第1日目 昭和59年7月6日(金) 曇時々晴
4時半起床。
昨晩は友人3人が僕の旅立ちを喜んで遊びに来てくれたため、1時頃まで酒を飲みながら、しばしの別れを惜しんだ。友人の帰った後、2時過ぎに床についたが、期待と不安のためなかなか寝られず、ほとんど寝ていない状態での出発となった。
僕が自転車によるこの旅を考え始めたのは、一昨年の秋からである。
当時高校3年生だった僕は、それまで生徒会活動に夢中で、勉強をほとんどやらない、いわば「落ちこぼれ」の状態だった。そのようなことから大学入試に落ち、すべてに自信を失い、これから先どうすべきなのかと、様々な疑問や不安に追われる毎日が続いた。そして、昨年の正月に、卒業したら旅に出ようと決意したのであった。(最初は4、5ヶ月間に渡る日本一周を計画していた。)
3月1日、僕は卒業と同時に、資金稼ぎのためにアルバイトを始めた。アルバイトとは言っても学生の合間にやるのとは異なり、毎日朝早くから夜遅くまでという状態で、就職しているかのような錯角を持つほどの日々が6月下旬まで続いた。ほとんど休みをとらず、毎日夢中で働いた。
そんな生活の中、両親に日本一周の話を打ちあけた。両親は目の色を変えて反対してきた。特に父は、元来まじめ一本やりな人間のため、僕を「気違い」扱いしていて、話し合いにもならない... そんな毎日が続いた。僕は仕事をやりながら、何とか説得しようと努力をしたが、根本的に考え方の違うふたり、いくら言っても平行線のままであった。
そうこうしているうちに出発予定日が近づいてきた。僕は仕方なしに、期間を半分以下の2ヶ月に縮め、東北と北海道を走るということで、何とか納得してもらったのだ。
6月28日、3ヶ月に及ぶアルバイトをやめた。実はこの時、仕事を覚えて楽しくなっていたこと、片思いの彼女がいたことなどから、旅に出ないで仕事を続けようかとも考えたのである。また、この時、これまでのアルバイトが、「資金稼ぎのための手段」であったということさえも忘れている自分に気付き、北海道への思いも揺らいだ。
とにかく、一昨年の暮れから様々なことがあったが、本日出発することになった。
5時55分出発。家族のそれぞれの見送り方の違いが実に印象的であった。妹からは手作りのお守りをもらった。走り出して100m、涙をこらえて後を振り返った。
5時、テント場着、ここは栃木県の西那須野町と黒磯市の境で蛇尾川の川原だ。一日走っただけでも何だかとても疲れてしまった。今までの最長の旅は8日間であったので、これから2ヶ月間も走ると思うととても不安だ。加えて僕は今回の旅の途中で、北海道の知床岬に行く計画があるのだ。
ここは日本で数少ない未開の地で、今だ道も何もない大自然で、ヒグマが数多く生息する場所なのだ... そのことがあるため一層不安になる。もしかしたら知床で死ぬかもしれないという危険があるため両親にはとうとうこのことは言わずに出発してしまった。今となっては一言言っておくベきだったかと多少後悔している。
まだ7月の上旬でツーリングのシーズン前のせいだろう、サイクリストに会わないので走っていても少々つまらない。昼頃地元のおじさんから、いろいろ聞かれた。旅に出ると毎度のことだが、ヒーローになったような気分であれこれ質問に答えた。また、夕方の買い物は地元のおばさんと楽しい話ができてとてもよかった。旅に出るということは単に景色を楽しむだけでなく、地元の人達から土地の話を聞くことがとても楽しいのだ。その手段としても自転車はたいへん適している乗り物だと思う。
テント場の川原に降りる少し前に雨に降られビショビショになった。これから2ヶ月間は野営生活... まさに自然と一体となる生き方だ。現在7時半、雨もすっかり上って、明日は晴れの暑い日になりそうだ。何といっても天気が一番だ。雨は上がったとはいえ、やはりひとりの夜は淋しい。雨の雫が橋の上からポタン、ポタンと落ちてくる。橋の下では車の音がうるさいが、昨夜寝ていないのでぐっすり眠れそうだ。それにしても、天下の4号線だけあってトラックばかりでうるさい。
今夜はシュラフカバーだけで十分だ。暑くてシュラフには入れない。カッパを枕にして寝よう、雨の中カッパを着て走るのは暑苦しくていやだが、枕にするのはちょうどよい。友人からもらったポケット灰皿がとても役立っている。日記ばかり書いていると時間がなくなるので今夜はこの辺にする。消灯8時10分
本日の宿泊地 蛇尾川(西那須野、黒磯の境)、本日の走行距離 120km