紀 伊 安 楽 寺 多 宝 小 塔

紀伊安楽寺多宝小塔

和歌山県立博物館での展示公開以前の安楽寺多宝小塔に関する情報

安楽寺多宝小塔は南北朝期の作と推定される。総高2m、基壇一辺0.9m。重文。
相輪は木製で露盤を除き1本で作る。下層の背側面は全て板壁、屋根は本瓦形板葺。
阿弥陀堂に安置と云う。本尊は大日如来を安置。有田川町ニ川。
○2003年に追加、2015/03/06現在出所不詳。
 紀伊安楽寺多宝小塔01
○図1:2006/09/26追加:清水町商工会HPより
  ※清水町商工会は平成21年4月、吉備町商工会、金屋町商工会と合併し、有田川町商工会となる。
  清水町商工会ホームページは閉鎖される。
 紀伊安楽寺多宝小塔02
2012/08//20追加:
○「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より
 紀伊安楽寺多宝小塔03:安楽寺木製多宝小塔
2015/03/06追加:
○サイト:「日本の塔総覧」(閉鎖) より
 紀伊安楽寺多宝小塔04

安楽寺多宝小塔:和歌山県立博物館での展示公開

参考文献:「有田川中流域の仏教文化 重要文化財・安楽寺多宝小塔修理完成記念」和歌山県立博物館、2017

多宝小塔は有田川流域の二川の安楽寺に伝来する。
2015年より修理が行われ、2017年に修理が完成し、完成を記念して、和歌山県立博物館にて展示される。
(安楽寺に於いては通常非公開であったといわれる。)
有田川は高野山奥之院を流れる御殿川が源流であり、永峯山脈を蛇行して西流し、紀伊水道へと注ぐ。
 この川の中流域では、古代・中世には阿弖川荘が成立していた。(阿弖川:阿諦川、阿氐川、阿手河、当川とも)
阿弖川荘はもと左大臣藤原仲平の遺領石垣荘の一部であったが、正暦3年(992)石垣荘の半分の上荘を平惟平が売得、長保3年(1001)氏寺白川寺喜多院(のち寂楽寺)に施入、その頃から阿弖川荘と呼ばれるようになる。(阿弖川荘の領域は旧清水町のほぼ全域に相当する。)
 一方、阿弖川荘は高野山の膝元ともいうべき場所にあり、阿弖川荘は高野山の四至の内との主張をしている。
古代・中世を通じ、高野山は在地勢力の湯浅氏と手を組み、寂楽寺を排斥すべく蠕動する。寂楽寺は本所円満院門跡とともにそれに抵抗する。
 かくして、さまざまな抗争を経て、ついに嘉元元年(1304)本所圓満院に阿弖川荘の領有を放棄させ、阿弖川荘を高野山領にすることに成功する。高野山は阿弖川荘を高野山領に組み込むという長年の宿願を果たしたのである。
 さて、安楽寺多宝小塔は南北朝期、14世紀の建立と考えられていて、この時期は阿弖川荘が高野山領となった時期に重なるのである。
一方この多宝小塔の本尊は大日如来(像高20.6cm、平安後期の作で、しかも大型の仏像の向背に取り付けられた仏体であろう)であり、しかもそれは胎蔵界大日如来である。通常塔本尊を大日如来とする場合、金剛界大日如来とする事例が圧倒的に多いのであるが、これは何を意味するのか。
考えるに高野山壇上伽藍根本大塔の本尊が胎蔵界大日如来なのである。つまり、高野山領となった阿弖川荘の安楽寺に多宝小塔を建立し、しかも高野山大塔と同じ胎蔵界大日如来を本尊と安置するということは、高野山上の大塔を荘園内に移植するという思想的背景があるのではないかと考えられるのである。
阿弖川荘安楽寺多宝小塔の建立時期が阿弖川荘が高野山領となった時期と重なり、そしてその本尊を敢えて胎蔵界大日如来としていることは、まさに高野山の強い思想的また世俗的意思が感ぜられるのである。
 安楽寺多宝小塔本尊1:和歌山県立博物館HPより転載
2017/03/02撮影:
 安楽寺多宝小塔本尊2     安楽寺多宝小塔本尊3

