龍華山神蔵寺 


 龍華山神蔵寺(りゅうげざんじんぞうじ)   一社3丁目にある。  本尊は、聖観世音菩薩。

神蔵寺の位置は、享保20年(1735)まで現在地ではなく、一色城址東(現在地の東側が一色城址で、そのまた東)であったことを頭に入れておく必要がある。 

※以下「薬師堂」までの文章は、写真右下の「神蔵寺発行の小冊子」を下書きに使用し、執筆者の見解を補足したものである。


神蔵寺山門  ~蔵寺発行の小冊子

神蔵寺は、文亀元年(1501)、足利九代将軍義尚(よしひさ)の家臣・柴田源六源勝重(かつしげ/開基)により、一色城内(東)に創建された。

草創開山は、雲岫麟棟(うんしゅうりんとう)和尚で、春日井郡大草村(小牧市大草)の曹洞宗大叢(草)山福厳寺(ふくごんじ/1476年創建/毎年12月に行なわれる秋葉三尺坊の大祭での火渡り神事が有名)より招請した。

勝重は、柴田勝家の祖父(または曾祖父)と伝わり、文亀三年(1503)七月二日没した。

戒名は、霊源院殿天信了運大居士。

天正十二年(1584)四月、長久手合戦で一色城は焼失、神蔵寺も兵火に罹(かか)った(焼けてはいない)。

小牧においては、福厳寺諸堂が、戦の陣地を築くために秀吉軍によって破壊された為、末寺の~蔵寺堂宇を解体・移築した(「福厳寺記」による)。

その為、~蔵寺は廃寺同然となった。


 平僧地復興

薬師宮殿(神蔵寺発行の小冊子より)~蔵寺を平僧地に復興したのは、三世密傳空厳(みつでんくうげん)和尚だが、寺の建物はなく、僧は薬師堂(一色城址東)にこもって布教した。

※平僧地とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の寺格の一つで、最下位の小院、つまり正式の住職がいない寺のこと。

慶安元年(1648)七月に、一色村に古くから祀られてあった薬師瑠璃光如来を新造の宮殿(写真左/現在まで薬師堂内に残る薬師宮殿は、当時からのもの)に奉安した。

※薬師瑠璃光如来は、一色村のルーツである一社橋南東の薬師畑に、おそらく行者堂のような小さな祠に祀られていたと思われる。


日光菩薩、月光(がっこう)菩薩、並びに十二神将は、宝永四年(1707)に祀られた。

四世瑞岑豊雪(ずいしんほうせつ)和尚が、薬師堂を寛文五年(1665)三月に再建した。

五世桃翁宜仙(とうおうぎせん)和尚が、享保二十年(1735)、薬師堂を(城跡東から)現在地に移築した。

『尾張徇行記』は、「享保十九年(1734)に薬師堂が現在地に移転した」と記している。

棟札に「奉建立薬師堂享保二十卯年正月吉日」とあるので、おそらく享保十九年中に移転し、年が明けた正月に奉祝したのであろう。


 法地開山

証文(神蔵寺発行の小冊子より)宝暦九年(1759)、大店鰲雪(だいてんごうせつ)和尚を招請した。

宝暦十年(1760)、下津(おりづ)正眼寺(しょうげんじ)から寺社奉行に提出された証文(写真左)に、

「正眼寺末寺の神蔵寺内に、弘法大師正作と伝わる薬師如来があり、古来より33年目に本開帳(100日間)、17年目に中開帳(50日間)をしてきた。
今年は17年目で中開帳になるが、村方が困窮しているので、来年に延期させて欲しい(要約)」とあり、当時の一色村の様子が分かる。

翌宝暦十一年には、村内に行者堂が建立されており、どうやら村勢は回復したようだ。

※下津は、鎌倉街道と河川が交わる交通の要衝で、織田信長が登場するまで尾張国の中心地であった。現稲沢市。

※正眼寺は、曹洞宗で、当時神蔵寺本山であった。現小牧市。


明和五年(1768)、法地再興を申し出た。 翌六年三月七日、江戸麹町秩父屋斎田孫七が金50両を寄進、本堂・客殿が現在地に再建された。

以後、山号を龍華山と改め、大店和尚は法地(ほうち)開山となった。

※法地とは、曹洞宗における大本山・格地・法地・准法地の4つの寺格のうちの一つで、別格地でない普通の寺院のこと。

大店和尚は、薬師堂に「枯木堂(こぼくどう)」の扁額(へんがく)を掲げ、座禅堂として雲水(うんすい/修行僧)を起居させた。

更に、本堂脇壇に安産守護の子安一夜地蔵菩薩を安置し、薬類を売り庶民の救済にあたった。


 中興開山

横井善三郎墓所 十五世・久遠実成(くおんじつじょう)和尚は、~蔵寺が廃仏毀釈で廃寺になろうとしているのを慨嘆し、西枇杷島町字南問屋町初代横井善三郎(中興開基=教善院殿春山禅定大居士)の招請で、神蔵寺の中興開山となった。

十六世・常光祖鑑(じょうこうそかん)和尚は、明治37年、横井家の篤志(とくし)により三十三観音石像を奉安した。


 永平寺直末(じきまつ)

十八世・太眞正憲(たいしんしょうけん)和尚代に、諸堂が一新された。

昭和26年5月、鐘楼堂が再建。

昭和34年、茅葺きの薬師堂を、境内にあった弘法堂(大正初期、昔「一色鉱泉」という温泉があった一社中根通り付近から移設)と合体させ、瓦葺きとして再建。

同年の伊勢湾台風によって倒壊した山門を再建。昭和45年、木造本堂を鉄筋造にて再建した。

昭和45年、大本山永平寺の直末となった。






 
創建五百周年

  創建五百周年碑 (境内)

