の外周はカント以上だそうだ」と囁きあった。
昭和4年
(1929)
8歳 七月二八目、神奈川県中郡国府村月京に避暑に行く(~八月五日)。山中大成牧師の子、正や、鈴木幸と遊ぶ。
九月一三、一四日、岡本の「学級要録」の「尋二男、夏休成績展覧会出品物目録」の山本の項に「蒐集品:水成岩。手工:切抜四。僕の好きな玩具:帆かけ舟、車。僕の好きな本:キンダーブック」とある。
昭和5年
(1930)
9歳 七月一七日、岡本の「学級要録」に「昨春より日曜日毎に約二キロの野外徒? を家族一同で試みたり(厳冬盛夏はぬき)」とある。夏、神奈川県中郡国府村月京に避暑に行く。
昭和6年
(1931)
10歳 夏、久里浜の春木家に避暑に行く。借りていた離れは、八畳、トイレの平家。台所、風呂は母家と兼用。春木家の清、えいじとよく遊んだ(~昭和八年ごろまで)
昭和7年
(1932)
11歳 父、文之助の勤め先第一土地建物㈱が倒産。八○人の社員は辞めたが文之助を除く数人の幹部は、台湾にある親会社の台湾土地建物㈱に移った。文之助のみ支配人として東京、銀座の第一土地建物㈱に残る。倒産後の社員は、倒産前社員だった男性の事務員一人と清掃担当の彼の妻(夫婦で住み込み)及びタイピスト。第一土地建物館ビルの玄関と応接室、事務室を使い、他の部屋は賃貸。その賃貸業と日本各地に持っていた不動産の処分が主な仕事であった。
尋常五年学習発表会で山本は一二人の級友と共に「火鉢の理科実験」を発表。
昭和8年
(1933)
12歳 小学校の父母面接に当時、東洋英和女学校高等女学科五年たった姉、信子が出席。学級担任の岡本佐吉より「七平は成績が悪い」と言われる。母親は、山本が大きな才能を持っていると信じていたので、父母会に行きたがらなかった。一一月二九日、六年一組の創作集「はなかご」に「冬来る」を書く。
昭和9年
(1934)
13歳 三月、青山師範学校附属小学校卒業。
四月、青山学院中学部入学。青山学院教会の日曜学校に通う(五年間通い皆勤賞をもらう)。YMCAの緑信会に入会。七平は中西實、酒井裕、神戸英雄、西村一之、金子光嘉、大友榮一らと仲良くなり、七人組と称す。
[青山学院中学時代] 出典:『静かなる細き声』
一二月二二日、父の姉、西つぐ芦屋にて死去。享年五六歳。(後略)
昭和10年
(1935)
14歳 三月二八日、妹、舟子が継ぐ人のいなくなった西家を相続。母、八重とともに三輪崎に挨拶にいく。西家の位牌が芦屋から送られて来ると、父、文之助は位牌に書いてある記録を過去帳に写し、位牌を信子に庭で焼かせ黙ってみていた。文之助は、文之助の兄、姉の戒名を並べて彫った墓を三輪崎に建てた。字は姉、信子が書く。
昭和11年
(1936)
15歳 このころ角源泉夫妻が三軒茶屋の家に戻ってくる。東京に戻ってからは弁護士の仕事が忙しかった。五島慶太の仕事もしていたという。
青山学院中学部三年の年間行事。「四月二日、始業式。三日、神武天皇祭。一八日、全学年野外行軍。二三日、野外教練。二七日、靖国神社臨時祭。二九日、天長節。三〇日、体格検査。五月一日、野外教練。五日、春季修学旅行。二七、三〇日、考査。六月四日、野外教練(明日にかかる)。二四日、狭窄射撃。七月二日、父母会。九、一四日、考査。一五、一七日、休業。一八日、終業式。九月五日、始業式。二一日、野外教練。二三日、秋季皇霊祭。一〇月一五、一六日、秋季修学旅行。一七日、神嘗祭。二七日、野外教練。三〇日、考査。一一月二日、考査。三日、明治節。五日、明治節奉拝式予定。一六日、創立記念日。二三日、新嘗祭。一二月一五、一九日、考査。二三日、終業式、クリスマス。二五日、大正天皇祭。昭和一二年一月一日、新年拝賀式。八日、始業式。二月一一日、紀元節。三月一三日、考査。二三日、終業式」
昭和12年
(1937)
16歳 二月一三日、大叔母、角はつね死去。
このころ青山学院教会で勝部武雄牧師より受洗。
夏、YMCAの山中湖のサマー・キャンプに参加。参加者は五〇人位。期間は一週間。朝六時起床、パンツー枚で山中湖に入る。朝食前に祈祷。体操、讃美歌、聖書講義の時間あり。夜はキャンプファイヤーの周りを囲んで聖書講義。キャンプ場の端に森があり、山本はその森を「哲学の森(フィロソフィー・ウッズ)」と呼んだ。このキャンプは毎年あったが、参加したのはこの一回だけ。
七平は、クリスチャンの家庭に育ったので、「受洗」も義務教育の卒業式のようなものであった。日曜学校は青山学院中等部卒業まで無欠席でそれが「日常の生活化」していた。

その最終学年の時、教団が河口湖で行う夏期「日曜学校教師講習会」に参加し、生涯忘れ得ぬ三つの講義を聴いた。特に、聖書学的視点から、聖書の物語を、「ギルガメシュ叙事詩」との対比で論じる片桐の講義と、比較宗教史という視点から日本の宗教─神仏習合を基礎とする宗教、それが平田篤胤を経て”神がかり的超国家思想”に発展─を見る比屋根の講義は、その後の「山本学」の誕生に重要なヒントとなった。昭和45年、前者の翻訳本が山本書店から出版されている。また、後者の「思想的系譜」をたどる仕事は『現人神の創作者たち』に結実した。