2017/03/02撮影:
◎安楽寺多宝小塔
総高209.5cm。下重一辺63.3cm。建立時期は南北朝期(14世紀)と想定される。重文。
屋外の多宝塔をそのまま縮小した外観と内部構造を有する。
現状は保存庫内で保存されているが、保存庫の老朽化による建て替えを契機に、多宝小塔の修理を実施する。
基壇は木製で、5間に分割し、各間には格狭間を造る。
下重は内部には柱を建てず、1室とする。側柱には大佛様の木鼻をつける。柱間は正面中央間のみ桟唐戸、他は全て横板壁とする。組物は平三斗、中備は間斗束、軒は二軒平行繁垂木。
亀腹は木製で四分割して造る。腰組は平三斗を載せる。
上重軸部は丸太材を刳り抜き12本の柱と壁全てを作り出す。組物は内部まで一般の多宝塔と同様の構造を採る。
屋根は瓦棒に女竹が使われる。これは後補か。
心柱・相輪は路盤を除き、1本からの造り出しである。

和歌山県立博物館HPより転載
 安楽寺多宝小塔修理後:左図拡大図
 安楽寺多宝小塔修理前

今般の解体修理で、本多宝小塔は1度の大修理と3度の小修理が行われていることが判明する。
大修理では下重四面とも中央間は桟唐戸、両脇間腰長押上連子窓であったのを、一面のみ桟唐戸を残しあとは全て横嵌め板に改変される。
 ※今般の修理では初重の改変は元に戻すことで修理が行われる。
また大修理では下重の頭貫より下の軸部は時計回りに90度回転させられて組立られ、上重の大斗から上は180度回転されて組立られ、当初の背面側が正面となる。

「有田川中流域の仏教文化 重要文化財・安楽寺多宝小塔修理完成記念」より転載。
 多宝小塔立断面図
 多宝小塔下重平面図
 下重内部(竣工):左側面から撮影

 安楽寺多宝小塔11
 安楽寺多宝小塔12
 安楽寺多宝小塔13
 安楽寺多宝小塔14
 安楽寺多宝小塔15
 安楽寺多宝小塔16
 安楽寺多宝小塔17
 安楽寺多宝小塔18:左図拡大図
 安楽寺多宝小塔19
 安楽寺多宝小塔20
 安楽寺多宝小塔21
 安楽寺多宝小塔22
 安楽寺多宝小塔23
 安楽寺多宝小塔24
 安楽寺多宝小塔25
 安楽寺多宝小塔26
 安楽寺多宝小塔27
 安楽寺多宝小塔28

 多宝小塔下重29:左図拡大図
 多宝小塔下重30
 多宝小塔下重31
 多宝小塔下重32
 多宝小塔下重33
 多宝小塔下重34
 多宝小塔下重35
 多宝小塔下重36
 多宝小塔下重37
 多宝小塔下重38
 多宝小塔下重39
 多宝小塔下重40
 多宝小塔下重41

 多宝小塔上重42:左図拡大図
 多宝小塔上重43
 多宝小塔上重44
 多宝小塔上重45
 多宝小塔上重46
 多宝小塔上重47
 多宝小塔上重48
 多宝小塔上重49
 多宝小塔上重50
 多宝小塔上重51
 多宝小塔上重52
 多宝小塔相輪53
 多宝小塔相輪54
 多宝小塔相輪55

 多宝小塔収納五輪塔:写真は一部、多宝小塔初重に保管されていた。
 多宝小塔収納大塔模型:多宝小塔初重に保管、高野山大塔模型であり、裏面に弘法大師1100年遠忌、根本大塔記念・・とあるという。