平成11年、華蔵臺(けぞうだい/不老閣)を建立。

平成12年11月、~蔵寺創建五百周年を迎え、慶讃(きょうさん/けいさん)法要を厳修した。



 薬師堂(枯木堂/こぼくどう)

 薬師堂(枯木堂) 枯木堂扁額


阿弥陀如来の西方浄土に対し、薬師如来は、東方浄瑠璃(じょうるり/清浄・透明の瑠璃浄土)世界の教主(きょうしゅ)であるため、正式名は「薬師瑠璃光(るりこう)如来」といい、衆病(しゅびょう/もろもろの病気)悉除(しつじょ/すべて取り除く)の如来である。

  月光菩薩  前立薬師如来木像   日光菩薩

写真中央の薬師如来木像(前立)の印相は、右手が施無畏印(せむいいん)の一種である三界印(さんがいいん)、左手は与願印(よがんいん)で、薬壺(やっこ)を持っている。

※施無畏印は、釈迦の五印の一つで掌を見せて相手の恐れを取り除き安心させる。

※三界印は、親指と人差し指を曲げて輪を作り何かを弾くような形。

※薬壺には、いくら使っても尽きることのない万病を治す薬が入っている。


脇侍(きょうじ/わきじ/中尊を補佐)は、如来の左側(左が上位/向かって右)が日光菩薩、右側(向かって左)が月光(がっこう)菩薩。

共に両手(対称形)で蓮華(れんげ/蓮の花)の茎を持っている。


 十二神将

 十二神将 十二神将

十二神将は、薬師如来の12の大願に応じて、それぞれが昼夜の12の時、12の月、または12の方角を守る。

そのため十二支が配当される。

また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王がある。

各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属(けんぞく)夜叉を率い、それは人間の持つ煩悩の数に対応しているといわれている。

神将と十二支は、順序が真逆になっていることもある。どちらが正しいかについては解釈する側(お寺)にゆだねられており、決められた順番がある訳ではない。

十二神将が十二支の守護神であるというのは後付けの話で、「薬師瑠璃光如来本願功徳経(薬師如来の名号を唱える者を守護すると約束)」に由来する信仰ではない。

日本では平安後期以降、十二神将の頭上に十二支の動物を乗せた像が作られるようになった。



 祠堂(しどう)

祠堂(神仏を祀る小さな建物)は、山門前(向かって左)にある。


 祠堂  八神仏

 白山妙理大権現(白山の山岳信仰と修験道が融合したものであり、本地仏は十一面観音菩薩)

 正八幡大菩薩(正真の八幡宮の意)

 石尊(せきそん)大権現(石尊信仰は、神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利[あふり]神社を中心とする山岳信仰)

 金毘羅大権現(琴平山の山岳信仰と修験道が融合したものであり、本地仏は十一面観音菩薩)

 秋葉三尺坊大権現(可睡斎は、現在曹洞宗)

 豊川稲荷大明神(豊川にある曹洞宗妙厳寺内の荼枳尼天[だきにてん]を祀った鎮守堂)

 富士浅間大明神(富士信仰に基づいて富士山を神格化した。木花咲耶姫命を祀る)

 北辰(ほくしん/北極星/中国名)妙見(みょうけん/北極星あるいは北斗七星/仏教語)大菩薩

の八神仏が祀られている。これらについては、『猪高村誌』に以下の記述がある。

    

       奉     白山妙理大権現  正八幡大菩薩    寺鎮守

       勧     石尊大権現                  当村鎮守
(表)
             金毘羅大権現、 豊川稲荷大明神

       請     富士山間大菩薩、 山門繁昌子孫長久 

             北辰妙見大菩薩  村中安全

                         五穀豊穣火盗潜消


      裏  永正元年子正月十三日創建

(裏)   当寺初代大店鰲雪謹拝  印  印

      開基  柴田源六并当村中誌立

           龍華山神蔵寺  扣(控)山
 


『猪高村誌』に、

「白山妙理大権現は加賀白山神社にて、祭神(さいじん)菊理比売命(くくりひめのみこと) ・伊弉諾尊・伊弉冊(冉)尊の三柱が城鎮護の神で、柴田源六源勝重在世に一色城を築いた時奉祀したものである。八幡大菩薩も同時に柴田氏の氏神として祀ったものである」とある。

※菊理比売命(菊理媛神)は、伊奘諾尊(いざなぎのみこと/男神)と伊弉冉尊(いざなみのみこと/女神)を仲直りさせた縁結びの神

また漢文で、

「当山に神社一座が有り、歳月を重ね殿宇もすでに朽ちていたが、その旧跡の小社を補修し、もって五社の神明を祀り、伏して国家安全五穀豊穣山門鎮静火盗潜消を願う者なり。文化十五戊寅(つちのえとら)年(1818)三月四日現住、雄賢興国謹んで拝宣なり。次に明治十二年八月十二日、七社神を再造覆仕り、村中安全五穀豊穣を祈願した。神蔵寺十五世柴田実成(久遠実成/くおんじつじょう)、大工当村宮地富四郎作(意訳)」とある。

白山妙理大権現は、「永正元年(1504)、柴田源六によって開基された。柴田勝重の守護神で、神蔵寺鎮守として祀る」と、「勝重が開基」としているが、勝重は文亀三年(1503)七月二日没なので、創建前年に死去している。




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