3 1997年に書いた問題に関するコラム

 「前フリ」っつーものを本格的に論じようと思っていたのだが、別に発表する場所も無いので、結局中途半端な形でやめてしまっている。

1 前フリ問題とは何か

 現在、様々なオープン大会で出題される問題は、前フリが多く付けられた、いわゆる「前フリ問題」なるものが隆盛を極めている。例えば、次のような問題。

 このように、@最初に難しめの前フリが付いていて、A情報が進むにつれ段々答えが絞り込めるようになり、B最後に決定的な情報が出てくる、というのが前フリ問題の主な構造である。実際はの部分Aのない場合も多いため、ここでは主に@について述べる。

 @の部分に情報としてよく選ばれるのは、本名・文学作品の書き出し・エピソード・第1回は〜・首都(州都)など・船長(代表者、初代社長など)・〇〇がはじめて使った言葉で(発明したもので)など・〇〇語で〇〇・〇〇が日本に初めて紹介した・標高・最高峰・その他もろもろがある。もちろん、こうした「よく選ばれる情報の種類」を使わない前フリ問題も結構ある。が、例えば「人」が答えになる問題では、実際かなりの割合で「エピソード」の前フリが使われている。特に、人を答えにする問題は、本名か「エピソード」がまずポイントとなる。もっとも、人間のしたことは、広い意味で言うとすべてがエピソードと言えるため、これは至極当たり前に思われるかもしれない。そうしたエピソードの中でも、本来その人の業績(仕事、トップ項目)として知られていることではなく、伝記で取り上げられるような、あまり知られていない情報が多く選ばれている。

 エピソードについて少し考えてみよう。エピソードとして最近多い項目に例えば「臨終の風景(死因、最期の言葉など)」がある。例えば、リンカーン大統領やケネディ大統領の死に方は、みんな知っているので@には置かれない。しかし、同じアメリカの有名人でも、エジソンの死に方なら@に置かれ得る。同じ自殺でも、芥川龍之介や太宰治の自殺はBに置かれ、渡辺華山やボルツマンなら@になるだろう(今のところ)。解答となる人が多少メジャーならば、必然的に@の情報選択に、ある程度の意図が生まれる。簡単に言うと、「よりマイナーな情報は問題の最初の方に、最後に決定的な情報が登場する」という図式である。これはもちろんエピソード問題に限らない。

 さて、ここでひとつ疑問を呈しておこう。そもそも、ある情報があったときに、それがマイナーかメジャーか、誰が決めるのだろうか。これは現在のクイズ界全体の構造に迫る重い質問である。すなわち、マイナーな情報とメジャーな情報を分けるのは何か。例えば、下のような問題があったとする。

 あえて不自然な問題文にしてみたが、今どきの情報選択に沿うようにしてみた。ここでBにあたるのは「NHK大河ドラマ第2作目のタイトルは?」という部分である。現在のクイズ界において、これは一種のベタ問題とされている。そういう内容がBに置かれやすい。しかし、この部分の情報が一般的にメジャーであるわけではない。一般性だけを考えると「おのおのがた」が絶対に一番有名である。つまり、前フリ問題の中で情報のメジャー・マイナーの区別を付ける要素は、クイズプレーヤーにとってメジャーかマイナーか、ということだけである。一般性は関係ない。これはクイズプレーヤーに出題することを対象としているので、当然といえば当然である。もう少し言うと、メジャー・マイナーの違いは、クイズを出題する場によっても影響され得る。例えば「芸能王決定戦」というような場であったら、もう少し違ってくる。

 ここまでのことをまとめておこう。前フリ問題の構造は「クイズプレーヤーにとって比較的マイナーな情報からメジャーな情報に流れていき、よりマイナーな知識を持った人に早く押して答えてもらおうとする」ことが目的となっている。ここまで分析してみると、前フリ問題はなかなかよくできた問題形式ではある。何故なら、情報に優劣をつけることで、それを答えるクイズプレーヤーにも序列をつけているからだ。さて、次節ではそうした問題のもたらした影響などを考察してみる。