2022/01/27追加:
○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
  (「建築史学」:第68号、2017年3月 所収) より
 本多宝小塔は重文指定(昭和28年)であるが、多宝小塔では唯一、建造物として単独で指定をされている。
 安楽寺は阿弖川荘にある。
阿弖川荘は右大臣藤原仲平の領地石垣上荘がその始りで、長保3年(1001)平惟仲が白河寺喜多院(後に寂楽寺)に施入したころより阿弖川荘の荘名となる。
高野山はこの頃から領有権を主張し、寂楽寺検校の円満院門跡と領家寂楽寺とこの地の地頭であった湯浅一族と長年領有を巡って抗争する。
嘉元2年(1304)円満院門跡が領有を放棄し、遂に高野山領となる。
 安楽寺は高野山真言宗に属する。但し、創建・沿革は詳らかでない。
「続風土記御調に付書上帳」(文化7年/1817、「清水町史」史料編所収)の安楽寺の項には、一枚板に「安楽寺」と墨書された扁額(下に掲載)について、「是は大塔宮阿弥陀堂に為される、成人御候節、御染筆ヲ以安楽寺建立仕候と申伝へ御座候、旧記等者無御座候」とある。
阿弥陀堂については、「阿弥陀堂 三間四方」と記され、続けて「大塔宮が建立中の阿弥陀堂を拝し、板に安楽寺と記し、完成した寺を安楽寺と称した」(大意)と云う。
安楽寺と記された扁額は今も安楽寺に伝わる。
さらに、多宝小塔は阿弥陀堂に安置された伝え、現在はRC造の収蔵庫に納められるが、その収蔵庫の前身は阿弥陀堂という小宇であり、この阿弥陀堂は明治33年、更に前身の阿弥陀堂の部材を一部再用して改築されたものと伝わる。
明治33年以前に存在した阿弥陀堂は建立年代は不明ながら「茅葺三間四面廻り椽付」と伝わるから、「書上帳」の阿弥陀堂と同じ建物と推定される。
おそらくは多宝小塔はこの前身阿弥陀堂に安置されていたのであろう。
 多宝小塔初重には本尊として胎蔵界大日如来(像高20.6cm、上に掲載)を祀る。11世紀頃の造像で、大日如来光背の頂部に用いられていたものと想定される。
  ----詳細な仕様など、修理・復元などについては、直接、本PDF文書を開き、参照願いたい------
 なを、本PDFには、近世以前に建立(造立)された木造の多宝小塔11基が写真付きで概要が一覧できるので、合わせて参照願う。
 多宝小塔修理前     多宝小塔竣工     多宝小塔竣工初重内部     多宝小塔修理前後立平面図
 ※「角川地名大辞典(旧地名)」阿氐河荘(古代〜中世) より
長保3年6月26日、平惟仲は京都北白川の山あいに建立した氏寺の白川喜多院(のちの寂楽寺)に「紀伊国在田郡石垣上庄壱処〈字阿弖川〉」など10か所の所領を施入し、一族の僧侶の中から白川寺喜多院の別当とする旨を指示した(高野山文書/大日古1‐8)。
その後2代目別当忠覚は寂楽寺を法勝寺の末寺とし、検校職を行尊僧正に寄進している(寂楽寺別当次第/書陵部紀要15)。
この検校職は事実上の本家職と考えられ、以降本家職は4代別当覚証の時一時山門の楞厳院に寄進されたこともあるが、行尊の法統である園城寺の円満院門跡に、領家職は寂楽寺に伝領された。
 ※広辞苑 より
阿弖河荘(あてがわのしょう)
紀伊国有田川の上流に位置する山間の荘園(和歌山県有田郡清水町)。阿弖川荘、阿瀬川荘とも書く。10世紀末には石垣上荘ともいわれた。中納言平惟仲が長保3年(1001)に京都の白川寺喜多院(寂楽寺)にこの荘園を寄進した。
12世紀なかば以降、領有をめぐって寂楽寺と高野山が争っている。
承元4年(1210)御家人湯浅氏が地頭職に補任され、以後、寂楽寺(本家職は円満院)、高野山、湯浅氏の三つどもえの争いが展開する。
建治元年(1275)の有名なかたかな書きの百姓申状は、寂楽寺と地頭との争いのなかで、『貞永式目』の注釈書唯浄裏書の作者で寂楽寺雑掌斎藤唯浄が書かせたものである。
阿弖河荘は上、下からなり、12世紀には田地計100余町である。
嘉元元年(1304)円満院は領主権を高野山に譲ったが、湯浅氏と高野山の争いはなお続いた。

