13 不自然な問題に学ぶ 〜指示語ということと連体形接続ということ〜
A はじめに
クイズ問題をたくさん見ていると、たまに「すごくヘタな問題文」に出会うことがある。また、自分で昔作った問題を見ても「ヘタだなあ」と思うことがある。ここでいう「ヘタ」とは、問題文の構成のしかたが「ヘタ」という意味である。今までのクイズ論集において「問題の作り方」をレクチャーしたものは少なく、「問題文の構成」について真剣に考えさせるものはほとんどなかった、ような気がする。
わたしはクイズ屋さんの間で出まわっている冊子をあまり所有していないため、ちょっと古い資料になってしまうが、吉屋大樹氏の著「天衣無縫」(1997年12月)には、問題が長文化していく中におけるクイズ問題文の構成で気をつけるべきことが述べられている。おそらく氏はその約束を遵守しているのであろう。ただ、そこに述べられていることは、概ね普通の日本語の文章を記すときに気をつけるべきことを述べているに過ぎない。
ということは、長文化の中で、明らかに「ヘタな日本語」による文章が蔓延していたということになる。この辺のところは「天衣無縫」を読んでいただくのが一番早い。もっとも、氏の問題文が「日本語としてヘタではない」とはわたしには思われないが、他のプレーヤーの作る問題に比べれば、かなりの割合でちゃんとした日本語になっていると言えよう。これは吉屋氏の直属の後輩と呼んでよい(と思う)神野芳治氏の問題についても同様であると言えよう。少なくとも、資料・ネタ本をそのまま問題として量産するような姿勢をとっていないことが、問題文の練り上げ方から伺える。
そもそも長文化した問題は、余程きちんと作らない限り、もしくは余程題材に恵まれない限り、日本語として下手な文章になる必然性を持っている。コラム3で掲載した問題だが、
このように、「前フリ」が@Aの2つついている場合、@とAとBとは全然違う背景を持ったエピソードであることが多い。そうすると、1つの文章の中に3つの別々のお話が埋めこまれているような形になる。@Aの節はたいていの場合Bを修飾する働きを持つ。そうすると、必然的に修飾と被修飾の関係がぼやけてくる。例えば、先の問題では「総監督を務めた」のが「女優マリリン=モンロー」であるという誤解を招く可能性が出てくる。「読点があるからそんなことはない」と自己肯定する人は、すでにまっとうな日本語の文法から発想が外れてしまっている。また、「マリリン=モンローが総監督をつとめるわけねーじゃん」と言い訳じみたことを言う人は、いつまでたってもちゃんとした日本語の文章をつづることはできない。ではどうすればいいのか。
吉屋氏は「問題文の情報を絞りこむ」「同じ言葉を反復しない」「前フリからの修飾→被修飾を通す」「句読点の位置に配慮する」「同音・同訓異義語が多い言葉は使わない」「専門用語を不必要に使わない(元号も含む)」「90〜100字に文章をまとめる」ということを挙げられている。最後の1つについては既に述べたが、それ以外については概ね賛成である。が、わたしなりに付け加えたいこともたくさんある。というのは、これら原則だけでは全然足りないと思うからだ。本項では2つに絞ってお話ししたい。
B 指示語の使用について
まず、指示語「これ」「その」などの内容が解答そのものになっている問題は、日本語として変になる傾向が強い。まずはこのくらいの問題から。
これだと「その外見」という部分は、それほど気にはならない(Cで語ることや、「菊田一夫に」の部分が少し気になる)。が、この部分はただ「外見」とした方が、日本語の論理構成としては的確だと思う。指示語の指し示す内容は、その指示語より前にあるのが普通だからである。だから、「それほど変ではないが、日本語として正しくない」という判断を、わたしはしておきたい。
このような主張には、「クイズ特有の文法なのだから、これでよいのだ。すべての世界に特有な用語というのはある」という反論が来ることが予想される。例えば法律の条文というのは、素人には理解しにくい専門的言いまわしが多かったりする。しかしそれは、法律の世界で論理的必然性があるが故の文体である。一読して分かるかどうかなど、其処ではどうでもいいこと。それに対してクイズ問題の文章は「はじめてクイズをする人にも分かりやすいこと」が求められているはずである。だから、「なるべく自然な日本語で」綴るのがよい、と帰結したい。
とは言え、先の問題程度では、それほど不自然な問題文とは言えない。でも、これを作った人の問題作成思考回路に、指示内容が明確でない指示語を入れてもおかしくない、とする発想法が埋め込まれているとしたらどうだろう。そういう指示語を使用して作っているうち、その使用に無自覚になり、ついにははっきりと変だ、と言える問題文を作ってしまうかもしれない。