昭和13年
(1938)
17歳 卒業アルバムによる青山学院中学部五年の行事。一○月八日、東京府連合演習。一〇月ニ八日、漢口陥落の朝提灯行進。一一月六日、査閲。一二月四日、故石田教官の英霊ヲ芝浦に迎フ。五日、慰霊祭。◎旅行、北海道組・関西組。◎山中湖畔生活。◎集団勤労」
六月六日~一三日、修学旅行は北海道コース。参加者、一五〇名。山本は第二小隊第一二班。小遣、五円。旅程、上野-青森-函館-小樽-定山渓-豊平-苫小牧-登別-長万部-函館-青森-松島-仙台-上野。
夏、河口湖の「夏期日曜学校教師講習会」に参加。片桐「ギルガメシュ叙事詩と聖書との関係」、西阪「聖地の地理と歴史」、比屋根安定「比較宗教学」の講義を聞く。この三つが生涯の主題となった。
十二月、青山学院の教会の日曜学校のクリスマス劇で、トルストイ『靴屋のマルチン』の脚本を書く。二階の山本の部屋は本棚に囲まれており、畳の上にも本が積んであった。このころの山本の本棚──『共産党宣言』に伏字なし(当時発刊されたものは伏字だらけ)。小説類は少なく、古書や哲学、キリスト教、共産党関係の本が多い。ドストエフスキー、ツルゲーネフ、プルターク『英雄伝』、カン卜、ヘーゲルなどをよく読んでいた。また内村鑑三全集、藤井武全集(詩に感銘を受けた)、父が購読していた塚本虎二の「聖書知識」も読んでいたため、聖書の知識は豊富。
昭和14年
(1939)
18歳 三月五日、青山学院中学部卒業。
四月十二日、青山学院高等商業学部入学。一学年無試験編入。
学籍簿によると以下の通り。「所属団体-宗教部。宗教-クリスト教(本人)、クリスト教(家庭)。自己の短所-我儘・傲慢。自己の長所-(克己勉励と書いた上に線を引いて消している)。趣味-読書、散歩。席次は二年、一三四人中五〇位、一四一人中六六位。三年、一三四人中六二位、一三五人中七一位、一四四人中七二位」
昭和15年
(1940)
19歳 また青山学院高等部の大学昇格運動をする。読書は歴史書を中心に随想、箴言集など。夏、軽井沢の不二屋でアルバイトする。
昭和16年
(1941)
20歳 夏ごろ新しくできた射撃・銃剣術部に入部。 七平は軍事教練には身を入れなかったが、銃剣術の練習には熱心であった。
昭和17年
(1942)
21歳 四月、繰り上げ卒業が発表になる。
五月一日、富士山麓廠営生活。卒業後、新聞記者を希望していたので、角源泉に、朝日新聞社、石井光次郎あての紹介状を書いてもらって会いに行ったが、新規採用はしないということだった。五月ごろ、大阪商船の入社試験を東京本社で受け、即日発表、合格。
六月、徴兵検査、第二乙種合格。七月二五日、「青山評論」七月号、第三三号(青山学院報国団総務部発行。編集委員は山本七平、木下和信ら)に「歴史的に見たる先批判期の二小論文について」を掲載。
八月一四日、角源泉死去、享年七〇歳。源泉は亡くなる前、全ての借金を片付けるため三軒茶屋の土地を処分。このため山本家は世田谷区上北沢町一丁目八二番地(経堂の家)に引越す。
八月二一日、角源泉の葬儀が大久保の借家で行われる。
九月二一日、青山学院高等商業学部卒業。九月、大阪商船の入社式が東京で行われる。三輪崎に墓参に行く。
九月三〇日、庭で家族全員の写真をとる。
家族写真(昭和17年9月30日)
出典:『怒りを抑えし者』
一〇月一日、東部一二部隊近衛野砲三聯隊に入営。肋膜炎の既往症があるため、保護兵を集めた「特別訓練班」に入る。
本ページ「戦歴」サイトを参照
昭和18年
(1943)
22歳 幹部候補生試験で「甲種幹部候補生」となる。二月一五日、豊橋第一予備士官学校砲兵生徒隊十榴中隊第一区隊に入学。
暮れごろ、見習士官で原隊復帰。
本ページ「戦歴」サイトを参照
昭和19年
(1944)
23歳 四月、転属命令を受ける(第一〇三師団の本部要員)。五月二日、帰省。五月二九日、下関で輸送船に乗りフィリピンヘ。六月一一日、バシー海峡を通る。六月一五日、マニラ上陸。
七月一日、予備役野砲少尉任官。七月一〇日、第一○三師団砲兵隊(通称号:駿一七六一九部隊)編入。
妹・舟子と(昭和19年5月2日)
出典:『怒りを抑えし者』
本ページ「戦歴」サイトを参照
昭和20年
(1945)
24歳 五月、駿、第一〇三師団主力転進に従って残留の湯口支隊編成。〈うち歩兵第八○旅団砲兵隊の編成内容〉人員:隊長以下七〇名。兵器弾薬:九四式歩兵砲二門、同弾薬二〇〇発。職員:隊長関田助治大尉、小隊長山本少尉、石川少尉、段列長嘉准尉。所在地:北部ルソン、サンホセ盆地。
七月二〇日、ツゲガラオ飛行場確保の軍令に接し転進。
八月二七日、降伏命令来る。ニ八日、ダラヤでアメリカ軍の軍医に会う。
九月一二日、タタイにおいて武装解除、アパリ収容所に入所。
九月一五日、貨物船に乗りマニラヘ。九月一八日、マニラ上陸。夜カンルーバン捕虜収容所に入所。捕虜ナンバー:1st1t 九〇五二五 二g。
一〇月ごろ、第四コンパウンド将校中隊へ。四コンの木工所の通訳をする。時々、熊の置物などを彫って米兵に売る。
本ページ「戦歴」サイトを参照
昭和21年
(1946)
25歳 一二月二三日、最後の帰還船に乗り、マニラ出港。一二月三一日、九州、佐世保に到着。
昭和22年
(1947)
26歳 一月一日、佐世保近くの南風崎(はえのさき)に上陸。一月、帰宅。二月ごろ、吉野、川上村武木の加藤工匠宅を訪れる。このころ、新宮の玉置酉久家、長島の大川家、福岡の里見家なども訪ねる。
五月二九日、吉野川木材株式会社登記。住所:奈良県吉野郡川上村大字武木一二一二。目的:山林売買・植林・伐採並びに製材加工など。資本総額:十六万円。一株の金額一〇〇円。各種株式の内容及び数:普通株一六〇〇株。取締役:山本七平、加藤工匠、上林富久。会社を代表すべき取締役:山本七平。監査役:山本文之助。山本は役所まわりなど事務を担当。加藤は製材・建築担当。取引銀行は川上村、迫にある南都銀行。電気の供給が充分ではなく、加藤工匠が作った大型水車の水力を使い木の運搬などもしていた。