2 前フリ問題の影響

 さて、今までの準備を持って、前フリ問題の影響を考察する。

 神野氏の本に指摘されているように、前フリ問題を早押しで出題したとする。そのとき先の分析で言う@の部分でボタンを押して答えたなら、観客は「おーっ、すげー」と感心するだろう。すなわち、見せるクイズとして、観客の目を引き付けやすい。と同時に、解答者の前フリ問題への対応力の差がはっきり見て取れるため、見ていて分かりやすい(観客自身と解答者の比較も容易である)。もちろんこれは、「マイナーな知識をより多く持っている人が勝つべきだ」というパラダイムの元で成立することであるが。

 さらに、先の分析で言うBの部分の情報については、ほとんどのクイズプレーヤーに知られていることが多いため、の部分の情報が分からなくても、最後まで問題を聞いて「へえー、そうだったのか」などと、納得できる。正確に言えば、「最後まで聞けば分かるのになあ」という思いを感じさせることができる。これにより、比較的前フリ問題に造詣がなくても、前フリ問題のクイズに参加することはできるようになっている。

 ここんところをもう少し進めて言えば、前フリ問題には、難易度について二重性が内在しているということになる。例えば、ここにひとりのクイズプレーヤー、仮にささき君としておこう。彼は前フリを覚えるというようなクイズの勉強をしていない。自分の詳しいことに関しては前フリだけで押せるが、そうでない問題に関しては強豪に押し負ける、そんな彼である。

 この人が、前フリ問題に造詣が深い人達の中で前フリ問題の早押しに参加すると、ぼろくそに負けてしまうだろう。しかし、そんな彼も、所属するサークル(前フリ対策は全くしていない)で同じ問題を早押しでやると、Bの部分まで読まれることが多いため、そこそこ押せるようになる。このような想像からすると、前フリ問題は解答者の顔触れによって難易度が変わってくるのである。これはクイズ一般がそうであるのだが、前フリ問題では顕著になる傾向である。

 この二重性が存在することこそ、前フリ問題がここまで広まった所以なのである。わたしのような、じゃなかった、ささき君のような、前フリ問題対策を全くしていない人間であっても、前フリ問題はクイズとしてそこそこ楽しめる。しかし、逆にこの二重性がクイズプレーヤーを「前フリ対策者」「前フリ非対策者」に二分することになってしまったことは言うまでもない。

 前フリ問題の特徴としてもうひとつおさえておきたいのは、「対策がたてやすい」こと、若しくは「たてやすくなければならないこと」である。何故なら、@の部分が「マイナーな知識」であるとは言っても、誰も答えられそうにない「前フリ」では仕方ないのである。全部が全部Bの部分まで読まないと答えられないような問題だと、前フリ問題の存在意味がなくなってしまう。それでは前フリ問題を推進してきた人々が一番嫌ってきた「ベタを反射神経で押し取る」というところにいってしまうからだ。

 クイズプレーヤーが目にするであろう何らかの資料(テレビ番組などでも可)に掲載されているような前フリでないと、その問題を前フリの段階で答える人がいなくなる。そして、その何らかの資料、というのは、簡単に言えば「前フリ問題を作りやすい」本(もしくはその他メディアなど)と言える。

 そもそも「問題を作りやすい本」を使用して大量に問題を作ることは、クイズプレーヤーの勉強法として以前からかなり一般的ではあった。で、多くの人がクイズ問題を作るために図書館などを利用しているだろうから、どうしても使用する本は似通ってくる。問題によっては、何の本から作ったか限定しきれる場合さえある。そんなこんなで、クイズプレーヤー、とくに強豪の間では、ある種のお約束的な共同体精神ができているような気もする。特にものすごい早いところで押して正解した問題などには、そういう部分が見え隠れする。要は同じ本から問題を作っただけじゃねえか、そういう思いである。今述べたような意味において、前フリ問題にはからくりが存在すると言える。