吉屋氏「天衣無縫」26ページより。以前何処かに書いたかも知れないが、「各人固有のこれがついている溝」というのがよく分からない。いや、分からなくはないのだが、日本語としては明らかに変である。「人間の指についている溝」ではいけなかったのだろうか。「各人固有」という部分をどうしても入れたかったんだろうなあ、とは思うが、このままだと「これ」=「溝」だから「各人固有の溝がついている溝は何でしょう」という意味の文になる(と私には見える)。これを「不自然」と思える感覚を保持しつづけるには、問題作成の初期において、「ちょっとくらい不自然だけど、まぁいいか」という気持ちを、なるべく払拭することが大切と思う。
C 連体形接続について
ある修飾句が何処を修飾しているのかが、はっきりしないような問題文もまずい。ここでは「連用形接続」を挙げておく。
第8回高校生クイズ準々決勝の問題(問題集には収録されていないが、放送はされている)。難易度を下げるために「スーダンのある」という語を入れてしまったのだろうが、「黒い」という意味を持つのが「スーダン」であるような印象を受けてしまう。原因は「連体形で文をつなげている」ことにある。だから、たとえば次のようにすればよい。
読んだ感じは大分自然になったのではないだろうか。連体形の変わりに連用形を使う、というワザを意識的に使ってみるのがワザである。どうということはないのだが、クイズ問題で連用形を使う、というのは、結構難しいもんである。
ちょっと長文化したものを考えてみよう。
先に上げた吉屋氏の「天衣無縫(52ページ)」より。連体形「なった」「作られた」の重なりが、いかに日本語として不自然であるかを、はっきり示す好例である(「意味がある」も連体形だが、こっちはちゃんと体言についているから気にならない)。いくつか前フリを付ける氏なりの理由は分かるが、くっつけすぎ、の気がする。
とはいえ、クイズの問題としてこの文章が提示されると、人によってはあまり不自然さを感じないのかもしれない。この程度なら「クイズ問題特有の文法」として許容されてしまっているのかもしれない。しかし、連体形による文の接続の「異様さ」に無自覚になると、文法の約束が混乱しすぎて、こんな問題ができてしまうことがあるようだ。
「天衣無縫」の同じページの問題。この問題の場合「具体的にはカテキンという成分によるものである」という節が、何処を修飾しているのかが分からない。この部分はわたしだったら入れないが、「カテキン」という言葉が無いと、確かに答えは出てきそうもない。だから、もし日本語として自然になるよう作り変えるとしたら
といったところだろうか。情報の並べ方を少し変えてみた。「クイズプレーヤーにあまり知られていないエピソード→知られているエピソード」という流れで情報を並べることにこだわりすぎるとうまくいかない。カテキンを答えさせてもよいが、そうすると「もものかんづめ」を折り込むことはかなり難しくなる。「どっちも入れたい」「情報の並べ方はこうでなければいかん」というこだわりさえなければ楽なのだが、情報を複数織り込むにはそれなりの理由があるから、得てしてこだわりを捨てることは難しい。
まとめておく。連体形による文と文との接続は、日本語を変にする効果を持つことが多い。で、代わりに連用形で文章をつなげるというワザを考える。今までのクイズ問題にはあまり使われてこなかったのだが、普通の日本語の文章では連体形接続の使用頻度に比べ遥かに多い。「同格の「で」」といっしょに使っていけば、結構長い問題文でもすらっと作れるようだ。また、情報の並べ方を工夫することで、連体形による接続をなるべく減らすようにするとよい。
D おわりに
問題の長文化だけが、問題文を変な日本語にする要素ではない。そもそも変な日本語っぽい問題が何故かくまで生まれてしまったのか。神野氏の「Seeds」(1998年)という冊子を見ていて、はたと気づいた。そうか。クイズプレーヤーは問題文を論理的な日本語の文章としてとらえてないのではないか。キーワードの羅列されたものとして認識しているのではないか。つまり、キーワードと答えを結びつけて覚えていて、そのキーワードがあればこの答えを言う、というような対応のさせ方をしている(別にそれが悪いとは言っていない)のではないか、と。
だから、ちゃんとした日本語の文章でなくても「問題の意図」は認識できてしまう。ゆえに、よほど気をつけて問題文を作ろうとしないと、日本語としてちゃんとした文章にはなり得ないし、逆に日本語としての完成度よりも問題に盛り込む情報の面白さだけを追求してしまいがちである。しかし、日本語としての完成度に無自覚になることが、どんどんクイズの問題を一般の人に理解できない形にしてしまいかねないことは、覚えておいたほうがよい、と自戒の意をこめて述べておく。