一〇月一目、妹を亡くした友人、木下和信に川上村から激烈な封書を出す。
休職扱いとなっていた大阪商船は大半の船が沈められて復職できず、そこで捕虜収容所時代に知り合った加藤との共同経営で吉野に製材工場を設立しそこに居住した。戦犯の悪夢から逃れるためでもあった。この頃、友人の木下に出した手紙には「人ヤ神ニ慰メヲ求ムルハ愚ダ」との文面も見られる
昭和23年
(1948)
27歳 一月一二日、妹、舟子、東大病院第一内科に入院。
一月一五日、吉野より東京へ戻る。
三月八日、姉、信子に「舟子ハ駄目デス」と手紙を出す。
三月二〇日、妹、舟子胃ガンで死去。享年二三歳。
三月二一日、妹、舟子の前夜式が姉、信子の帰京を待って行なわれる。二四日、告別式。(司式はともに田村幸太郎)。父、文之助はお墓を三輪崎から東京、小平霊園に移す。四月ごろ、ブリタニカ百科事典のセールスをする。
六月五日、友人、木下和信にハガキを出す。「四月一〇日より何となく気分勝れず、微熱、背部鈍痛を覚る…四月二〇日当地を出発、吉野に参る可く思考仕侯処、先地の無医村なることを考へ幾分心配にや、帝大で診察を受けし処、右肺の若干悪化しあるを認められ1ヵ月静養と再検査を申し渡され候・・・五月二五目、レントゲン検査にて右肺悪化しあり。当分静養を要すとの診断を受け日(ママ)下静養中」。
妹船子の看病のため東京に帰る。癌のため余命幾ばくもないことを知る。「心ノ中ハカキムシラレルヨウニ悲シク、而モ顔デ笑ッテ、過ゴシマシタ」といい「死刑ノ宣告ガ死ヨリモオソロシイ」こと。それを自分は「比島デコノオソロシイ経験ガアル」と告白している。おそらく、バガオの戦闘で砲離脱の嫌疑を受けて出頭を命ぜられた時のこと(銃殺刑の恐れがあった)を指しているものと思われる。
昭和24年
(1949)
28歳 二山会事務所勤務(二山会は出版の円滑な流通をはがるため本を作る版元会員〈梓会〉と小売会員〈全国の有志書店〉で構成された共同の販売・研究事業団体。しかし日配が解体され流通が自由になったので、二山会は自然解消する。二山会、梓会ともに事務局長は岩崎徹太)。当時二山会は岩崎書店内にあった。五月十五日、「出版ダイジェスト」創刊。発行所:千代田区神田神保町一―六五 二山会。編集・印刷・発行人:森山甲雄。「出版ダイジェスト」は昭和二五年一月二一日、一九号まで二山会で発行。山本は編集を担当。題字は長崎次郎が書く。一二月、二山会(梓会)事務所が目黒書店四階に移る。所長は芦沢吉雄、他に山本・近藤真次郎ら。 右肺悪化で療養が必要なため無医村の吉野に帰ることは断念した。そこで本が読める職業ということで出版界に入り編集・校正を担当するようになった。
昭和25年
(1950)
29歳 二月一日、「出版ダイジェスト」(梓会出版ダイジェスト社刊、住所:東京都千代田区神田駿河台三─一)二〇号より編集・印刷・発行人となる。月三回発行(~昭和二六年二月一日、五七号まで。
秋ごろ、東大病院の第二内科で第一回の胃の手術をし、胃の三分の二を切りとる。両親は山本が戦場から奇跡的に帰って来たことを喜んでいたが、この時はモルヒネ中毒で廃人になることを大変心配した。
収容所時代に持病となった胃痙攣は生涯の病となり、ついにはモルヒネも効かないほどの痛みに苦しめられることになる。
昭和26年
(1951)
30歳 三月一日、福村書店入社。 担当は総務・営業。刊行本を押し込む仕事もした。
昭和27年
(1952)
31歳 このころ、福村書店で総務と業務を担当。頭を丸刈りにしていた。
昭和28年
(1953)
32歳 一月、福村書店退社。 フリーとなって岩崎書店、一ツ橋書店などの出版物の校正をした。主に教科書の校正をやり、ここで教科書制作の実態を知った。
昭和29年
(1954)
33歳 二月、寶田れい子(二六歳)と見合いする。場所は目黒区柿ノ木坂の田村幸太郎の家。
幸太郎の長男、忠幸は山本と青山師範学校附属小学校、青山学院高等商業学部で同窓。また昭和一八年、田村忠幸が外地へ出発する際、軍務で働いていた山本と品川で会う。山本が休暇で自宅に帰った際、母、八重にその事を伝え、母がそれを田村家に伝えに行った(当時、兵士が派遣される先は秘密だったので、手紙や電話で伝える訳にはいかなかった)。田村家の人々は感激し、それ以来親しくなった。寶田れい子の母、あいと忠幸の母、忠子は姉妹の関係。田村幸太郎、忠子夫妻は山本の姉、信子と里見安吉の仲人も務めている。婚約にあたって山本とれい子は仲人の田村夫妻に誓いの言葉を提出している。山本のものは次の通り。
「婚約にあたりて」
山本七平
主にありて   
「ねがわくは汝 わが母の乳をのみし わが兄弟の如くならんことを」
「われ汝をひきて わが母の家にいたり 汝より教誨をうけん」(雅歌八章)
「賢くことをなす女子は多くあれど ただエホバを畏るる女子は誉められん」(詩三十一篇)
「エホバを畏れ道をあゆむもの なんじは福祉と安処におるべし」(詩百二十六篇)
さらばアダムによりて言える如く
「これこそわが骨の骨、肉の肉なれ その故に人はその父母とはなれ 汝の妻に好合(あ)いて一体となり」(創世記二章)
「その妻は家の奥にありて おおくの宝をむすぶ葡萄の如く 汝の子等は筵にまどいて 橄攬の若木の如くあるべし」(詩篇百二十八篇)
アーメン
九月、山本七平訳、ミハイル・イリン著『人間の歴史』─少年人間の歴史双書1巻─を岩崎書店より刊行。一一月七日、寶田礼子と結婚式を拳げる。場所は青山学院のチャペル。

