2 わたしの問題作りの前提

【固っくるしい文章でごめんなさい】

 佐々木の定義:それを行う集団内でクイズと認められれば、どんなものでもクイズになる。

 今まで日本には夥しい数のクイズ論者がいたと思うが、わたしが目にしたクイズ論はそれほど多くない。その多くない経験から鑑みるに、クイズ論者は自論を展開するための前提として、「クイズとは何か?」という根源的な問いを掲げ、それに対して自分なりに答える、という作業をしていることが多いようだ。わが同朋・本藤氏はかつて「オリジナル・クイズ」という論文の中で「クイズとは、互いに異なり交換可能な『試す』主体と『応える』主体が行う、完結するまで結果の分からないコミュニケーションと、それに付随する行為である」と定義している。

 ここで行う「クイズとは何か?」についての定義は、論者が以下の持論展開に際して公理として用いる最重要事項であるから、どうしたって自分の主張に沿った都合のいい定義になってしまいがちである。本藤氏の例で言えば「ベタ問題」「パターン化した問題」などを批判するために「コミュニケーション」という要素を定義に利用したと推測される。

 そもそも「クイズとは○○○である」という一般的な定義をすることに、現実的な意味はない。クイズというのはたいへん広いものなので、むりやり言葉に押し込めて定義することには、どうしても無理が生じるからだ。また、定義をせずとも、クイズを楽しむことは可能だし、定義したことでクイズが広がることもない。クイズを作ることにも何ら役立たない。定義は、他の主張を批判をするための前提に過ぎないのだ。

 それに対し、最近開設されたわたしの知り合いのホームページにおいては、「自分にとってクイズとはどういう楽しみか」を前提として持ってくることが多い。わが先輩・水谷氏、同朋・Hiro2000氏、後輩・鶴氏らがそうである。これらはたいへん意味のある前提である。何故なら、一人一人がクイズの楽しみを語ることで、それを目にしたわれわれのクイズの楽しみ方も広がっていく。また、クイズ問題を作る視点を広げるのにも役に立つ。そういう意味で、自分にとってクイズのどこが面白いのか、という個人的な意見の方が、一般的定義よりよっぽど役立つ、といえるだろう。

 そういう意味で、わたしなりのクイズの楽しみが何処にあるかをはじめに語ろう。

 と思ったが、それはまたいつか、ということで、ここでは問題作りの前提だけ述べることにする。

 だいたい、わたしは「クイズとはこうあらねばならない」というような思いが殆ど無い。だから、「クイズ問題を作るときにはこうするべきだ」というような規則を持っていない。逆に、誰かがクイズ問題作成の作法のようなものを紹介したら、それを破るような問題を作って楽しむ、それくらいのことはする。

 例を挙げよう。長文化する問題が目立った1997年、「問題文は長くても100字以内」という原則を掲げた人がいた。そんなこと言われると、こちらも意地になってしまう。

 もちろん、「本名は○○」で始まる問題は作らないようにする(理由は次項で)、とか、「〜ですが、では」という接続法は使わない、のような「経験則」はたくさんある。が、それらはあくまでも「そうしたほうがいい」にとどまるものであって、「ねばならない」という強さを持たない。自分の経験則を破った方がいい場合もあるからだ。「100文字以内」に関しても、わたしの経験則として「あまり問題文を長くしないほうがいい」というものがあるのに、それに反する問題を敢えて作った形になる。長ければ長いほど面白くなることだってきっとあるはずだ。 

 そういうわたしだが、唯一頑なに守っていることがある。それが次の前提である。この前提は当「問題作成講座」においてよく登場する考え方であるから、ご記憶願いたい。 

 わたしの前提:主にクイズのために勉強している人が、著しく有利になるような問題にはしない。

 もちろん、これはわたしの個人的な前提であるから、反論もあるだろう。ただ、わたしはかなり気を遣っている。このような前提に至ったのには、いくつかの要素が絡み合っているのだが、一番大きいのは「東大クイズ研に所属していたこと」。

 わたしがクイズに関わり出した1994年ごろは、テレビのクイズ王番組が終わったとはいえ、まだその影響を色濃く残していた。「クイズの実力は、こなした問題数に比例する」とか、「クイズ本を覚えるのがクイズの勉強だ」という考え方が主流であり、オープン大会の問題(マンオブですら)にはクイズ本問題やその焼き直し問題が多く含まれていたように思う。ところが、わたしの所属していた東京大学クイズ研究会の諸先輩方は、クイズ本にとらわれない、自由な発想で個性的な問題群を呈示してくださっていた。その時点で、オープン大会的な問題より、サークルで出題される問題のほうがわたしには刺激的だった。

 1995年、わたしの学年がサークルの執行部になると、さらに「オープン大会的な問題」「クイズ界(ってものはやっぱり無いと思うが)でよく出る問題」から気持ちが離れ、全く東大独自路線を歩み出す。1996年、わたしの1つ下の学年はオープン大会に全く興味を示さず、とことん独自路線を行く(当時出題された問題は、出題者の許可を得て少しずつ紹介していきたいのだが、とにかく斬新だ)。

 そんな彼らでも、多少はクイズ本の問題、クイズ番組の問題と同じ問題を混ぜてしまうことがある。だって彼らは別に「クイズ本の問題を暗記している」わけでも「クイズ番組を暗記するくらいよく見ている」わけでもないんだもの、仕方ないことだ。でも、出題してしまえばわたしのような「クイズ番組好き」や「クイズ本をそこそこ読んだ」人間のカモになる。

 このときのわたしの心境は「うーん、きっとベタと知らずに出したんだろうなあ、知っているのに答えないのも変だしなあ、でもここで押しちゃうと他の人がつまんないだろうなあ」。

 このような心境は、クイズを楽しむのに邪魔だ。そもそもこんな心境になるのも「クイズの勉強をしない人」ばかりの中でクイズをしてきたからだ。東大クイズ研究会に、「クイズの勉強」をする人は鶴祐一以外殆どいない。だから「クイズの勉強をしていれば正解できる問題」を作ってしまうと、鶴祐一の圧勝となり、他の人はつまんない(別に鶴君が勝つことがいけない、といっているわけではない)。鶴君も多分「ベタを正解しても面白くないなあ」という気持ちを持ってしまうだろう。

 結局のところ、東大クイズ研究会で、クイズ屋さん向けの問題を出しても、誰も楽しくないのである。

 別にクイズ屋さん向けの問題をわたしの基準に照らし合わせて「悪い問題だ」と断定するようなことはしない。クイズに「いい」「悪い」はない。あるのは「好き嫌い」だけだ、と何処かのアンケートでわたしは書いた。絶対的に「いい問題」などというものはない。出題する状況によって楽しんでもらえる問題の質は変わってくる。そういう意味で、わたしが問題を作るとき、結局一番気にするのは、以下のことだ。

 「出題する状況に合うようなクイズ問題を作らなければならない。」

 このことの具体例に関しては「題材論」「企画との絡め方」などの項を後に作って語るつもりである。

 

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