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ホームページリニューアルに際して
この度、「アシタネプロジェクト」さんの協力を得て、本サイトを全面的にリニューアルすることができました。従来、素人作成のページであり、私自身、昭和史研究に専念する必要があったことから、ページ作成が中途になっていたのですが、これを機に、「山本七平学」紹介のホームページとしての完成を目指したいと思っています。
山本七平の評伝としては、稲垣武さんの『怒りを抑えし者』以降、鷲田小彌太さんの『山本七平』、東谷暁さんの『山本七平の思想』が出ています。それぞれ専門的な学者、編集者の著作で、山本七平の学問的業績の卓越性を論じていますが、特に、鷲田氏については「ベンダサン=山本七平」説を訂正しているところ、東谷氏については「山本の軍隊経験におけるF軍曹の指摘の重要性」に言及しているところに共感しました。
山本七平は「非日本教徒的」日本人ですが、「非ユダヤ的ユダヤ人こそ真のユダヤ人」という言葉があるそうですから、山本七平こそ「真の日本人」といえるのではないかと思います。そういう逆説的存在であったためか、鷲田氏は21世紀になるまで山本の著作を読まず、東谷氏も、山本の『現人神の創作者たち』を読むまでは「山本の発言や作品にそれほど興味を持っていなかった」といっています。
その原因の一つが、「山本七平=ベンダサン」説だったのではないでしょうか。このことについてベンダサンは、「ペン・ネームは偽名でも匿名でもない。別名すなわち別人格を意味する名前である。従って作者すなわち作品により規定されるものはペン・ネーム氏であって・・・本人は『私は関係ない』(といえる自由)をもつものだけに、何かを書くことが許されていると私は思っている」といっています。
つまり、山本七平にとって「天皇制」や「ユダヤ人イエス」を論じることは、そうした自由な位置からしかできないことだったのです。実際、その後、山本七平に加えられた「プロテスタント系左派及び進歩的文化人」からの攻撃は執拗かつ激しく、1980年代以降「読まれなくなった」のもその影響かと思われます。しかし、山本七平は再び読まれるようになる。本ホームページがその一助となれば幸いです。
令和2年5月30日
ホームページ開設にあたって
昨年(平成18年)11月、「竹林の国から」というブログを立ち上げ、教育基本法改正問題次いで百人斬り競争裁判について山本七平の論考を紹介しつつ論じてきました。なんとか1年ほど続けることができましたので、いよいよ念願のホームページ「山本七平学のすすめ」の開設に取りかかったのですが、それにふさわしいコンテンツとすることは必ずしも容易ではありませんでした。
幸い、山本良樹氏(山本七平氏の長男)や稲垣武氏(「『怒りを抑えし者 評伝 山本七平』」の著者)及びPHP出版研究所の好意で、関連する著作物からの引用や転載を許可していただき、ようやく「年譜」や「戦歴」等のページを完成させることができました。これにより、断片的に語られてきた山本七平の生い立ちや戦争体験を、氏自身の言葉を通してリアルに追体験できるようになりました。
私が、山本七平を知ったのは、大学受験のため浪人中の昭和45年10月25日、ある雑誌の対談記事の紹介で『日本人とユダヤ人』を読んだことがきっかけでした。
その時の驚きは、まさに「目から鱗が落ちた」──この言葉は、パウロが「使徒」たちを迫害中、ダマスコ郊外で天からの光に打たれて目が見えなくなり、三日後に「目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった」という、パウロの回心の故事からきている──ようで、私は今でもその時の感激を、それを読んだ三畳のアパートの情景とともに思い出すことができます。
もっとも、この時の『日本人とユダヤ人』の著者名はイザヤ・ベンダサンとなっていて──現在ではイザヤ・ベンダサンは山本七平ということになっていますが、私自身は、この本の著者名は、やはりイザヤ・ベンダサンとすべきではないかと思っています。
というのは、山本七平自身はこのことについて、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディター(編集者)であることも、ある意味においてコンポーザー(作者)であることも否定したことはない。ただ、私は著作権を持っていない」と明快に言っているからです。
また、氏は、その内容には、ユダヤ人独自の観点からなされた記述や、タルムード〈ユダヤ教のミシュナ(口伝律法の集成)及びそれに関する注釈であるゲマラからなる〉の知識なくしては書けない部分があることなど、自分以外にも著者がいることを強く示唆していました。
今日では、このイザヤ・ベンダサンという著者名は、山本七平と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラー──メリーランド大学教授、戦時中対日諜報関係の仕事をしていたらしい──及び、ユダヤ人でありながらユダヤ人の考え方に辛辣な批評を加えることが常だったというミンシャ・ホーレンスキー)の対話の中から生まれたペンネームであることがわかっています。
ただし、ローラー博士は『日本人とユダヤ人』以降関与しなくなり(「大宅壮一ノンフィクション賞」の賞金は彼がもらった)、そのため、その後のベンダサン名の著作は、山本七平とホーレンスキーの合作のようなものになったと、後に山本七平は説明しています。(確かに、この両者の関係は謎ではありますが・・・。)
だが、いずれにしろ、山本七平が『日本人とユダヤ人』を出版し、それが思いがけずベストセラーとなり、誹謗中傷も含めてマスコミを騒がせたことが、その後の氏の膨大な著作群を生み出すきっかけになったのですから、私たち日本人にとっては僥倖というか、まことに慶賀すべき事件ではなかったかと思います。
最近『石ころだって役に立つ』という関川夏央氏の本を読みました。その中に「山本七平の戦争‐‐私の中の日本軍」という章があり、軽快な文章に魅了されましたが、そこにおける氏の読みも的確だと思いました。しかし、氏は、山本七平の「イザヤ・ベンダサンとの関係、距離の取り方にすっきりしないものを感じ」、2000年に至るまで彼の作品を読まなかったそうです。
もう少し早く読むべきだったと氏は後悔していますが、一方で、「1970年代に山本七平が持った読者の多さからみれば、現在の読まれなさ加減はちょっと信じがたい」と、司馬遼太郎と比較していぶかっています。なぜか。それは、司馬遼太郎が「何を書いても『青春文学』となる」のと対照的に、山本七平はその過酷な戦争体験故に「日本の歴史に何ら希望を読みとることができなかった」からだと。
だが、はたしてそうか。司馬遼太郎は昭和史を「日本史という生命の流れのなかで、宿るべきでない異胎が宿った」といい、後人にこの「精神衛生に悪い仕事を託す」という言葉を遺して逝きました。しかし、山本七平は、それを、自らの体験として語り尽くすことによって、その克服の手がかりを後人に遺そうとしたのです。
フィリピンの戦場で「自らを片づけた」日本軍、その断末魔の苦しみの中で、人間としての限界の淵に生きた自分自身の”ありのままの姿”を、渾身の力で見すえた、その”ことば”一つひとつに、確かな希望を見いだすのは私だけでしょうか。
平成20年3月10日