一一月、新婚旅行は一日目湯河原、二日目今井浜。両親と同居。このころフリーで岩崎書店、一ツ橋書店、江南書院の仕事をする。生活パターンは午前四時ごろまで仕事をし、一二時ごろまで寝て、食事をしたあと神田に行き、夜八時ごろ帰宅。一一月、山本七平訳、ミハイル・イリン著『文明の歴史』―少年人間の歴史双書3巻─を岩崎書店より刊行。
れい子が「定職にも着かず、胃の手術を受けた後も胃の具合が悪いままで、結核も完治しておらず、抗生物質のPASを飲み続けている病身の山本と結婚する意思をれい子が固めたのは、山本が聖書に関する出版を志していると聞いた母あいの『そういった方はとても貴重なお人だから』という強い勧めもあったが、山本が耳の聞こえない少年の自立のために、校正の仕事を教えているという話を聞いたからであった。『そんなことは、愛情と忍耐とよほどの思いやりがなければできない。この人はどこか普通の人とは違っている』と感じ、また米軍の教会で五年間、みなに可愛がってもらったお返しを何とか社会に還元しなければならないと考えていた矢先、この人と力を合わせて聖書関係の出版をするのが、その良い機会かも知れないと思ったからであった。」
元号年(西暦) 年齢 履歴 山本書店刊行本 エピソード他(雑誌連載・単行本)
昭和30年
(1955)
34歳 七月ごろ、胃の手術を錦糸町の賛育病院で受ける(三分の一残っていた胃を全摘)。
家族写真(昭和30年ごろ)
出典:『怒りを抑えし者』
五月、山本七平訳、ミハイル・イリン著『ルネッサンス』―少年人間の歴史双書4巻―を岩崎書店より刊行。 二冊目の翻訳本。出版計画は着実に進行していた。
昭和31年
(1956)
35歳 三月三〇日、山本七平訳、N・J・ベリール著『生物の生態』を山本書店の名で初めて刊行。発行者:岩崎徹太。山本書店の住所:東京都世田谷区上北沢町一丁目八二番地。
七月二五日、山本七平訳、A・ノヴィコフ著『からだの科学』を山本書店より刊行。発行者:山本れい子。
山本書店名で初めて出版されたこの本は売れ行き不調で、山本は生計を支えるため、校正のアルバイトの精を出した。しかし資金繰りは大変で、大晦日には一文無しになることが多かった。
昭和33年
(1958)
37歳 八月三一日、長女誕生。しかし生後四時間の命。男子なら「イサク」、女子なら「みな子」(御名をあがめるの意)とつける予定だった。 一一月一〇日、山本七平訳、ウェルネル・ケラー著『歴史としての聖書』を山本書店より刊行。発行者:山本れい子。 本命であった聖書関係図書の初めての翻訳出版である。本は好評で予想外に売れた。
      『聖書の生いたち』F・ケニヨン山本七平訳   
昭和35年
(1960)
39歳 二月九日、長男、良樹誕生。名前は聖書の創世記一一章九節「エホバ、良き樹を植えたもう」からつける。  『ルターの根本思想とその限界』髙橋三郎(1.10) 山本書店の出版も軌道に乗り、発行した本も十数冊を数えるようになった。
      『死海写本』ミラー・バロウズ新見宏/加納政弘訳(12・1)  
昭和38年
(1963)
42歳 四月九日、母、八重、食道ガンで死去。享年七二歳。葬儀は鶴田雅二(無教会の伝道者)が司式。小平霊園に墓碑を建てる。墓碑銘は「吾等之高櫓也」。字は父、文之助が書いた。
九月三〇日、山本書店の倉庫が完成し、製本所などに預けていた在庫を運びこむ。
一〇月三日、自宅兼山本書店火災に遭う。火災後山本一家は、寶田あいが住んでいた目黒区中根町一九五の今井館に移り住む。父、文之助は姉、信子の家へ。山本書店は一橋書店(米林友夫社長)の二階にて営業。
経堂の自宅の焼跡にて(昭和38年10月)
出典:『怒りを抑えし者』
『復刻 死海文書』日本西初学研究書(7.25)
『清教徒』石原兵永(12.18)
倉庫完成の三日後、経堂の家(築40年以上)の玄関脇の書斎の天井から火が出て家だけでなく倉庫の在庫本も蔵書も全焼した。七平は燃えさかる家に近寄り「転んだら起きればいいんだ」と腹わたを振り絞るような声で三度叫んだ。当時三歳の良樹が怖がったため、新しい土地と家を探すことになった。
昭和39年
(1964)
43歳 一〇月、火災跡の土地を売り、神奈川県鎌倉に自宅を建てる。(寶田あいが鎌倉山で主宰していた聖書研究会に来ていた青山女学院時代のクラスメート長谷川和子〔林不忘の妻〕が譲ってくれた土地)。また東京都新宿区市谷の中古の建物を購入、山本書店とする。 三月二十五日『概説 聖書考古学』G・E・ライト山本七平訳発刊
『イエス時代の日常生活』ダニエル・ロブス波木居斉二訳(11.5)

