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濤龍 とうりゅう之図(全図)

KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART    ;



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(部分図)



紙本墨画。昭和61年。1幅。縦157cm 横68cm。



我が国で龍は社寺で信仰の対象として,畏敬の念から神獣、霊獣として祀られてきました。古来龍は歳を重ねた老獪(ロウカイ)な姿に描写された絵画が多く存在します。此処に描かれている龍は若々しい品性ある姿で描かれている事に驚かされます。何よりも墨色の美しさ、描線の軽快な筆速で怒濤の大海から天空を凝視する豪壮な姿、荒れ狂う海中から押し上げられ大空に飛翔する龍の迫に神秘性を感じます。様式的になりがちな荒海の波紋や渦巻く波形にも龍の姿に呼応した明確な描写で躍動感があり、眼光鋭い眼、大きく張った胴体、揺れる背鰭(セビレ)腹部の鱗(ウロコ)、尻尾の先端まで曖昧にせず丁寧に描写しています。
「画龍点晴」という熟語が在ります。龍の描画で最後に肝心な眼球を描き込む意味です。この作品は作者の巻末を象徴する 一作だと思われます。 落款「熙生迂人」の熙生は光輝き悦び生きる、迂人は未熟な人間という謙称語であると語っていました。



師をもつ師があるという事のなかに東洋的な日本人の人生観があります。師のなかには「絶対的なもの」があります。これが美の原則だと思われます。

美は純粋なものに捧げる心です。人生に於いて確かなものは何一つありません。「夢」だけが美しい真実です。他は総て「空」です。総ての人間が夢の中に生きる尊さを味わう事です。

芸術は理解し、知識を得るものではありません、味わって心が豊かになるものです。

人生に於いて人は確かに「出会い」があります。先生に始めて会った時も「出会い」を感じました。確かにこの人に会うべくして会ったというものが、始めて会った時からあります。それは何年経っても変わりません。




作者は明治時代の高知の城下町で幼少期を暮らしています。当時は江戸時代の風物習慣が日常だったそうです。青年期には大阪で苦学し、成人して現役召集兵としてシベリア出兵で極寒のロシアに衛生兵として従軍しています。除隊後に大正時代の東京でも勉学しています。東京は江戸や明治の風物が混在した活況ある都会でした。関東大地震の激変を体感し帰郷しました。昭和の社会変革でも芸術的思考を堅持し、 教育者と作家の境涯を自覚探明し知己朋友の知遇を得て美術的至上の作品を創作し、泰然自適の生涯を成していました。


黄色の文字は尊敬する恩師の横田熙生先生、中平美津子先生(紫花人形) の対話を傍で観聴し、理解出来た僅かな言葉の端(ハシ)を即日記録して今度引用したものです。口伝とも言える人生や芸術の奥義が語られていました。何方にも相談や助言を願っていません。御賢察戴き、ご理解の程宜しくお願い致します。

展示(掲示)している作品は作者の生涯に於いて制作された作品の断片です。画像は編者が撮影したものです。全ての作品が経年に因る変貌が観られます。彫刻、陶器は材質が堅牢ですから、優美さを醸(カモ)して風格ある作品と成っています。絵画は和紙を使っていますから、全面の表装に風化現象が 表面化しています。人形も展覧会が終了すると、風に吹かれた様に何処かに消え去っています。