小さい茶碗に長い嘴、頭部と首、両の翼を広げた羽、後ろには細い鶴の脚を細く濃く単純に線描しています。輪郭線で単純に流れる風を受けて大空に悠然と飛翔する姿です。茶碗の素地が柔和な朱鷺(トキ)色に類する尾土焼き独特の色彩で描線の藍色と調和しています。 鶴は古代から馴染んできた瑞鳥で茶碗を掌に戴いたら目出度い郷愁と優美な境涯を感じるでしょう。 作者は写実とは実を写す事で、物の本質なる姿、形態で斯様に在りたい姿を見出す様に描きたいと願っていました。 茶碗の品格を観定めるには、先ず上から表の姿形を、次に裏側の高台(茶碗を底面で支える輪形の台)を観極めれば、茶碗の良さが解るものです。高台から作者の人格を窺い知れると云われています。名器と云われる茶碗は確りした豊かな形状です。名器は名器を識る人にこそ名器足るものです。
限られた曲面の茶碗に描かれる図柄は、芸術的に昇華されている事が求められます。この事は総ての芸術において芸術は「ありのまま」では芸のない術のみの作品となります。如何なる芸が術となるかです。 食事には時間が在りません。自然に食べられる時が食事時です。如何なる時でも食事には時間を掛け丹精込めて料理をしています。 人を気遣う心が音楽です。悲しみ、喜びの感動が音楽です。茶の道にもなります。 茶の動作には静かで快いリズムがあります。形ではなく心です。日本の伝統とか芸事の全ての快い心の音が作品になるのです。 源実朝の歌は、情緒的で深い人間性、弱い人間が表現されています。天才的な歌人ですね。 実朝の運命は現在にあっても、そのまま解ります。自分の姿を美の中に照らして暮らしていたのでしょう。 金塊和歌集の金塊とは、即ち美に恥じ入っているという意味が槐の意味だと思われます。だから大いなる美に捧げた和歌であるという意味でしょう。朝廷に対しても二心のない事が歌の中に詠われています。