2022/01/27追加:
○「特集 安楽寺多宝小塔の保存修理」結城啓司(「風車75 2016夏号」和歌山県文化財センター 所収) より

多宝小塔が建造物として単独で重文に指定されているのは、この安楽寺多宝小塔が唯一のものである。
 (三渓園多宝塔は建造物ではなく工芸品として指定、遠照寺のそれは重文・釈迦堂の附としての指定である。)
平成27年から約1年(14ヶ月)かけて、保存修理が実施される。
残念ながら棟札や墨書は発見されず、何時、誰が、どのような理由で建立したのかは、判明せず。ただ柱に隅延びがあり、面取りが大きいことそして細部の意匠から室町前期の造作と考えられる。そしてその設計の意図は厨子としてではなく、一般の多宝塔と同じ建築物として計画されたことが垣間見える。
 (隅延び:古代から中世には隅柱を他の柱より少し長く造り、そのことにより頭貫は隅で少し上に上り、軒反りが美しく見える効果を狙う技法。室町注記頃からは使われなくなるとされる。)
今回の調査により多宝小塔は大きな改造が加えられたことが判明する。
一つは下重の外壁部分で、現状は正面中央のみが扉で、その他の柱間は全て板壁になっているが、建立当初は正面とその左右面の三面に扉があり、また両脇間は連子窓であったことが判明する。
さらに、元々の建物の正面は、現在の左側面であったことも判明する。扉を撤去する際に、現在の正面部分のみを残し、正面としたようである。
 (今回の工事では、創建時の姿に復元される。)
 多宝小塔修理前全景     多宝小塔上重軒廻り     多宝小塔上重組物

安楽寺の文化財

安楽寺の創建や由来は明らかでない。(「文化7年「続風土記御調に付書上帳」)
真言宗、中原村善福寺(現存)末。

 安楽寺扁額:桧の板材である。大塔宮の熊野落ちの時、阿弖川荘を通過する際染筆したと伝承するも、史実を欠く。この度の修理において、小塔基壇部床板の複数の部材と扁額板材の巾や厚みなどの規格が一致し、各材の年輪も概ね整合することが判明し、塔と扁額が南北朝期の一連の造営事業の中で製作されたことが確認される。元は二川村の阿弥陀堂に伝来する。
 阿弥陀堂の創建・由緒は不詳、今安楽寺境内の一段下にある収納庫(多宝小塔を安置)が阿弥陀堂を引き継ぐという。
 安楽寺阿弥陀如来坐像:収納庫内に多宝小塔とともに安置。12世紀の造立と推定、京都寂楽寺が関与して造立か。
 安楽寺日光菩薩立像:安楽寺本尊薬師如来の脇侍である。本尊薬師如来と共に二川村東光寺の本尊であったと伝わる。12世紀の造立と推定、東光寺は江戸後期に火災焼失という。
 安楽寺四天王立像:左より多聞天、広目天、増長天、持国天立像 、増長・持国天像は12世紀の造立で、多門・広目天像は室町期の擬古作であろう。
 安楽寺鰐口:「作州美和荘長福寺藤原助真」「応永7年卯月下旬大工助房」と刻む。
 安楽寺大般若経:二川丹生明神(現城山神社)に納められた大般若経600巻は万治元年(1658)同社再興の時、二川村、物川村、東大谷村に200巻ずつ分けられる。元和泉花林寺(堺蜂田寺)の伝来した一切経である。写真は第532巻、寛治4年は1090年。


2017/04/09作成:2022/01/26更新:ホームページ日本の塔婆