勝野氏頌徳碑 



 牧ノ池(現牧野池)   猪高町高針にある。

  牧野池秋景

この池ができる前まで「牧田」と呼ばれていたので、「牧ノ池」と名付けられた。面積2万5692坪。

高針一帯はもとより、天白村の植田まで含む水田およそ120有余町歩(1町は3000歩で、1歩は1坪、すなわち120×3000=36万坪)の灌漑(かんがい)に供した。

入鹿池(いるかいけ/犬山市)、勅使池(ちょくしいけ/豊明市)に次ぐ、愛知県第3位の大池である。

この池を見下ろす高台に、勝野太郎左衛門良政の頌徳(しょうとく)碑がある。


 「勝野氏頌徳碑」書き下し

                           
 ※『猪高村誌』参照   ( )内は執筆者による


勝野氏頌徳碑 「民於忠」「義親 民於忠」 ※おそらく「民に忠(ならん)」と読む。

沃土(よくど)有りと雖(いえど)も、灌漑(かんがい)の利無ければ、良田と為るを得ざるなり。

愛知郡高針の地、往昔(おうせき/往古)灌漑の便を缺(か/欠)き、比年(ひねん/毎年)旱損(かんそん/日照りによる損害)し、住民疲弊す。

秋季例祭はいつも、僅(わず)かに粟餅(あわもち)を献供するを以(もっ)て、常とした。

近郷嘲(あざけ)り呼んで曰(いわ)く、高針の粟餅祭と。

困窮の状知るべし。

時に勝野氏郡奉行(こおりぶぎょう/幕府および諸藩に置かれた役職)となり、深く之(これ)を憐れみ、堀池を画策し、農の時を察し、多くの村民を役(えき)し、歳月を閲(けみ)して成る。

実に正保三年(1646)丙戌(ひのえいぬ)の春なり。

名付けて曰く、牧之池と。蓋(けだ)し旧地名を牧田と称するを以てなり歟(か/疑問の「か」)。

此(こ)の池や計画要を得て(的確で)、潤沢(じゅんたく)百二十有余町歩産米約三千斛(こく/石)。

爾来(じらい)二百七十余年、旱魃(かんばつ)に遭うと雖も焦枯(しょうこ/日照り)の害を被(こうむ)らず。

今に至るも闔閭(こうりょ/すべての村人)皆団欒(だんらん)の楽しみを享(う)け得るは、一に勝野氏の功徳に由(よ)ると謂(い)うべき也。

君姓は源、名は良政、太郎左衛門と称す。初名は治カ助。

父は吉政九郎兵衛と称し、尾(び/尾張国の略)の藩祖敬公(徳川義直の諡号=しごう)に仕え、元和六年(1620)病歿(びょうぼつ)す。

君は時に年十八、敬公に嗣仕(しし)し、慶安五年(1652)壬辰(みずのえたつ)八月朔(ついたち)病歿す。

年五十。城北久国寺に葬れり。法謚(ほうし/戒名)山庵全鉄禅定門。後、矢場町永昌院に改葬せり。

九世の孫久之丞今尚(なお)存す。

初め良政君の(が)池を掘るや、荒野忽(たちま)ち化して良田となり、稔(みのり)て豊穣(ほうじょう)、村民其の徳を頌(しょう)し、嘖々(さくさく/しきりにほめる)として止(や)まず。

君の歿後、毎歳新穀一升、青銅二百枚を墓前に供え、以て追慕の意を表すこと百有余年、偶(たまたま)廃藩置県、百事更改の時に会し、其のこと絶えたり。

然(しか)れども其の功績昭々(しょうしょう/明らか)、今猶(いまなお)古(いにしえ)の如し。

之(これ)を以て有志しばしば建碑を企(くわだ)てて果たさず。

今上登極(きんじょうとうきょく/大正天皇の即位/敬意を表し、1マス空けてある)の大典に際し、有志は感奮(かんぷん)、議遂(つい)に決す。

此(ここ)に於いて青年会長加藤岩松来たって文を需(もと)む。余不文(ふぶん/文章がヘタ)其の人に非ず。

然(しか)れども曽(かつ)て本郡に吏(り/役人)となり、且つ勝野氏とは、同藩士なり。因(よ)りて辞する能(あた)わず。

載籍(さいせき/書物に載せる)を考え之を記し、且つ係るに銘(めい)を以てす。

銘に曰く。

牧の大池。  水を湛(たた)えて田に漑(そそ)ぐ。  偉(い)なるかな其の徳。  万年(まんねん)に易(かわ)らず。

                従四位(じゅしい)勲四等侯爵徳川義親(よしちか)題額(だいがく/題字)

      大正六年四月         従八位勲八等  堀田正良撰(せん/作文)并(ならびに)書

                                       星野光三郎  (彫)

 (裏面)           大正八年三月建之



 「竣工紀念」碑

「竣工紀念」碑
※「勝野氏頌徳碑」のすぐ近くにある。以下、書き写し。

カタカナはひらがなにした。( )内は、執筆者による。



昭和七年八月、農林省時局匡救(きょうきゅう/正し救うこと)農業土木事業施行の発令あり。

当大字地内牧ノ池堤塘(ていとう/つつみ)荒敗し浸蝕するを以て、時局匡救、土木事業の申請をなし、十月十六日、工事補助の認可を得、直(ただち)に工を起(おこ)し、護岸石堰五百余坪水吐石堰六十坪、橋梁四坪、及池畔一帯の改繕をなし、昭和八年二月、工程の完成を遂げたり。

工費金八千九百円を算し、多数の失業者を匡救せり。

是により、灌漑田園の利潤と池域臨池の美観を添ふ。

茲に記録し、紀念とす。

             猪高村長  柴田憲二 書













 「牧ノ池景勝地」看板              ※牧野池東南の「芝生広場B」にある。以下、書き写し。

「牧ノ池景勝地」の看板このあたりは昔、丘陵地帯で水利が悪く、うち続く旱魃(かんばつ)から住民を救うため、正保(しょうほう)三年(1646)尾張藩郡奉行勝野太郎左衛門が周囲約三qの農業用溜池(ためいけ)を掘らせ、用水を引かせたもので、以来この地域の農業は栄えた。

付近の田を牧田といったところから牧ノ池と名付けられたものである。

『尾張名所図会(ずえ)』に
「此池尤廣大(このいけもっともこうだい)にして大池の稱(しょう)空(むな)しからず眺望(ちょうぼう)も亦(また)打開(うちひら)きて月下の秋景殊(こと)に賞するにたへたり」とある。
                名古屋市教育委員会











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