*後浅見定雄氏に誤訳を指摘された。
長男良樹の回想では週に一度だけ鎌倉の家に帰ってきて、終末をベッドで寝て、日曜の午後、山本書店へと向かったという。

 昭和40年
(1965)
    『キルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳(7.30)
『ダンテ神曲解説』里美安吉(2.1)
 
 昭和41年
(1966)
     『死海写本とキリスト教の起源』マシュウ・ブラック新見宏訳(6.1)
『聖書の世界』アルフレッド・レップル増田和技訳(6.15)
 
昭和42年
(1967)
46歳 五月一七日、父、文之助死去。享年八五歳。葬儀は鶴田雅二が司式。        『旧約聖書の人びとⅠ』F・ジェイムス山本七平訳(9.20)~Ⅳ(68.6.20)発行  
昭和43年
(1968)
 47歳    『聖書のイエス伝』鈴木寅秋訳編(3・15)  
昭和45年
(1970)
49歳   五月一○日、イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発刊。定価六四〇円。 初版は2,500部であり、それほど売れるとは思っていなかった。一切宣伝はしなかったが口コミで外務省の地下本屋で売れ初め次いで通産省、売れ筋は霞ヶ関から大手町ビジネス街に飛び火。山本はその煩雑さに耐えかね75万部ほど出したところで文庫本にしたいと申し出た角川書店に版権を譲渡した。
昭和46年
(1971)
50歳 三月一九日、『日本人とュダヤ人』が第二回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。選考委員:臼井吉見、扇谷正造、開高健、草柳大蔵、池島信平。同時受賞、鈴本俊子著『誰も書かなかったソ連』。賞金:一〇〇〇ドル(相当)。副賞:日航機による世界一周券。贈呈式にはジョン・ジョセフ・ローラーと共に出席。会場は新橋第一ホテル新館宴会場。山本の証言では、この時、もう一人の著者ミンシャ・ホーレンスキーも参加していたという。
授賞式にて(昭和48年4月21日)
出典:『怒りを抑えし者』
七月、「文藝春秋」八月号に山本七平の名で初めてエッセイ「ベストセラーは悪女の深情け」掲載。
九月一日、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』を山本書店より発刊。
『日本人とユダヤ人』がベストセラーとなる
この頃より著者捜しが始まったが、本人は自分には著作権はないとして著者であることを否定した。
本多勝一朝日新聞「中国の旅」に「競う二人の少尉」掲載(46.11.5)
『諸君』5月号イザヤ・ベンダサン「日本教について」~翌年10月号連載
昭和47年
(1972) 
51歳 『身近に接した内村鑑三(上・中・下)』
三月、「文藝春秋」四月号に「なぜ投降しなかったのか」を掲載。
『レバノンの歴史』フィリップ・フーリー・ヒッティ小玉新次郎訳(4・25)
『神との出合い』石原兵永著作集1(6.25)
『パウロの生涯』石原兵衛著作集2(8.15)
『マルコ福音書注解』9.15
『新訳正典のプロセス』蛭沼寿雄(10.20)
『聖書の思想・歴史・言語』日本聖書学研究書(11.25)
『諸君』1月号イザヤ・ベンダサン「朝日新聞のゴメンナサイ」で本多勝一と「百人斬り競争」をめぐる論争始まる。
『諸君』四月号鈴木明「南京大虐殺のまぼろし」掲載。
『文藝春秋』四月号「なぜ投降しなかったのか」を掲載。
『諸君』八月号山本七平「岡本公三を生んだ”日本軍内務班”」~1974.4月号連載(単行本書名『私の中の日本軍』)

『文藝春秋』「日本人と中国人」47年~49年まで断続的に連載
昭和48年
(1973)
52歳 「文語春秋」に連載した「ある異常体験者の偏見」で第三五回、文藝春秋読者賞受賞。山本は「読者は公平でフェアに選考してくれるから」とこの賞を何より喜んだ。
受賞祝い(昭和48年5月)
出典:『怒りを抑えし者』
五月二〇日、岩隈直訳、『希和対訳脚註つき新約聖書1マルコ福音書』を山本書店より発刊(~平成二年に完結。一九冊出版)
『バベルへの挑戦』6.25
『ミトラス教』M・Jフェルマースレン小川秀雄訳(10.10)
『諸君』「ベンダサン氏の日本の歴史」1月号以後22回連載

