親鸞山(しんらんやま) 猪高緑地内にある。 東谷山(とうごくさん/198メートル)に次ぐ名古屋市第2位の高さ(111.6メートル)の山。 元の呼称は「極楽山」であったが、この山頂に巨大な親鸞像(台座を入れて約34メートル/「座像66尺・座台48尺」)を建立する計画があったので、いつしか「親鸞山」と呼ばれるようになった。 ※建立計画では昭和4年4月に起工予定だったが、寄付金が集まらず頓挫した。後に、日進で宗教公園「五色園」ができる。 右上の写真は、計画当初に造られた20分の1(5尺7寸)の原像で、現在も五色園内にある。 親鸞山御嶽神社 高針心願講社 浅井勝次郎氏(寛開霊神/かんかいれいじん)が発起人となって、大正10年8月に設立された。 昭和24年10月8日、親鸞山山上に鳥居とささやかな本殿(写真右上)ができた。 今は木が生い茂っているので眺望はきかないが、昭和24年当時は小松の生えたやせ山で、晴れた日に遠く御嶽山を望むことができた。 昭和34年の伊勢湾台風で社殿や参道が荒れると、大鐘明氏(明東霊神/めいとうれいじん)が中心となって土木建築の技術者を組織化し、昭和45年5月、講員の手造りによって現在の社殿と参道が完成した。 『名東区の歴史』によると、 ※( )内は、執筆者による。 「(幕末の頃)、猪子石方面を天秤棒で小間物を行商する人があった。 御嶽(丹羽)宇兵衛(明寛行者/めいかんぎょうじゃ)と呼び名古屋出来町にて雑貨を商う主人で、近郷を廻り親切と正直を旨とし、村々に病人または不幸がある家で、望まれるままに御嶽大権現を祈り神徳を授け法を行うので、次第に民衆の信仰がまし、遂に天保八年(1837/宇兵衛は15才にしかならないので、誤記)六月、猪子石山手(成瀬)安左衛門宅にて、同志集まり木曽御嶽山を岩崎山に祀ることを相談し、小野村代官所に申請した。 また、これまで熱田に本部のある大先達儀覚行者の創立した丸山講(宮丸講の誤り)と合流し、新しく心願講をはじめた」とある。 「心願講の発祥の地は猪子石」ということになっていて、これが高針村へ伝わったと思われる。 元旦には御神酒(おみき)が出るので、「初日の出」を拝む為に多くの参拝者がある。 高針心願講は、岩作(やざこ)心願講に属してはいるが、独自に村の中で活動している。 「高針御嶽山開設」資料 高針御嶽山開設の事 場所高針東方極楽山上 ※読みやすい様に、句読点を付けた。 右開設に当り、兼て依り心願講高針講員は、高針地内に行場と定む可く、御嶽大神を御祭り上げ度き意向の時、高針開墾組合で開墾記念事業として何様かを祭り度き考案中なれば、講員に合意あれば相談の上へ御嶽大神を祭る気は無いかとの事を当時組合顧問浅井兵馬氏依り話し有り。 願ひ叶ったりで、早速話し進めて戴き幸ひにして急ぐ話しなりしは、時の組合長加藤時三郎・副組合長佐橋信壽両氏始めとし、組合役員及組合員諸氏の協力大なるものより開山と進む。 事が出来て講員一同嬉び、又大なるものの中に昭和二十四年八月着手、今年拾月八日に初の祭り事目出度行へり。 其の当日、組合講員の立場の互意からとて不備の点出ずる為、後難を無くする故へに合意相談の上へ、今後祭り事は御嶽講員主體とし一切をまかせ祭事に誠心助力に当る事を定めたもの。 後年における役員諸氏及組合員は心安らかに、地元は勿論、字人等の幸ひを祈念し開墾組合記念事業を以てす。 此の山を益々栄、後世に残す記念事業を次々と御協力あって記録を綴らるやう書き残す。 毎年の祭事 大祭とし 春 四月 / 秋 十月 吉日にす[印] トップページにもどる 高針村へ戻る ページトップへ |