 敢えて言おう。現在の強豪クイズプレーヤーのプレーを見た人は、いかにも彼らが「森羅万象に詳しい」という印象を持ち兼ねないが、はっきりいって、そうではない。先ほどのようなからくりが裏にあるのだから、逆に言えばクイズを作りやすそうな本を山ほど読みまくって、問題を作りまくって、問題を覚えまくれば、別に「森羅万象」に興味がなくても、クイズ的にそこそこのところまで行けるのではないだろうか。もちろん、そんな方法が唯一のクイズ上達法ではないし、ぜったいにこんな方法をお勧めしないし、だいいちわたしだってそんなことはしない。また、強豪と呼ばれるクイズプレーヤーが、こういう勉強法ばかりしている訳ではないだろう。

 しかし、クイズの勉強法は相も変わらず問題を作ったり、覚えたりすることである(と思う)。また、後述するように、クイズ問題というものが一種の情報としてクイズ界に流れている現在、そういったクイズ界のお約束的な一般認識のうえに立つ基本問題を覚えることは、強豪の中で当たり前に行われている。例えば、文学賞などで有名である(有名でなくても)小説の冒頭の一節や、船長・最高峰、そういう前フリを覚えることは、強豪にとって当たり前であるらしい。強豪は、そういうクイズ界よく出る前フリに対応することで、強豪たりえた。

 ただ、ここで困ったことが起きる。それは、例えば日本の小説の場合、内容云々より、冒頭の一節を知っている人間こそが、その小説をよく知っている、ということになってしまうことである。確かに、印象的な冒頭であれば、それもある意味妥当かもしれないが、そんなに印象的でない冒頭なんて、覚えようとしなければ頭に入らない。既にある前フリ形式にあてはめてしか問題を作らないからこのようなことが起きるのである。で、このようなことが起きると、クイズというものが一般の人はもちろん、多くのクイズプレーヤーから乖離してしまう。もちろん、だからといって小説の内容に関することを出題すればいいのか、というとまた別だが、結局、前フリ問題という形式を続ける限り、このことは免れ得ない。前フリに対応しようとするプレーヤーだけが数々の正解をものにし、それ以外のプレーヤーには入る隙がない。そうなると「クイズ=前フリ」に近くなる可能性もある。もちろん、現在のクイズは前フリ問題だけではないことは分かっている。だから、これ以上の考察は「題材論」に謙ることにする。

3 ベタ落ちについて

 これからのクイズ界を変革しようとしている人達は、型にはまった前フリを「予定調和」ととらえ(1997年度マンオブパンフ参照)ているようである。そして、彼らがどのように問題を変えて行こうとしているかを見ると、前フリ問題の可能性を探り、新たな題材などによる前フリ問題の再構成をして、難易度を下げようということであるらしい。そしてこの発想で作られた問題が、1997年度のマンオブや、吉屋氏の企画「嶺上杯」の問題であろうと考えられる。もっとも、ここで言う「これからのクイズ界を変革しようとしている人達」というのは、その吉屋さんであったり、連盟の神野氏であったり、その他彼らに同調する人達のことであり、まだまだクイズ界では主流派とはなっていないが、おそらくこれからの台頭目覚ましい人達となるのであろう。

 さて、彼らの問題を見ると、気になることがいくつかある。1つはあくまでも前フリ問題という形式にこだわっていることである。前フリということにこだわっている限り、抜本的な改革は絶対に不可能である。例えば「嶺上杯」の問題には「考案者」「作成者」「何語で〇〇」といったような、従来の前フリが山のように使用されている。いくら「問題文は100文字以内でなければならない」などと言った所で、構造がほとんど同じ問題、しかもほとんどはベタ落ちの問題では、今までとほとんど同じ状況に堕することになろう。何故なら、前フリ問題に関する問題点というのは、主に「対策をたてやすい」という点にあるからだ。そして、これからこの傾向の問題を作成し続けると、いずれ対策されまくって今のクイズを同じ弊に陥るかもしれない。また、例えば次のような問題を見てみたい(「天衣無縫」p.26)。