『日経流通新聞』「日本の商人」5.16~9.26連載
昭和49年
(1974)
52歳 自宅を鎌倉から千代田区一番町へ移す。
一〇月一日、吉野川木材㈱解散。
『週刊文春3月18日号』「小野田元少尉に日章旗と白旗を」*彼がいると思われる地点に、日章旗と白旗を持った人間が一人か二人行き、「動かず」に、根気よく待てば、それで十分である。戦場では、多人数は警戒されるだけである白旗を見つければ、必ずそこへ出てくるであろうし、白旗に向かって射撃することは先ず考えられない。その上で、十四方面軍の停戦命令を示せばよい。これは、彼が戦闘を停止し、軍使の指示に従っても何ら法的に責任を問われないという「保証だからである。 『野性時代』「日本学入門」イザヤ・ベンダサン(後『日本教徒』)5月号~50年2月号連載
昭和50年
(1975)
54歳 九月、昭和天皇の訪米に合わせ「週刊朝日」の仕事でアメリカヘ初めて渡る。妻、れい子を通訳として同伴。
山本書店にて(昭和50年代)
出典:『怒りを抑えし者』
『マサダ―ヘロデスの宮殿と熱心党最後の拠点』YA・ヤディン田丸徳善訳(3.10)
『苦難の僕』中沢洽樹(3.25)
六月一五日、フラウィウス・ヨセフス著、新見宏訳『ユダヤ戦記1』を山本書店より発刊(~昭和五九年までヨセフスの全集(ユダヤ戦記 全3冊、ユダヤ古代史、旧約時代編全6冊、新訳時代編全5冊、アピオーンへの反論、自伝)新見宏/秦剛平訳]を16冊出版)。
『野生時代』「敗戦21ヶ条」4月号~翌年4月号連載
『週刊朝日』「一下級将校の見た帝国陸軍」7.18日号~9月26日号連載
『存亡の条件』
12.4
『週刊朝日』「日本人とアメリカ人」序章10.24
昭和51年
(1976)
      『週刊朝日』「日本人とアメリカ人」第一章1月2日号~2月20日号連載
『日本人と原子力』12.15
昭和52年
(1977)
56歳 自宅を千代田区一番町から四番町へ移す。 
秋、TBSブリタニカ「国際年鑑一九七八年版」の取材でイスラエルに妻、れい子とともに初めて行く。
『旧約聖書学と共に(上・下)』関根正雄(2・28、7.15)
『聖書の足跡』L・Eネルソン清水氾訳(3.1)
『宗教と歴史』脇本平也(9.25)
『対談 日本人と聖書』1.20
『信徒の友』「静かなる細き声」(原題:私の歩んだ道)4月号~56年3月号連載
『諸君』「洪思翊中将の処刑」1月号~54年2月号連載
『空気の研究』4.1
『現代の超克』5.19
昭和53年
(1978)
57歳 妻、れい子、長男、良樹と共に三輪崎に行き、父、文之助の骨を海に流す。暮れ、NHK特集「聖地からの日本人論―山本七平イスラエルをゆく―」の取材で、妻、れい子とともにイスラエルに行く(~昭和五四年一月)。 『旧訳時代の日常生活』アンドレ・シュラキ波木居斉二訳(11.15)
『初代キリスト教徒の日常生活』アダルベール・アマン 波木居斉二訳(12.20)
『VOICE』「勤勉の哲学」1月号~12月号連載
『受容と排除の軌跡』3.7
『日本人の人生観』7.
昭和54年
(1979)
58歳 大平内閣のブレーンとして「文化の時代」研究グループの議長を務める。 『万葉人の宗教』大畠清(2.1)
『新しい命を求めて』関根正雄/前田護郎編(6.30)
『バル・コホバ』第二ユダヤ反乱の伝説的英雄の発掘Y・ヤディン小川秀雄訳(12.15)
『文藝春秋』「聖書の旅」1月号~12月号連載
『日本人的発想と政治文化』8.20
『日本資本主義の精神』11.5
昭和55年
(1980)
59歳
エルサレム(1980年代)
[エルサレム] 出典:山本れい子氏提供
『予言者とメシアの研究』大畠清(2.10)
『わたしの歩んだ道―戦前・戦中・戦後―』石原兵永(9.30)
『諸君』「イデオロギーと日本人─現人神の創作者たち」1月号~57年3月号連載
『週刊読売』「時評にっぽん人」7.7~翌年6.21連載
『日本人と「日本秒について」』9.5
『聖書の常識』10.1
『「あたりまえ」の研究』10,9
昭和56年
(1981)
60歳 「日本人の思想と行動を捉えた『山本学』」により第二九回菊池寛賞受賞。 『聖書とアメリカルネサンスの作家たち』中沢生子(8.5) 『VOICE』「日本近代思想の源流」1月号より翌6月号まで連載、単行本『日本的革命の哲学』に改題
『空想紀行』5.12
『聖書の旅』7.30
『日本教の社会学』8.17
『常識の研究』8.20
『論語の読み方』11.30
『時評「日本人」』12.14
昭和57年
(1982)
60歳   『信仰短言』石原兵永(6.15) 
『イエス時代―「智恵」の系譜』大畠清(7.30)
『宗教現象学』大畠清(9.1)
『続々忘却と想起』中沢洽樹(10.30)
『日本人の社会病理』11.7
昭和58年
(1983)
62歳 四月、PHP研究所「世界を考える京都座会」にコアメンバーとして参加。 『エブラの発掘』ハイム・バーマント/マイケル・ヴァイツマン矢島文夫監訳(9.10) 『1990年の日本』6.30
『人望の研究』9.25
『帝王学』11.25
昭和59年
(1984)
63歳 臨時教育審議会、第一部会「二十一世紀を展望した教育の在り方」で専門委員。 『カナン人とアモリ人』K・Mケニヨン小川秀雄訳(8.10) 『VOICE』「近代の創造」1月号~61年3月号まで連載(60年4月号は除く)
『西暦2000年そのとき日本は』3.12
『山本七平の旧約聖書物語』9.25
『色即是空』の研究10.25
『人間として見たブツダとキリスト』10.31

