以下の文章は、『高針地区民俗調査報告』を下書きに使用し、執筆者が補足説明したものである。 氏神祭礼の余興(「馬の塔」か相撲か)は、毎年10月1日に「札木寄合」によって協議するのが昔からの慣例になっていた。 花馬(端馬/はなうま)の権限をもつ北島から議題を提示し協議に入るが、その年の作柄(さくがら)等から馬の塔に賛成する島と、相撲を主張する島との攻防戦は虚々実々の火花を散らした。 幾度も各島に戻って協議を重ねるなど難航を例とし、連続会議が12日間(大祭日は現在の「体育の日」ではなく、10月15日であり、翌日が猪高小の運動会であった)に及んだ記録もある。 大変なお金を必要としたので、豊作の年でないと出来なかった。 「馬の塔」と決まると、直ちに「棒の手」の師匠を頼み、馬宿を決め、献酒して棒開きの儀式を行い、その晩から棒の手の稽古が猛烈に続けられた。 決まるのが遅くなると練習時間が短くなるので、豊作と思われる年は、北島のように7〜8月から練習を開始したところもあった。 各島とも、型が盗まれないよう隠れて練習した。各公会堂では、雨戸を閉め畳を上げ畳の敷板まで外し、露出した土の上で練習した。 北島の保管する記録帳には、古く天保14年(1844)以降の模様が丹念に記録されている。 「他村と出会った時に挨拶を述べる笠脱(かさぬぎ)/他村との連絡、交渉に当たる祭事係/行列を前後に走って整理する中割/火縄銃の鉄砲打/馬の口取りをする馬附/馬上のダシを警護する馬囲(うまがこい)等の人名/馬宿の場所」等の馬の塔の時の役割分担が記されている。 また「勘定帳」からは、火薬・蝋燭(ろうそく)・提灯(ちょうちん)・火縄・酒等の物価を知ることができる。 ことに龍泉寺献馬は、大森村から特使2名が来ており、これらの折衝(せっしょう)の模様・回答までの村のあわただしい動きと、応対の古武士的儀礼等が窺(うかが)える貴重な記録である。 龍泉寺と高針村は結びつきが深い。 元禄(げんろく)年中(1688〜1704)、高針一帯が大旱魃(かんばつ)の際、龍泉寺に雨乞祈願をし、慈雨を得たので、御礼のため献馬したのを初めとし、「雨乞御礼馬の塔」「祭礼馬の塔」と幾度となく献馬したことが記録されている。 馬は緋羅紗地(ひらしゃじ/赤い地の厚い織物)に、金絲雲龍(きんしうんりゅう)の刺繍(ししゅう)を施(ほどこ)した豪華極まる馬具で飾られた。 すなわち障泥(あおり/泥よけ)・駄負(だおい/馬の尻におおいかける)・面鎧(めんよろい/馬の顔面を防御)・首鎧(くびよろい)・胸鎧(むねよろい)、そして馬背(ばはい/馬の背中)に村を表示する「馬標(うまじるし/ダシ)」を付け、下部を同じく金色に輝く馬標巻(だしまき)で包んだ。 「馬標」は村の標識であるから、村々によって異なり、昔から材料・構造・寸法が決まっていて勝手な変更は許されなかった。 数ある馬標の中で、高針村の「大鳥毛の馬標」は、一段と目立って豪華壮麗で偉容を誇示した。 この大鳥毛は、九斤(くきん)と呼ばれる交趾(こうし/中国の地名)種鶏(しゅけい/ひよこを生む親鳥)の謡羽(うたいばね/長い2本の尾羽)を3000本を使って、鞍の居木(いぎ)上に建てた藁(わら)の芯に何段にも挿(さ)して飾りつけたものである。 ※九斤は、9斤=5400gまで育つ大型の鶏で、中国語でコーチンと読む。 ※各島ごとに約500本ずつ持っており、計3000本になる。馬標は6つできるが、鳥毛の飾り方も各島で違う。かつては鳥毛を乾いた砂で保存した島もあった。 ※居木は、前輪(まえわ)と後輪(しずわ)をつなぎ、乗り手が尻を据(す)える所。 「高針は大郷」というプライドがあり、他村が真似をするのを許さなかった(昭和8年、小鳥毛の東一社と大もめした)。 トップページにもどる 高針村へ戻る ページトップへ |