 問題文として変な感じもするが(「各人特有のこれが付いている溝」という部分は文法的に明らかに変で、「人それぞれ違った模様で指についている溝のことを何というでしょう?」くらいにするのが普通だろう)、それはさておく。この問題は「finger print」の部分で押されて正解している。「指紋」というものはクイズにあまり出題されないジャンルだから、@の部分で押せなかったのだろう(つーか、識別方法って何?)。彼らの問題作成に対する臨み方は「今まであまり出なかったジャンルからも出題する」というものであるから、それには沿っている問題だと思う。

 が、いくら目新しい素材の問題であっても、このような問題ばかり出題し続けると、いずれは最初の前フリで押されるようになっていくだろう。結局クイズプレーヤーというのは、勝つために対策を立てるのであるから、今までの勉強法が新しいジャンルにも適用されていくだけである。かつてTQCで言われた名言に「傾向があるから対策がある」というものがある。これは正にその通りで、前フリ問題、特に彼らの作っている前フリ問題(1997年度マンオブ問題も含めて)は、正に対策が立てやすい問題の好例なのである。

 前フリ問題だから悪い、という単純なことではなく、一般に馴染みの無い、もっと言えばクイズの為に覚えなければ触れられないような前フリを多用していることが問題なのである。しかも「本名は〇〇」とか「考案者」などのそういう前フリは、興味すら湧かないようなものであり、そういうのを使って問題を作るのは確かに楽だが、それでは今までと同じなのだ。

 「ベタ落ち」を多用している点も気になる。ベタについては前著「現代クイズ論」でわたしが軽く述べたし、本藤氏も「オリジナル・クイズ」でも言及されているのだが、簡単に言って、ベタというものを「易しい問題」だと思う発想こそが、クイズ界を今のような状態にしたのでは無かったか。「勉強法」という観点のみから、クイズ的な難易度の基準としてベタを最易問とすることが、「ベタ=基本問題」とし、「クイズ的題材」を生み、「ベタをひねったクイズ的難問」を生んでいるのだ。

 何度でも言うが、「ベタ=易しい問題」ではない。難易度の基準は、一般の人におくべきである。それが正常なバランス感覚というものである。誰だってクイズを始める時点では一般の人なのだから。楽しめるクイズを目指すんなら、一般の人を基準にしなければならないとわたしは思っている。何故なら、ベタを出し続けて、ベタを知らないとクイズに勝てないような状況を作ってしまうことは、新人がクイズ界に入ることを拒絶することになってしまうからである。いつでもクイズ界に必要なことは、新人をいかにして楽しませるかということ、クイズの楽しさをなるたけ多くの人に知ってもらうことなのである。

 気になること2つめは、「実力」という概念にこだわっていることである。これは他のクイズプレーヤーの思想的風潮を鑑みれば仕方のないことかもしれないし、クイズを変えようとしている彼らの中に「クイズ大会は実力ナンバー1を決めるべきだ」という思いがあるのかもしれない。これに関しては本書別項「実力論」を参照していただきたいが、ここでは「実力を反映させることが何故必要なのか」という疑問を呈するにとどめておく。

 わたしは基本的に、彼らの主張、クイズ界を変えて行こうとする熱意には賛成している。だからこそ、今のうちに再考してもらいたいのである。確かに、関西や名古屋などのプレーヤーに代表されるような、大きなクイズ的パラダイムに立ち向かおうとすることは難しいだろうし、それをしようとしている彼らには敬意すら感じている。「お前は何もしてないくせに、偉そうなこと言うな」と言われても何ら反論できないが、それでも言っておきたい。

 彼らの目指す前フリ問題の路線でクイズ界を引っ張って行くことは、確かに可能であるかもしれない。しかしそれは、非常に短期間で終わる危険性がある。何故なら、どうしても彼らの問題に血の通った要素が見いだせないからである。結局は今までの前フリ問題と一緒で、百科事典的な(たとえ百科事典そのものを使っていなかったとしても)作り方によって前フリを構成している限りは、いずれ対策を立てられて、出題する問題がなくなってアウトになるだろう。もう少し根源的なところ、「前フリ問題こそクイズのおもしろさを体現できる」というパラダイムこそ疑うべきところなのではないだろうか。もしくは、もっと違った前フリ問題を作っていくことが大切なのではないだろうか。はっきりいって、クイズの言葉だけでクイズを語るのは、そろそろやめるべきなのである。