『山本七平 全対話』8巻1084年~85年刊行
昭和60年
(1985)
64歳   『聖書とオリエント世界』宗教史学研究所編(5.10)
『キリスト教徒教育』11.30
『ヨセフ・ヘレニズム・ヘブライズム』L・H・フェルトマン秦剛平編(12・15)
『派閥』5.15
昭和61年
(1986)
65歳
出版記念(昭和61年)
出典:『静かなる細き声』
『ハツォール―聖書の語る巨大な城塞都市の再発見』石川耕一郎(7・25)
『ユダヤ人から見たキリスト教』D・フッサル/G・ショーレム手島勲矢訳編(7・31)
『古典解釈と人間理解』岡野昌雄(9.5)
『協会史1』エウセビオス 秦剛平訳(12.25)
『指導力―宋名臣言行録』1.24
『「洪思翊中将の処刑」』1.30
『現代の処世』4.17
『小林秀雄の流儀』5.20
『常識の非常識』5.23
『御時世の研究』5.30
『プレジデント』「徳川家康」10月号~翌年3月号まで連載
『危機の日本人』10.25
『参謀学―孫子の読み方』11.20
昭和62年
(1987)
 66歳   『解釈学とは何か』ヘンドリック・ビールス編武田純郎/三国千秋/横山正美訳(4.25)
『新訳本文学史』蛭沼俊雄(6.30)
『協会史2』エウセビオス秦剛平訳(9.30)
『聖書の発掘物語』小野寺幸也(10.15)
『日本型リーダーの条件』4.23
『統率力が組織を燃やす』11.5
『一つの教訓・ユダヤの攻防』11.25
昭和63年
(1988)
67歳   『歴史の中のイエス』岸田俊子(4.25)
 『協会史3』エウセビオス秦剛平訳(9.30)
『経営人間学』1.22
『乱世の帝王学』3.15
『ビジネスマンのためのマーシャル』3.24
『週刊読売』「昭和東京物語」4月3日号~翌年12月31日号連載
昭和64年
・平成元年
(1989)
68歳 「山本学」と呼ばれる独自の評論などの顕著な活動により、和歌山県文化賞を受賞。 『イスラエル考古学研究』小川秀雄(7.25)
『ルターの根本思想とその限界』改訂版髙橋三郎(8.10)
『聖書の使徒と伝達』関根正雄先生喜寿記念論文集(11.7)
『天皇とわたし』E・Gヴァイニング 秦剛平訳(12.15)
『「常識」の落とし穴』1.23
『昭和天皇の研究』2.10
『総和天皇全記録』5.15
『日本人とは何か』9.4
『「派閥」の研究』9.10
平成2年
(1990)
69歳 五月、シリア、ヨルダン旅行、これが最後の海外旅行となった。
九月一五日昼、ホテルオークラで”カンヅメ”中に胃痙攣。
九月一九日、再び胃痙攣。
九月二〇日、飯田橋のK病院に入院。膵臓ガンと診断される。
一〇月一七日、築地の国立がんセンターに転院。一一月七日、国立がんセンターで午前八時から一六時間の手術を受ける。
『法律家の見たイエスの裁判』W.フリッケ 西義之訳(11.20) 『父の教え』10,5
『母の教え』10.5
『江戸時代の先覚者たち』10.19
『日本人の土地神話』12.23

