蓮教寺 



 法雲山蓮教寺(れんきょうじ)   高針字古谷(こたに)にある。  真宗高田派。

 蓮教寺山門 蓮教寺の鼓楼とその下の玄関

 鼓楼の太鼓 蓮教寺茶室 (平成12年築)

長徳年間(995〜998年)、源頼光が尾張守に任じられた際の創建で、恵心僧都を以て開基とする。

当時は天台宗に属し、高針山と号し、山内(さんない/境内)に誓光坊(せいこうぼう)・智根坊(ちこんぼう)・泉蔵坊(せんぞうぼう)の塔頭(たっちゅう/山内にある小寺院)もあったが、承久の頃(1219〜1222年)、兵火にかかり烏有(うゆう)に帰した(火災で何もなくなること)。

※誓光坊は村の東北端の長久手境にあり、勢子坊(せこぼう)として地名が残ったとされているが、勢子坊の地名の由来は、「藩政時代、徳川家の御猟場(おかりば)で、高針の住民が獲物を狩り出す勢子となったから」という説もある。

寺号(じごう)も度々変わり、蓮蔵院・清蔵坊・蓮華蔵教院・明眼寺・蓮教寺となった。

永正3年(1506)11月3日付、今川氏親(うじちか/義元の父)の制札(高札)には、明眼寺と記されている。

当時は、新屋敷と古谷境の二本木の高台にあって、西北隅に神明社があった。
 報恩講で飾る立花を作る花講の人々  従是(これより)西方極楽街道 (西方浄土と地名の極楽をもじったもの/文化元年 大鐘五十七氏建立)

『猪高村物語』によると、泉蔵坊は蓮教寺の塔頭ではなく、独立の寺とされている。

「江戸時代の初期、高針村には蓮教寺、東勝寺、瑞松院(済松寺)のほかに、この泉蔵寺があり、無住となって荒廃していたことがわかります。
泉蔵寺と清蔵坊が同じ寺であることは、境内地がともに七畝(せ)三歩(213坪)で、備前検除(びぜんけんよけ)であることから推察できます」とある。

※備前検除・・・1608年尾張藩では、伊奈備前守忠次らが検地奉行として一斉に検地をおこなった(備前検)。その時の検地で免税になったという意味。



奉納棟札奉納棟札 

写真左が、平成15年に本堂を修理した時のもので、写真右は、宝暦八年(1758)の時のもの。

意外に大きく、相撲部屋の看板程の大きさがある。

どちらも、「国邑丘聚  扉不蒙化  天下和順  日月清明  風雨以時」と書かれている。

これは無量寿経(むりょうじゅきょう/阿弥陀仏の四十八願と極楽の様子および極楽往生の方法を説いたもの)の一節で、

「国も町も村も、仏の教えに導かれないところはない。
世の中は平和に治まり、太陽は明るく輝き、月は清らかである。
風もほどよく吹き、雨も降る時を知っている」という意味である。














 鐘楼と鐘の銘文

  蓮教寺鐘楼 鐘の銘文

鐘楼の旧鐘は、戦時中に供出された。現在の鐘に、その由来が記されている。

※「銘文」は読みにくいので、カタカナはひらがなにし、句読点を付けた。  ( )内は、執筆者による。

当山旧鐘は、十一世蓮誓の発願(ほつがん)により、安永三年(1774)二月成る。

然(しか)るに第二次世界大戦中、国家の要請により、昭和十七年十二月、之(これ)を献納せり。

終戦五年、宗祖御遠忌(ごおんき)を営むに際し、梵鐘を鋳(い)て仏恩を報し、併せて死者の霊を慰めんとの議起(おこ)る。

総同行(どうぎょう/真宗の信者)一致之(これ)に賛し、計を立て財を募る。工匠亦(また)力を協(あわ)せ月余(げつよ/一ヶ月あまり)にて成る。

惟(おも)うに鐘はこれ平和の象徴なり。冀(こいねがわ)くは、この梵音を聴(き)く十方(じっぽう)の有縁(うえん/仏法に縁のある者)、同一念仏に帰せんことを。

   昭和廿四己丑(つちのとうし)歳三月 

尾州 愛知郡 高針   法雲山 蓮教寺   発願 十六世 雄淳   総同行     鋳匠  桑名 中川祐次



 蓮教寺略年表         ※ 麓 和善 著 『法雲山蓮教寺 保存修復工事の記録』 より抜粋。


長徳年間(995〜999)    説@=尾張守の源頼光が、恵心院権小僧都源信大和尚を開山として建立。
                   天台宗で、江州坂本十津浜の妙林寺の末寺。  

説A=郡司であった山田佐右衛門が出家して当寺を建立するとともに、蓮喜法師と改名し、蓮覚・是西・海哲・大阿・林説と六世にわたり、天台宗の法脈が続いた。 

承久年間(1219〜1222)    兵火により、 堂宇焼亡。

永禄元年(1558)           中興開山・蓮光法師が、寺の宗門を真宗高田派に改める。

天正年間(1573〜1593)     蓮蔵院明眼寺勝蔵坊という名称であったが、明眼寺は本山から差し支えの儀があり、院号坊号のみを用いるようになった。

慶長年間(1596〜1615)    二本木から坤(こん/南西)の方へ引っ越した。

元和年間(1615〜1624)   5世・蓮勝大徳の時、蓮蔵院を蓮教寺に、山号を高針山から法雲山へ改める。

正徳 6年(1716)         現在地へ引っ越し。

享保 2年(1717)         9世・蓮秀(再中興)法師、本堂・庫裡他建立。

享保13年(1728)         10世・蓮阿法師、庫裡再建。

延享 5年(1749)
         11世・蓮誓(再三中興)法師、大門建立(修理)。堂宇再建。

宝暦14年(1764)         鼓楼・廊下建造。

寛政10年(1798)        梵音寺(塔頭/たっちゅう)建立。寄進者は、大鐘藤七承政。

文化 5年(1808)        親鸞聖人550回忌にあわせて、御厨子と須弥壇新調。

文化 9年(1812)        書院および山門(四足門)竣工。

安政 5年(1858)        親鸞聖人600回忌にあわせて、御厨子の洗浄修復。

明治15年(1882)         鐘楼再建(上棟式)。

明治44年(1911)         本堂屋根葺替。 

平成16年(2004)        本堂半解体修理。




 大鐘(おおがね)藤八

高針蓮教寺5世の住職山田蓮勝の弟で、蔵鱗という名前であった。

生まれつき力が強く、武術を好み、柴田勝家に従って、越前国丸岡の庄において軍功があった。

法師武者の故を以て、仏家の器財釣鐘の形を、戦袍(せんぽう/陣羽織)の紋章としていたので、織田信長公から「大鐘」の姓を賜(たまわ)ったと伝わる。

勝家の死後、生地高針に帰住し、日頃信仰していた加賀の白山権現を、蓮教寺境内に勧請(かんじょう)し、鎮守として崇敬(すうけい)したという。

慶長4年(1599)4月、死去。




  トップページにもどる     高針村へ戻る      ページトップへ