4 対策のたてにくい問題

 クイズに勝つためだけにクイズを行う、などという極端な人はいないまでも、クイズに強くなるためにさまざまなことをしているクイズプレーヤーは多い。クイズに強くなるために何をするか。多いのは、自分で問題を作る、クイズを山ほど行う、おおむねこんなところだろうか。

 かつては、クイズのためだけに本を読んだり、クイズのためのクイズを、クイズに強くなりたい一心でしている人が多かったらしい。わたしが某所でクイズ界に長年身を置かれている或る方(社会人系統のクイズサークルに入部されている)に聞いた話では、彼は高校時代、クイズのためだけに様々な本を読んだりしているうちに、そういった行動が馬鹿馬鹿しくなってしまった、ということである。そりゃそうだろう。すべての知的活動がクイズのための行動となってしまうと、そりゃつまんないだろう。

 話を戻そう。今はそこまで極端でないにしろ、やはり同じように、クイズのためのクイズをしている人が多く見受けられる。そしてそれを可能にしているのは、おびただしいまでのクイズ問題集である。サークル単位のクイズ問題集の多くは様々な方法で様々な方面に流出し、クイズプレーヤーはそこにある問題をなるべく暗記しようとする。そうすることが、確かに勝利への近道であるという、現在の状況があるからだ。そしてその状況は「対策のたてやすい問題」、具体的には前フリ問題の氾濫に端を発している。

 さて、ここからはわたしの個人的主張であるが、クイズ問題は「対策のたてやすい問題」よりも「対策のたてにくい問題」の方が、可能性を秘めているし、第一面白いと思うのである。もっと言えば、「対策のたてようのない問題」ほど、正解したときの喜びは一入であるはずだ。わたしがいつも言うように、クイズの楽しさの一番大きな部分は、「正解すること」にある。正解すれば何故楽しいのか、それはよく分からないけれど、いわば本能的な部分でそう思うのだろう。ともかく「正解すること」は、本来日常のことではない。

 ところが、「対策のたてやすい問題」になると、「正解すること」が、ある程度当たり前になってくる。褒められるのが当たり前になった子供は、少しくらい褒められても喜ばなくなるが、それと同じ状況が生まれる。すなわち、「正解すること」から本来導き出され得る、クイズ本来の楽しみの大きな部分が奪われた状態を人工的に作っているのが「対策のたてやすい問題」なのである。もちろん、そういう部分が無くなったことが、すなわちクイズにとって不幸だとするのは早計で、そういう方面ではそういう方面なりに違った楽しみがあるはずであるが、わたしにはあまり分からないので深入りしない。

 今までのところ「対策のたてやすい問題」の氾濫という現象についてのみ記述したが、実際はさらに状況は進んでいる。まず、「対策のたてやすい問題」を出題しないと、スルーの連続になってしまいがちである、という状況がある。これは1997年3月の一橋オープンで顕著に表れた傾向である。普段いかに難問を答えているプレーヤーであっても、「対策のたてにくい問題」、しかもベタ落ちしないとなると、案外正解できなくなってしまうものだ、という従来のわたしの主張が「仮に」ながら証明された格好になった。

 また、「対策のたてやすい問題」というのは、対策をたてたもの勝ちになってしまう。もちろん、現在のクイズ界はそれを望んでいる(対策を立てたものが実力者、と見なされるから)訳だが、それだけでクイズが終わってしまうのは、あまりにも淋しい。クイズというのは、それだけのものではない。もっとオツムを使ってひねりを加えた問題とか、そういうのを作る人が増えてほしいのである。だからわたしは、「対策をたてにくい問題」の復権を虎視眈々と目指している人がいてくれていることを願っている。具体的にどういう問題が「対策をたてにくい問題」なのかは、わたしの問題を見てくだされば分かると思うので、詳しくは述べない。