癌とわかったとき、七平は壁に向かって「最初の胃痙攣の手術以来、こうして40年間も、生かされてきたんだ。これまでの人生はオマケなんだ。本当に感謝なんだよなあ、本当に、本当に感謝なんだよなあ」と何度も叫んだ。(『七平ガンとかく闘えり』p47)
平成3年
(1991)
70歳
自宅にて(平成3年12月7日)
出典:『怒りを抑えし者』
二月二四日、国立がんセンター退院。体重三八キロ。五月半ば、山本書店へ出かけられるまでに回復。
七月二〇日、体重四九キロに増える。
八月二四日、IBMの天城会議へ泊りがけで出かける。
八月二八日、四〇度の発熱。
九月二八日、ガン再発の診断。一二月九日、痛みの発作。
一二月一〇日午前八時ごろ、自宅にて死去。享年六九歳。一二月一一日、番町教会で前夜式。司式、番町教会牧師、大門義和。奏楽、杉浦啓。〈式次第〉奏楽/讃美歌一二二番「みどりもふかき」(愛唱歌)/聖書ヨハネ黙示録第二十一章一~四節/讃美歌三二〇番「主よ、みもとに」/祈祷/式辞、成瀬台教会牧師、迫川道子/弔辞、文藝春秋・東眞史、PHP研究所・北村正則、横川鍼灸院・横川太一/弔電/挨拶、山本良樹/讃美歌四八八番「はるかに、あおぎ見る」/終禱・祝禱/頌栄五四一番
「父、み子、みたまの」/後奏/告別(献花)
柩の中に入れた本……『東京─ニューヨーク 父と息子の往復書簡』(山本良樹共著、日本経済新聞社)、『歴史としての聖書』(ウェルネル・ケラー著、山本七平訳、山本書店)、『日本人とは何か。』(上)(下)(PHP研究所)、「文藝春秋」平成四年新年号。
一二月二六日 千日谷会堂で告別式。司式、銀座教会牧師、鵜飼勇。奏楽者、大竹海二(千葉・小倉台教会)。〈式次第〉前奏/讃美歌一二二番「みどりもふかき」/聖書創世記第一章一~三節、第二章一~四節、ヨハネ黙示録第七章九~一七節/祈禱/式辞/祈禱/讃美歌四八二番「なつかしくも」/弔辞、柳瀬睦男、深田祐介、小室直樹、中村紘子、柳田邦男/弔電/讃美歌四〇五番「かみともにいまして」/終禱/後奏/父に捧ぐ、山本良樹/挨拶、(友人代表)田中健五/告別。
『ヒッタイト王国の発見』クルート・ビッテル大村幸弘/吉田大輔訳(3・30)
『現代に生きる信仰』北星学園大学宗教部編(8.30)
『旧約遍歴』中沢洽樹(11.15)
ガン告知後も再発後も七平は闘う姿勢を崩さなかった。その温顔の印象とは異なり「一人で荒野に行け」「男は、なぐりあいの闘いができなければいけない」と長男の良樹氏に語っていたという。

がんセンター退院後は家族に囲まれた自宅療養を選んだ。四十度近い高熱、腹部のすさまじい痛みの合間にもユーモアを忘れず、11月には文春に頼まれて口述筆記をはじめた。排便に支障を来すようになってもトイレに行き自分で取っていた。「戦地のジャングルで戦友が亡くなる前に苦しむのは、皆、排便だったんだよ。自分は指で排便を手伝ってあげたよ。皆、アリガトウ、といって死んでいったんだ」

そんな中でも自分で歩こうとした。車いすに乗ったのは死の三日前、その時れい子夫人が最後の家族の写真を撮った。

12月9日の朝ぴくりとも動かなくなり午前11時医師は臨終を告げた。ところがその後棒のように硬くなった体に生気が戻り、語りはじめ、10時間近く「対話」がつづいた。ちょうどその日『東京─ニューヨーク 父と子の往復書簡』(山本七平・良樹、著)ができあがり七平は何度もさわって喜んだ。

翌12月10日朝七平は穏やかな顔をして、うっすらと目を開けて横たわっていた。
(『七平、ガンとかく闘えり』12.12より)
平成4年
(1992)
  五月、PHP研究所が「山本七平賞」を創設。
評論活動の他に拓殖大学客員教授、東京電機大学特別嘱託教授、新潮文学大賞審査員、講談社ノンフィクション賞審査員、文藝春秋大宅壮一ノンフィクション賞審査員、サントリー賞審査員、各務記念財団記念賞審査員なども歴任。肩書きは常に「山本書店主」であった。山本書店で出版した本は主に聖書学関連の書籍。生前、山本書店から刊行した本は二三〇冊余。
〈好きなもの〉絵………ゴッホ「古靴」、シャガール、ダービンチ「聖ヨハネ」、ドナテーロ「ガッタメラータの騎馬像」、音楽……モーツァルト、建築家……ライト、花……泰山木、スポーツ…ラクビー、乗馬、水泳 食物……カラスミ、タイ、ウルメイワシ、小魚、オリーブ、ウメボシ、わらびもち、趣味……イスラエル旅行(二五回)、美術館巡り、読書 座右銘……一日一生(内村鑑三の言葉)
〈データ〉
身長……一七ニセンチ
体重……五五キロ
靴のサイズ……二五・五センチ
血液型……A型
干支……酉
星座……射手座
墓所……東京都、小平霊園
散骨……聖都エルサレム
(細矢節子・作成)
  『民族とは何か』8.31
『徳川家康』11.20
『静かなる細き声』11.27
平成6年
(1994)
    『勝利の生涯』内村鑑三(6.1) 『人生について』11.25
平成7年
(1995)
    『心配無用』平沢彌一郎(7.5) 『論語の読み方』12.20
『宗教について』11.27
平成8年
(1996)
    『解釈学とは何か』5.31
『指導者の帝王学』11.15
平成9年
(1997)
  『怒りを抑えし者』5.1   『山本七平ライブラリー』4月~11月16巻刊行
『山本七平とゆく聖書の旅』12.10
平成12年
(2000)
    『宗教からの呼びかけ』1.20 『禁忌の聖書学』4.1
平成16年
(2004)
      『日本はなぜ敗れるか』3.10
平成17年
(2005)
      『日本人と中国人』2.10
『山本七平の日本の歴史(上・下)』3.7
『イスラムの読み方』9.10
平成18年
(2006)
      『危機の日本人』4.10
平成22年
(2010)
      『なぜに本は変われないのか』2.7
平成23年
(2011)
      『日本人には何が欠けているのか』4.5
平成25年
(2013)
      『日本教は日本を救えるか』イザヤ・ベンダサン1.9
平成26年
(2014)
      『「智恵」の発見』2.16
『日本はなぜ外交で負けるのか』7.11
『戦争責任と訳国問題』11.13
平成28年
(2016)
      『精神と世間と虚偽』3/12
 『戦争責任は何処に誰にあるのか』7.9
平成29年
(2017)
       『池田大作と日本人の宗教心』5.15