 あとひとつだけ言えば、「対策のたてやすい問題」が、即マンネリにつながる虞れがあることも軽視できない。難問もそうだが、マンネリに陥るクイズに魅力を感じる奴がどれだけいるのか。何があるか分からないような楽しみこそ、クイズの楽しみだとわたしは思うのだが。

5 題材について

 クイズ問題作成に関して、選ばれやすい題材と選ばれにくい題材が存在している状況がある。このことは神野氏も指摘した所であるが、もう少し詳しく見てみたい。

 既に述べたことだが、今までのクイズブームとかで散々蓄積されたクイズベタというものが、今もクイズ問題の題材状況にとても影響している。それに加えて、クイズが難問化する過程において開拓されたいくつかの題材、例えば「外国映画」「〇〇賞」「〇〇事件」「〇〇現象」などがそれである(参考:吉屋大樹氏「天衣無縫」p.78)。この分野がよく出題されるようになると、そこだけ難問化が急速に進んでしまう。つまり、よく出る題材というものが、クイズの難易度に直接かかわってくるようになってしまったのである。

 何でまたこれらのジャンルが出題されまくっているのか。まず、はっきり言ってこれらのジャンルの問題は、簡単に量産できる。おあつらえ向きに「文化賞事典」「科学者の名前が付いた現象事典」のような本はちゃんと存在している。こういう本が1冊あれば、いくらでも問題は作れる。また、吉屋氏も前述の著書で指摘しているように、今までのクイズ界を作ってきたとされる強豪たちがそういう問題をよく出題していることもその傾向を強めているらしい。そうだとすると、クイズ界というものは、「題材」という点においてみんなが同じ指向性を示している世界なのかもしれない。今の実力主義、という問題も、題材という点から再考察できるはずである。それについては「実力論」で語る。で、だからこそ、もっともっと題材論については深めなければならないだろう。現在のクイズ論はそこが多少弱い。

 さて、よく出る題材が固定化されることは、クイズにとって決して幸福なことではない。まず、それらのジャンルに全く興味の無い人にとっては、どうしようもないという点である。これは難問化とも絡み合って、「カルトQ」に近い状況にクイズをしてしまうことになる。何でも出題できるのがクイズのよさであったはずだが、それが失われ、極端に言えばいくつかのジャンルのカルトQを行っているような状況になってしまっている。水谷さんはかつて「クイズ」というジャンルが生まれてしまっている、ということを指摘しておられたが、全くそのとおりである。クイズでしか出題されない、役に立たない事柄は(その世界に詳しい人以外にとっては)全て「クイズ」というジャンルとして見ることができよう。例えば1996年度のマンオブの決勝に出題された映画問題など、よほどの映画通にとってもチンプンカンプンではなかろうか。つまり、あれはもはや「クイズ」というジャンルだと言ってしまえるわけである(乱暴なのは分かってるが)。そうすると、「カルトQ」の世界を見てもらっても分かるように、「クイズ」というジャンルに詳しくない人は入り込めないという、狭い世界になってしまうのである。そういうところを考えるに、やはり新しい題材を探索するところにもっと自覚的にならなければいけないのではないか、と思う。そういう意味ではベタ落ちする問題も外国映画の難問も、たいして変わらんのである。どっちもクイズによく出るというだけで、大して広がらない。

 題材の偏り(ジャンル、とは違うことに注意)という問題は、クイズプレーヤーがかねてから持っていた心情とも絡み合って、複雑な様相を呈している。例えば「第1回〇〇」とか、「唯一の」とか、本来クイズプレーヤーはそういう言葉に弱い。やっぱり「クイズに出るんじゃないか」と思って覚えてしまう。覚えてしまうから、安心して出題される。こういうような心理が現在のクイズ界を築き上げている一因かもしれない。吉屋さんが言う強豪の影響というのは、こういう文脈の延長としてとらえれば、決して彼らだけを非難できないということが分かるだろう。クイズをやってるだけで、ある意味同じ穴のムジナ。だからこそ、そういうところに注意し、あるときには否定するくらいの気持ちでなければ、新しいクイズの地平は見えて来ないはずだ。

 

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